「部長、只今戻りました」
「ああ。今日はご苦労だったな、菅沼。異常は無かったか?」
書類から目を上げて、杉本は帰社の報告に来た部下に視線を合わせた。対する真紀も落ち着き払って、報告を続ける。
「はい。道中異常はありませんでしたし、特Sの妊婦健診も問題無く終了致しました」
「そうか、それなら結構」
「藤宮様の検査結果では、これまでに異常は全く認められませんので、今現在は二週間に一度の健診で構いませんが、三十六週を過ぎる三月下旬からは、週に一度の受診になります。その時期からは、必然的に病院に出向く機会も増えますが」
それを聞いた杉本は、納得して頷いた。
「それはそうだな。彼女の仕事の方はどうだ?」
「藤宮様に確認しましたが、スケジュールを前倒しで進めた結果、後一回出版社に出向けば、当面必要な作業は無いとの事です」
「順調で何よりだ。それなら落ち着いて出産を迎えられそうだな」
「はい。私も微力ですが、全力でサポートさせていただきます」
「そうか。それでは当面、藤宮様の外出時の護衛は、君に任せよう」
「ありがとうございます。それでは報告書を作成してきます」
「ああ、下がって良い」
互いに笑顔で報告を終わらせてから、杉本は密かに安堵した。
(やはり女性を付けて、正解だったらしいな。しかし日下部も飯島も、妊婦が相手だと勝手が違ったか。それ位で対応に窮するとは、プロとして少々情けないな)
そんな事を考えながら、杉本は早速自分の席で報告書を書き始めた真紀を、頼もしげに見やった。
それからは平穏無事に時間が過ぎ、夜の時間になって直帰する以外の者達が、続々と職場に戻って来る。その中の一人に、真紀が所属する班の責任者である阿南がいた。
「戻りました」
「主任、お疲れさまです」
「おう、阿南。戻ったか」
「チーフ、ご苦労様です」
その声に、阿南が反射的に振り向いて声をかけたが、それが不自然に途切れた。
「ああ、そういえば菅沼。お前、今日は特Sの護衛に」
「えっと……、よし、撮れたから……、送信っと」
何やら自分に向けてスマホをかざした真紀が、どうやら写真を撮った上にどこかに送信したらしいと察した彼は、眉間にシワを寄せながら彼女に向かって歩み寄った。
「……菅沼。お前、今、何をした?」
その問いに、真紀は悪びれずに答える。
「チーフの写真を撮って、友人に送りました」
「友人? 誰に?」
「今日プライベートで友達になった、仕事では特S護衛対象の、藤宮美実さんです」
「…………」
真紀がそう口にした瞬間、ざわめいていた室内が見事に静まり返り、全員の視線が真紀と阿南に集中した。
「ちょっと待て……。その女性は確か、会長の実妹で社長の義妹で、信用調査部門の小野塚部長補佐をあっさり袖にした人物じゃなかったか?」
「そうですが。それが何か? 彼女は真面目な人ですから、チーフの写真を変な用途に使ったりしませんよ? 失礼な」
少々気分を害した様に真紀が言い返したが、阿南は思わず声を荒げた。
「それならどうして俺の写真が必要だ!?」
「チーフだけじゃくて、他の何人かの写真も送りましたよ? 意気投合して職場の話を持ち出したら、美実さんが嬉々として食い付いてくれまして」
「……何だと?」
「あ、勿論、社内倫理規定に反する、守秘義務違反に該当する事は口にしてません。主に男社会における人間関係の考察について、熱く語っただけです。そうしたら彼女が、『是非次回作の参考にしたい』と喜んでくれまして」
ここで恐る恐る、日下部が確認を入れてきた。
「菅沼、その……。藤宮さんは、BLレーベルの作家の筈だが……」
「はい、そうですよ? 日下部さんは出版社に同行したのに、何を言ってるんですか。だから社内で受けそうなカップルを幾つか考えて、その人の写真を撮って送ってたんですよ。チーフで最後です」
「…………」
そして不気味な沈黙が漂う中、阿南は無言のまま顔を引き攣らせ、今日真紀にスマホを向けられてきた記憶があった者達は、一斉に顔を青ざめさせた。しかし何をどう誤解したのか、阿南の表情を見た真紀が、言わなくても良い事を口にする。
「あ、大丈夫ですよ? チーフの外見とか特徴を事細かく書いて送ったら、美実さんは最初『これは部下に征服される下克上話かな』とか言ってたんですけど、『それはどうしてもイメージに合わないので、部下の調教話にして下さい』ってお願いして、考えて貰ってますから」
「菅沼……、お前っ……」
一気に危険水域に達したらしい阿南を、それと察した周囲が慌てて押さえ込む。
「あ、阿南、落ち着け!」
「チーフ! 職場で暴力沙汰は!」
「すみません、ちょっと待って下さい」
しかしここで平然とスマホを操し始めた真紀は、すぐにLINEの画面を見下ろしながら、安堵した様に口にした。
「良かった。美実さんに『写真を見てイメージがバッチリ浮かんじゃった。真紀さんの言う通り、調教話の方が良いわね』って言って貰えました。無事、本になったら、サイン付きで進呈してくれるって」
「この大馬鹿者がぁぁ――っ!! 研修し直しだ、ちょっと来い!!」
取り縋る周囲を蹴散らした阿南は、真紀の首を片手で掴み、問答無用で歩き出した。それに真紀が悲鳴を上げる。
「いたたたたっ!! チーフ、ちょっと止めて下さい! 健気な若手作家にインスピレーションを与える位、良いじゃありませんか!?」
「他人の迷惑を考えられんのか、お前はっ!!」
「それは勿論、偽名を使うって、美実さんが言ってましたよ! デビュー作のモデルが社長とお子さんの父親って言ってましたけど、当然名前は変えたって言ってましたし!」
「……あ?」
「はい?」
急に足を止め、手も離した阿南を、真紀は不思議そうに見返したが、対する阿南は益々物騒な気配を醸し出しながら、真紀に尋ねた。
「菅沼」
「……何でしょう?」
「お前、今、何を言った?」
「ですから、美実さんのデビュー作の主人公のモデルが、社長と美実さんのお腹の子供の父親だと言いました」
「…………」
再び、不気味に静まり返る中、凍り付いた部下達を復活させるべく、杉本が有無を言わせぬ口調で念を押した。
「皆……、言わなくても分かっているな?」
それで意識を取り戻したかのように、彼の部下達は何事も無かったかのように動き出す。
「私は何も聞いていません」
「右に同じく」
「菅沼の交友関係など、知る筈がありません」
そして通常運転に戻った周囲をよそに、阿南は再び真紀の首を掴んで連行し始めた。
「さて、お前には、指導内容がもう一つ増えたな」
「いえ、でも! 美実さんは普通に喋ってましたよ!?」
「それでも、この社内で口にして良いかどうかは、別問題だろうが!!」
そして騒音を喚き散らしながら部屋を出て行く部下を見送った杉本は、「頭痛が……」と一言呻いて頭を抱えた。
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