待ち合わせた時間の五分前に美野が指定されたカフェに出向くと、既に来店していた淳が、テーブル席から軽く手を振ってきた。
「やあ、美野ちゃん」
「お久しぶりです、小早川さん」
席に着きながら挨拶をして、美野が注文を済ませてから、淳は改めて軽く頭を下げた。
「今日はわざわざ、ここまで出向いて貰って悪かったね」
「それ位、構いませんから。小早川さんはお仕事で忙しいでしょうし」
そこでなんとなく双方が黙り込んでから、美野が慎重に問いを発した。
「それで美実姉さんと話し合ったって言う、『子供の父親としての責務を果たす資格と、力量を示して認めて貰う』件ですが……。小早川さんはどういう方向で条件を満たす事にするのか、もう具体的な方法や内容を決めましたか?」
それを聞いた淳は、途端に難しい顔になって、力無く首を振った。
「いや……、未だに考えが纏まっていないんだ。何をどうすれば美実と美子さんを納得させられるか、決めかねていてね」
「そうですよね……」
そこでウエイトレスが美野が注文した珈琲を持って来た為、話が一時中断した。そして気持ちを落ち着ける為、美野と淳が二人揃ってカップの中身を一口飲んでから、美野がゆっくりと口を開く。
「それで……、今回小早川さんをお呼び立てした理由なんですけど……。私、小さい頃、いじめられっ子だったんです。小学校に入学直後から、毎日の様に絡んでくる男の子がいまして」
美野が真顔で言い出した内容を聞いて、淳は話題が飛んだ様に感じたものの、咄嗟に思い付いた事を口にしてみた。
「えっと……、それはひょっとして、その子は美野ちゃんの事を好きで、ちょっかいを出してただけじゃないのかな?」
「後から聞いたらそうみたいでしたが、当時はそんな事分かりませんし。毎日からかわれて泣きながら家に帰ってました」
「それで?」
苦笑気味に応じた美野に、一見関係無さそうでも、自分の悩みに何らかの関係がある話だろうと推察しながら、淳は辛抱強く話の先を促した。すると美野が真顔のまま、更に話を続ける。
「その子には色々悪戯されたり、難癖を付けられたりしてたんですが、名前についてからかわれた事があったんです」
「名前で?」
「はい。『よしの』と言う名前が『苗字なのか名前なのか分かない、変な名前だ』と言われました」
ここで淳は、はっきりと顔を顰めた。
「それはどう考えてもこじつけだろう。単にからかうネタを探しただけだろうな」
「今から思えばそうなんですが。他にも姉妹全員『美』と書いて『よし』と読ませる名前が付いていますから、『お前の親って凄い手抜きしてるな』とか、美幸の名前を『「よしゆき」だなんて男の名前じゃないか』とか、そもそも『「とうのみや」なんて普通に読めない苗字なんて、他人の迷惑だ』とか散々言われました」
「何だそれは……。幾ら子供の頃の話とは言え、どこまで失礼な奴だ」
殆ど呆れ顔で感想を述べた淳に、美野が少し困った様に述べた。
「そんな風に散々からかわれて学校から帰った時に、母に文句を言ったんです。『お父さんとお母さんが適当に名前を決めたから、皆に笑われた。美野なんて名前は嫌』って大泣きしながら」
「それで? お母さんは何て答えたの?」
少し興味を引かれた淳が尋ねると、美野が詳細について語り出した。
「母はちょっと困った顔をしてから、『適当に決めたわけじゃないわ。確かにこの家では代々『美』と書いて『よし』と読ませる名前を付けるけど、それはご先祖様が『自分の子孫から優秀で正しい行いをする者が出る様に』との願いを込めて付けた事に倣ったから』と言われました」
「……優れていて、正しい?」
なんとなく意味を捉えかねた淳が無意識に呟くと、美野が解説を加えた。
「『美』と言う漢字は、当然『美しい』という意味が一般的ですが、その他にも『良い』とか『好ましい』とか『正しい』とか『優れている』とかの意味もあるんです。『美田』は土地が肥えた良い田畑の事ですし、『美風』は良い習慣とか、余所より良い気風の事を言うでしょう? 他にも『美徳』とか『美妙』とかの言葉の意味を考えて貰えば、納得して貰えると思いますが」
「ああ……、うん。なるほど。言われてみればそうだね」
意味を理解して頷いた淳に向かって、美野は話を続けた。
「母はそれを一通り説明した上で、『本来『野』と言う漢字は、人の手が加わらないとか飾り気が無いとか下品だとか、そういう意味合いの物だけど、それに『美』を付ける事で、生まれて何も無い状態から少しずつ優れた物を身に付けて、実りある人生を築いていけます様にって、お父さんと二人で一生懸命考えたのよ』と教えてくれました」
「なるほど。ご両親は良い名前を付けてくれたね」
「はい」
素直に感心してそう述べた淳に、美野は心の底から嬉しそうな笑顔を見せる。
「その説明をした後、母が言ったんです。『どんな人間でも、どうしてもできない事が二つだけあるの。何だか分かる?』って」
「どんな人間でも二つ? 何だろう?」
少しの間、頭の中で色々と考えてみた淳だったが、確証を持てずに降参した。
「ごめん、分からない。職業とか生まれながらに制限はある人間はいるかもしれないけど、基本的に自由だし。誰でも二つって言うのは……」
「遺伝学上の親を選ぶ事と、自分の名前を決める事です。法律上の親は後で変える事はできますが。名前も成人後に然るべき事情があれば変更する事は不可能では有りませんが、極めて稀なケースです」
「……確かにそうだね」
あまりにも単純過ぎて、逆に思いつけなかった淳は、軽く目を見開いて頷いたが、ここで美野の台詞が刺さった。
「そう言ってから母が『尤も子供を作っただけで、義務を果たしもしないで親でございますなんて顔をする輩は、犬以下だけど』なんて、辛辣な事を言っていましたが」
「…………」
途端に暗い顔で項垂れた淳を見て、自分の失言を悟った美野は慌てて謝罪した。
「あ、ああっ! すみません! あの、今のは別に小早川さんを当て擦ったわけではありませんので!?」
「うん、美野ちゃんに悪気はないのは分かってるから。それで?」
「ええと……、ですね。それで母が『生まれた子供の親として最初に果たすべき義務は、子供に名前を付ける事だと思うわ。自分で名前を選ぶ事ができない子供が、これから一生使うんだから、子供が気に入って愛着を持てる名前を付けてあげるのが親の義務なの。だから美野。あなたが大人になって母親になった時、自分の好き嫌いとか流行に流されないで、子供の成長を願った上で本人に喜んで貰える様な名前を付けなさいね』と言い聞かせてきたんです。私は素直に『名前が好きになったし、子供ができたらそうするね』と頷いて話は終わったんですが」
「…………」
そこで美野は一旦母親との過去の話を終わらせたが、淳がそのまま黙っている為、慎重に自分の考えを付け加えた。
「その事を最近思い出して、色々考えてみたんですが、美子姉さんも似た様な話を、お母さんとしていたんじゃないかと思うんです」
「美子さんが?」
「もしくは、私との話をお母さんから聞いているか。私達の名前って、初めての目にする人には、揃いも揃ってすんなり読めない名前ですし」
「確かにそうだね」
淳が素直に頷いたのを見て、美野は更に真剣な顔付きになって考えを述べた。
「それに加えて、小早川さん達が揉めたそもそもの原因は、美実姉さんとの意志疎通が、思っていた程できていなかった事ですよね?」
「ああ……、そうだね」
「ですから子供の名前を付けるにしても、『俺は口出ししないから、そっちが気に入る好きな名前を付けて構わない』とか言うんじゃなくて、『将来子供が喜ぶ、お前も絶対に気に入る名前を考えて、父親としての最初の義務を果たしてみせるから、父親として認めて欲しい』なんて感じの話に持って行けば、美子姉さんも認めてくれるんじゃないかと思ったんですが」
「…………」
考えていた事を言い切って相手の反応を待った美野だったが、淳が難しい顔で黙り込んでしまったのを見て、申し訳無さそうな顔で神妙に頭を下げた。
「あの……、本当にすみません。長々とつまらない話をして。よくよく考えたらあの美子姉さんが、子供の名前を考えた位で」
「美野ちゃん」
「はい?」
しかし謝罪の言葉を遮られた美野が不思議に思って顔を上げると、これ以上は無いと言う位、真剣な顔で訴えてくる淳と目が合った。
「色々考えてくれて、ありがとう。恩に着るよ。もしもこの先、美野ちゃんが酷い男に騙された時には、俺が責任を持ってそいつの全財産を慰謝料として巻き上げた上で、誰がやったか分からない様に徹底的に陰でボコってから、二度と美野ちゃんの視界に入らないように、半径二百キロ以上の地域に追い出すから。約束する」
「……ありがとう、ございます」
誓われた内容が内容なだけに、あまり素直に喜べずに美野が顔を引き攣らせていると、淳は生気を取り戻した様な顔付きで立ち上がった。
「じゃあ俺は、仕事があるからこれで。ここの支払いはこれでしてくれ。今日は本当にありがとう。それじゃあ」
「あ、あの? 小早川さん!?」
最後は笑顔で財布から一万円札を抜き取り、それをテーブルに置いて颯爽と立ち去って行った淳を、美野は呆気に取られながら見送り、ボソッと独り言を漏らした。
「行っちゃった……。何か私が騙されるのが前提の話だから、素直にありがたいと思えなかったんだけど。でも……」
そこで美野はすっかり冷めてしまった珈琲を一口飲んで、無意識に微笑んだ。
「頑張って下さい、小早川さん」
しかしその何年か後に、淳が先程誓った通り、自分の結婚相手に制裁を加えた挙げ句、身ぐるみ剥いで放逐する事になるなどとは、この時点で美野は夢にも思っていなかった。
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