藤宮家で舞い込んだ手紙によって、そんな小さな騒動が勃発した三日後。淳は職場で、傍目には冷静に自分の仕事をこなしていた。
(さてと。取り敢えず持参する資料は纏めたし、訴状の用意も完璧。あとは申し入れた時間通りに、先方に出向くだけだな)
そして出発予定まで、まだ少し時間がある事を確認した淳は、机に座ったまま物思いにふける。
(しかし……、結構恥ずかしい思いをしながら、書いた甲斐はあったな。正直、真面目に返事をくれるとは、思って無かったんだが……)
美実からの返事の内容を思い返した淳は、無意識に表情を緩めた。
(サインしてるのは何回か見た事があるから、なんとなく丸文字っぽい字を書くかと思っていたが、文章を書くと普通に綺麗じゃないか。美子さんは書道の有段者だし、確か五段だったか? そっち方面には五月蠅いのかもしれないが)
そこまで思い出した淳は、一気に表情を暗くして項垂れた。
(美子さんと言えば……、やっぱり秀明と似合いの鬼だな、あの人。誠心誠意書いた文章を、容赦なく添削して送り返してくれて。そりゃあ、美子さんと比べたら癖字で読みにくいし、文学的表現にも乏しいだろうが、あそこまで重箱の隅をつつくような突っ込みを、全面赤ペンで書き込まなくても……。これで誤字脱字でもあったなら、どんなに貶された事やら)
そこで何とか気分を浮上させようと、淳は上着の内ポケットから手帳を取り出し、そこに挟み込んでおいた折り紙を見下ろして、無言のまま涙ぐんだ。
(しかし……、あの性根が腐りきって、良心が複雑骨折している秀明と、外見はおっとり奥様風なのに、中身は頑固一徹な美子さんとの間に、美樹ちゃんの様な素直で優しい子が生まれたのは、もう殆ど奇跡……)
そんな事を考えてから淳は再び手帳を閉じ、両目を閉じながら切実に祈る。
(どうかこのまま成長してくれ、美樹ちゃん。君は、俺の心のオアシスだ)
「……よし、時間だな」
再び目を開けて現在時刻を確認した時、淳は既にいつもの顔に戻っていた。そして迷いなく鞄を手にして立ち上がり、自分の直属の上司である、民事部門統括部長である梶原の机に歩み寄って声をかける。
「それでは部長。これから三笠コーポレーションに出向きます」
「ああ。宜しく頼む」
「お任せ下さい。依頼人の主張をしっかり伝えてきます。公判に持ち込んでも、必ず勝ちますので」
落ち着き払って上司とやり取りをし、颯爽と事務所を出て行った淳だったが、そんな彼を壁際の、コーヒーサーバーが置いてある休憩スペースで観察していた面々は、顔を見合わせてひそひそと囁き合った。
「やっぱり、最近おかしいですよね、小早川さん」
「明らかに変だよな? 突然ニヤニヤしたかと思えば、いきなり暗くなって」
「かと思えば、手帳を覗き込んで、涙ぐんでるんだぜ? どう見ても、情緒不安定だろ」
「だけど、普段はまともに仕事してるのよね。今週も一つ結審して、ばっちり成功報酬をゲットしたし」
「と言う事で、森口さん。さり気なく小早川さんの、近況を聞き出してみて下さい。気になって仕方がないんです」
「何で俺が、そんな事をしなくちゃならないんだ?」
いきなり自分にお鉢が回ってきた事に、森口は珈琲を片手に持ちながら渋い顔をしたが、周りは容赦なかった。
「だって私達、単なるパラリーガルや司法書士や税理士な上、年下や後輩ですから」
「悩みを打ち明けるなら、どう考えても同じ弁護士で年長者である、同じ部署の先輩の森口さんが適任ですよね?」
真っ向から正論を繰り出されて、森口は反論できなかった上、ここ最近気になっていた事でもあり、不承不承頷いた。
「全く……。分かった。取り敢えず聞いてはみるが、お前達は下手に騒ぎ立てるなよ? それにプライベートに関わる事だろうから、安易に漏らせない内容だったら、お前達には教えないからな?」
「分かりました」
「勿論です」
「取り敢えず小早川先輩の相談に乗って、解決できそうなら、アドバイスしてあげて下さい」
真顔で頷いた面々を見て、興味本位で騒いでいる訳では無い事に安堵しつつも、森口は面倒な事になったものだと、深い溜め息を吐いたのだった。
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