裏腹なリアリスト

篠原皐月
篠原皐月

60.年越しは平穏に

公開日時: 2021年7月2日(金) 14:16
文字数:4,285

 それから四十分程で淳のマンションに辿り着いた秀明は、玄関を開けてくれた彼に向かって、早速毒舌を吐いた。


「よう、淳。随分シケた面してんな」

「年末にわざわざ嫌味を言いに来たのか、お前は?」

「そこまで暇じゃない。上がるぞ」

「勝手にしろ」

 さすがにムッとした顔付きになった淳に構わず、秀明は遠慮なく上がり込んでリビングに入った。そして床を覆い尽くさんばかりに紙が散らばっている光景を見て、小さく口笛を吹いて呆れた様に感想を述べる。


「……なかなか、壮絶な事になっているな。想像以上だ」

 握り潰して丸まっている紙や、何やらぐちゃぐちゃに塗り潰されている紙の全てが、子供の名前を考えて煮詰まった挙げ句の結果だと容易に推察できた秀明が、哀れむ様な視線を淳に向けると、彼は気分を害した様に顔を背けた。


「笑いたければ笑え」

「それなら遠慮無く」

「は?」

 そこで「すまん」とか「悪かった」とかの言葉が返ってくるかと思った淳だったが、秀明が真顔で頷いた為、意表を衝かれた顔になった。その目の前で秀明は軽く深呼吸すると、いきなり爆笑し始める。


「あははははっ! ばっかじゃねぇのか、お前! 子供の名前決めんのに、何をここまで煮詰まって、散々ダメ出し食らってやがるんだ! 東成大法学部卒業の頭は飾りか? それとも単に中身がスカスカなだけかよ!?」

 左手で自らの腹を抱え、右手で自分を指差しながら「ぶわははははっ!」と爆笑し続ける秀明に、淳は本気で殺意を覚えた。


「お前がとことん性格が悪くて、性根が腐ってるのは分かってた筈なのにな……。なあ、殴って良いか?」

 地を這う様な声で凄んだ淳だったが、途端に秀明は笑いを収め、真顔で持参した物を淳に向かって差し出す。


「ここで問答無用で殴らずに、一応断りを入れる辺り、まだ冷静だな。差し入れだ。これで更にもう少し、頭を冷やせ」

「お前が差し入れ? 毒でも入ってるんじゃないのか?」

 素直に受け取らず、嫌そうな視線を向けただけの淳に、秀明は苦笑しながらその紙袋をテーブルに乗せた。


「そんな事を言ったら、美実ちゃんが泣くぞ。美子の目を盗んで、こっそり一人分、お節を取り分けてくれたってのに」

「美実が?」

「ああ。自分の事で実家の母親と揉めて年末年始に帰れなくなったって、随分気にしていたからな」

 それを聞いた淳は、幾分申し訳無さそうな表情になる。


「そうか……。その、秀明?」

「勿論、毒入り云々なんか、言わないから安心しろ」

「すまん」

 小さな重箱の風呂敷包みを取り出しながら秀明が請け負うと、淳が素直に頭を下げた。それに苦笑しながら、秀明は更に中身を取り出す。


「それから、これは美恵ちゃんからだ。……ああ、思った通り、やっぱり酒だな。しかもこんな美味い物、お前には勿体ないぞ」

「五月蝿い」

 大き目の風呂敷包みを解いた秀明は、化粧箱に印刷されている銘柄を見て、勿体なさそうに感想を述べた。そして次に、重箱より一回り小さい包みを取り出し、風呂敷を解く。


「それからこれは、美野ちゃんから。小さい割に重かったから……、やっぱり餅か。それとこのタッパーの中身は、雑煮の具だな。ご丁寧に全部切って、後は煮るだけの状態にしてある。冷蔵庫に入れておこう」

「一人だと、買う気がしなかったからな。ありがたく食べさせて貰う」

 しっかり出汁や調味料まで小分けにして詰めた上に、レシピの簡単なメモ書きまで付けておいた美野に、男二人は素直に感心した。


「それで、この封筒が美幸ちゃんからなんだが……」

 最後にしっかり封をして、住所と名前が記載済みの封筒を紙袋から取り出した秀明は、珍しく戸惑った表情を見せた。それに淳も怪訝な顔で応じる。


「中身は何だ? 随分軽いし、封筒よりもだいぶ小さい物が入っているみたいだが。そもそも食べ物じゃ無いよな?」

「だと思う。だが美幸ちゃんは、今のお前に一番必要な物だと言っていたぞ?」

「一番必要な物? とにかく開けてみるから、ちょっと待ってろ」

 そして淳が鋏で封筒の上部を切り取り、慎重に傾けて中身を取り出したが、その掌に収まった物を見て困惑した。


「え?」

「どうして学業成就の御守り?」

 互いに戸惑った顔を見合わせた二人だったが、秀明が首を傾げながら、思いついた事を口にした。


「ひょっとして……、美実ちゃんから合格を貰わないといけないから、合格祈願の意味合いでなんだろうか?」

 そう言われた淳は、僅かに驚いたように目を見張り、次にじわりと涙ぐみながら頷く。


「おそらくそうだな……。確かに今の俺に、一番必要な物かもしれない。身に着けて持ち歩く事にする。美幸ちゃんに礼を言っておいてくれ」

「ああ」

 慎重にお守りを握りしめながら、手の甲で両眼の涙をぬぐっている淳を見て、秀明は思わず舌打ちしそうになった。


(全く……、これ位で泣くな。こいつ、相当気弱になってやがる。ここが踏ん張り所だって言うのに)

 ふがいない悪友を怒鳴りつけたいのは山々だったが、そんな事をしても何の解決にもならない事が十分分かっていた秀明は、(仕方が無い、今日だけだ)と自分に言い聞かせながら淳に声をかけた。


「じゃあ早速、少し食うか? 今なら特別に、雑煮位作ってやるぞ?」

 その台詞に淳は喜ぶどころか、驚愕の視線を向ける。

「お前の手作り? そんな恐ろしい物を俺に食えと?」

「自炊歴、何年だと思っている。それに結婚するまでずっと一人暮らしで、まともに帰省とかもした事が無かったからな。少なくともお前よりは上手く作れるぞ。賭けても良い」

 そう言ってふんぞり返った秀明を見て、(そう言えばこいつ、結婚前は家族団欒なんて言葉とは、無縁の生活をしてたんだったな)と思い至り、しかしそれに対して同情めいた事を口にしようものなら、間違いなく制裁一直線の為、気が付かなかった振りで笑い返した。


「相当珍しい物を、食わせて貰えるみたいだな」

「当たり前だ。美子にも食わせた事は無いんだから、間違っても美子には言うなよ? 自分には作ってくれた事が無いのにって、絶対に怒る」

「それは御免だな。それじゃあ俺達だけの秘密って事で」

「男との秘密なんて、真っ平ごめんだがな」

 そんな気が置けないやり取りで淳の気分はかなり浮上し、秀明が作った雑煮も十分食べるに値する仕上がりで、淳は心穏やかに大晦日を過ごす事ができた。


 一仕事終えた秀明が、夕方も結構遅い時間になってからこっそり帰宅すると、廊下で美恵と出くわした。

「お義兄さん、お帰りなさい。ちゃんと買って来たわね」

「ああ。メールで知らせて貰った美恵ちゃんの話と、食い違うわけにはいかなかったからね」

 自分の手元を見ながら声をかけてきた美恵に、秀明が笑って頷く。すると美恵の背後から美子が顔を出して、少し面白くなさそうに言ってきた。


「お帰りなさい。お酒を買いに行っただけにしては、遅かったわね」

「お義父さんに相談したい、ちょっと面倒な事が出来たからな。正月に気分良く飲んで貰いながら話を持ち掛けようと思って探したが、もう殆どの店が閉まっていて手間取ったんだ」

「当たり前よ。大晦日に何をやってるの。すぐに夕飯にするわよ」

「ああ」

 すらすらと用意しておいた台詞を口にすると、美子は機嫌が悪そうな表情ではあったものの、それ以上突っ込まずに踵を返し、美恵は胸を撫で下ろした。そして彼女と別れて自室に向かった秀明だったが、今度は階段のところで美実と遭遇した。


「あ、お義兄さん、お帰りなさい。今日はありがとうございました」

 そう言って早速頭を下げた美実に、秀明は笑って報告する。

「礼を言われる程の事じゃ無いから。淳が喜んで、早速少し食べてたよ」

「そうですか。それなら良かったです」

「特に田作りと昆布巻きと菊花カブは、他の物よりちょっと多めに入れてあったみたいだし」

 ちょっとからかう様な表情で美実を見下ろすと、その意味ありげな笑顔の理由が分かったらしく、美実はちょっと顔を赤くしながらぼそぼそと言葉を返した。


「その……、今年と去年のお正月に淳が家に顔を出してお節を出した時に、それが気に入ったみたいでおかわりしてたので……」

 微妙に視線を逸らしながらの物言いに、秀明は我慢できなくなって小さく噴き出し、彼女の頭を軽く撫でながら礼を述べた。

「それをちゃんと覚えていてくれたわけだ。ありがとう、美実ちゃん。じゃあ俺は部屋に行くから」

「はい」

 そしてにこにこと軽く手を振って見送ってくれた美実を見て、秀明は(本当に可愛いよな)と思いながら階段を上がった。そして自室に入った秀明だったが、そこで美子が仁王立ちで彼を待ち構えていた。


「あなた。一体、どういうつもり?」

「何の事だ?」

「お節を持ち出したわね? 全く、美実ったら。少しずつ抜いたって詰め方が微妙に違うから気付くのが当然なのに、何をやってるのかしら。それとも私の目が、そこまで節穴だと思っているわけ?」

 当初惚けようとした秀明だったが、しっかり見破られている事を悟ってあっさり諦めた。不機嫌そうに指摘してくる美子ではあったが、事情を全て分かっていた上で妹達を叱ったりする事はせず、黙認した上で八つ当たりしてきた彼女に、秀明は苦笑いで応じる。


「一見、気が付かない程度には誤魔化したとは思うんだが。美子が相手では分が悪かったな。これで機嫌を直してくれ。ついでに、気が付いていた事も秘密にな」

 そう言って自分の机に歩み寄り、その引き出しから有名パティスリーのチョコ詰め合わせの箱を取り出して差し出してきた秀明に、美子は冷たい目を向けた。


「口止め料のつもり? だけどもう大晦日だし、お店は閉まっているでしょう? どうやって買ったのよ」

「それはまあ……、それなりに?」

 ふてぶてしく笑いながら誤魔化してくる秀明に、美子が益々不快気に顔を顰める。


「美実が年末に差し入れに行くのを見越して、予め買っておいたって事?」

「さあ、どうだろうな?」

 そこでも惚けた秀明から、その手に持っている箱に視線を移した美子は、面白くなさそうに確認を入れた。


「これは本当に、私の分だけ買ったんでしょうね?」

「勿論。そうじゃないと、お目こぼしと口止め料の意味がない」

 互いに真面目な顔でのやり取りの後、美子は溜め息を吐いて手を伸ばした。


「……しょうがないわね。今回は何も気が付かなかった事にしてあげるわ」

「自分の妻が心優しい女で、俺は嬉しいよ」

 くすくす笑いながら箱を渡した秀明に、美子は盛大に顔を顰めた。


「茶化さないで。台所で夕飯の支度をしてるわ。すぐに下りてきなさい」

「了解」

 乱暴に箱を戸棚にしまいながらの命令口調での指示にも、秀明は気を悪くする事なく、楽しげに笑いながら妻に頷いた。


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