「離しなさい、美恵!! その諸悪の根元の馬鹿男の頸動脈を、後腐れ無く切り裂いてやるわっ!!」
「気持ちは分かるけど、少しは冷静になって! 姉さんが捕まったら、この家はどうするのよ! 殺るなら私が殺るわ!」
「何を言ってるの! あなたが私以上に包丁が使えるわけ無いじゃない! その男に切りつける前に、自分の手を切るのがオチよ!」
「料理下手で悪かったわね! だけど姉さんが殺人犯になったら、美樹ちゃんはどうするの!?」
「あなたこそ、安曇ちゃんはどうするのよ! あんなあちこちフラフラ渡り歩いてる冒険家もどきに、安曇ちゃんをまともに育てられるわけ無いでしょうが!!」
「康太は冒険家もどきじゃなくて、れっきとした冒険家よっ!! それに、人の亭主を甲斐性無し呼ばわりするのは止めてくれない!? 第一、秀明義兄さんに美樹ちゃんを任せる方が、人間性と情操教育の面で、激しく問題があるに決まってるわ!!」
「そんな事は百も承知よ! だからこのろくでなしを殺した後は、秀明さんに死体を始末して貰って、何も無かった事にするわ!」
そこで美恵はあっさり姉を押さえていた手を離し、真顔で言い出す。
「あ、それなら止めないわ。じゃあその三徳包丁より、やっぱり出刃包丁じゃない?」
「骨を切り落とす訳じゃないし。これが一番、手に馴染んでるのよ」
「それならやっぱりそれかしら? 押さえるのは手伝うわ」
すこぶる真顔で交わされる女二人の会話の内容に、流石に淳は冷や汗を流しながら宥めようとしたが、立ち上がった秀明が彼の背後に回り込み、その襟首を掴んで引き上げた。
「ちょっと待っ、ぐはっ!」
「秀明さん?」
「お義兄さん?」
「秀明! いきなり何を」
首が締まる形になった淳に構わず、秀明が問答無用で彼を廊下に引きずり出す。
「行くぞ」
「おいっ!!」
「二人とも、俺が戻るまでここから一歩も出るなよ?」
「…………」
廊下に出ながら秀明が室内に目を向け、美子と美恵に釘を刺すと、美子は不満げに、美恵はどこか安堵しながらも無言で軽く頷いた。それを見てから、秀明は遠慮無しに淳を引き摺り始める。
「こら、離せ! 苦しいだろうが!!」
少し歩いたところで、漸く淳が秀明の腕を掴み、自分のワイシャツから手を引き剥がして立ち上がった。そこで溜め息を吐いた秀明は、予め用意しておいた用紙を取り出し、彼に向かって差し出す。
「これ以上この家にお前がいたら、刃傷沙汰確実だから、今日のところは帰れ」
「あのな」
「双方の事情と主張と問題は粗方分かっただろうし、あとは明日以降仕切り直して、当人同士で何とかしろ」
「何とかって……。第一、どうして実家に行った時、聞いてないとか酷い事を言われたって、俺に言わないんだよ?」
「お前と美子、双方に気を遣ったんだろう? 美実ちゃんは美野ちゃんみたいに控え目で引っ込み思案とはまた違った意味で、何事も一歩引いて状況を冷静に考える質だからな。それ位、分かっていると思っていたが」
「…………」
秀明が困り顔で口にした内容を聞いて、淳は押し黙った。すると秀明が再度言い聞かせる様に、メモ用紙を彼に押し付ける。
「悪い事は言わん。改めて出直せ。それから夜間救急診療をやっている所の住所と電話番号だ。頭だから一応念の為、診察して貰っておけ。今、タクシーを呼ぶ」
「……分かった」
真顔で言い聞かされて、ここでこれ以上粘っても、状況が改善できないどころか悪化しそうだと認識した淳は、素直に頷いて用紙を受け取り、タクシーを手配する秀明と並んで歩きながら玄関へと向かった。
そして十分程して座敷に戻って来た秀明に、美子がまだ幾分険しい視線を向けた。
「あなた。小早川さんは?」
「きちんと叩き出した。お前も少し、頭を冷やせ。腹を立てるのは分かるが、面と向かってお前やお義母さんの躾がなっていないと、言われた訳では無いしな」
「……美実の様子を見て来るわ」
憮然として立ち上がり、部屋を出て行こうとした妻の背中に、秀明が声をかける。
「美恵ちゃんの立場もあるだろうし、さっきの美実ちゃんの話は、聞かなかった事にしておくんだぞ?」
「それ位、分かっています」
振り向かないまま面白く無さそうに答えた美子は、そのまま座敷を出て行った。その姿が見えなくなってから、美恵は秀明に向かって両手を合わせる。
「フォロー、感謝」
「聞かれたくない内容は、消してから持ってくるべきだったな」
「近年、稀にみる失態だわ。睡眠不足が祟っているわね」
苦笑いした秀明に、美恵はうんざりとした表情で項垂れるのみだった。
「美実、ちょっと良い?」
「はい、どうぞ」
美子がドアをノックして美実の部屋に入るなり、美野に声をかけた。
「美野、安曇ちゃんを美恵の所に連れて行ってくれない?」
「分かりました」
余計な事は言わずに、安曇を慎重に抱えた美野が姿を消すと、カーペットに直に座っていた美実の前に、美子も正座した。
「美実。小早川さんは帰ったから」
「……うん」
俯きながら小声で応じた美実に、美子は言いたい事が色々あったものの、ぐっと我慢して飲み込んだ。そしてできるだけ優しい口調を心掛けながら、彼女に言い聞かせる。
「取り敢えず、色々あって疲れたでしょうから、今日はもう休みなさい。それから、騒ぎになってご迷惑をおかけしたから、明日お詫びの品を持ってお店に行くわよ? 一緒に、頭を下げてあげるから」
「うん……、ごめんなさい……」
「謝る相手が違うわよ。本当に、仕方が無いわね」
項垂れて涙声で謝罪の言葉を口にしてきた妹に、美子は(本当に困った子)と苦笑いしながら手を伸ばし、軽く頭を撫でてあげた。
それから美実を着替えさせて、きちんとベッドに入ったのを確認してから美子が部屋を出ると、ドアの両脇に夫や妹達が勢揃いしていたのを見て、僅かに驚いた表情になった。しかし無言でドアを閉めた後、身振りで全員に少し離れた場所まで移動させてから、声を潜めて宣言する。
「皆が揃っていて、丁度良いわ。今後、小早川さんからの電話やメールは、全て着信拒否という事で。良いわね?」
さも当然の事の様に言われた面々は、揃って渋い顔や動揺した顔になる。
「あのな、美子」
「姉さん、それはちょっと……」
「ママ?」
その中でただ一人、きょとんとして見上げてきた美樹に、美子は笑いかけた。
「ごめんね、美樹。もういつもなら寝ている時間だものね。秀明さん、寝かし付けて貰えるかしら?」
「お前は? これから何か、する事があるのか?」
「ちょっと仏間に行って来るわ」
怪訝な顔で問いかけた秀明だったが、美子が告げた理由を聞いて(お義母さんとの話は長くなりそうだな)と色々諦め、少し屈みながら娘に笑いかけた。
「……分かった。よし、美樹。今日はパパと一緒にお風呂に入ろうな?」
「うん! パパ、お~ふ~ろ!」
手を伸ばした秀明に抱き上げられ、上機嫌になった美樹を見てから、美子は一階に下りるべく歩き出した。そんな姉を見送った美恵が、安曇を抱きかかえながら確認を入れてくる。
「義兄さん……。お父さんが出張から帰ったら、今回の事を姉さんと義兄さんで報告してくれるのよね?」
尋ねられた瞬間、秀明は僅かに顔を強張らせたが、溜め息を吐いて頷いてみせた。
「そうだな。立場上、当然だ。美恵ちゃん達はその時、部屋に引っ込んでいてくれて構わないから。どう考えても、揉める事は必至だし」
それを聞いた美恵達は、揃って深々と頭を下げる。
「お願いします」
「すみません」
「頑張って下さい」
「……ああ」
できる事ならお義父さんと入れ替わりに出張に行きたいなどと、埒もない事を考えながら、秀明はなるべく波風が立たない様な報告にするためにはどうしたら良いかと、一晩真剣に悩む羽目になった。
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