父親から電話を貰って以降、淳は怒りと焦りを募らせながら仕事をこなし、憤然としながら週末に突入した。そして目覚ましをかけずに寝ていた日曜の朝、スマホへの着信で叩き起こされた淳は、不機嫌さを露わにして電話をかけてきた相手に凄んだ。
「何だ、秀明。日曜の朝っぱらから。生憎と俺は、機嫌が悪いんだが」
「今日一日、暇か?」
「何だいきなり」
「美樹の世話を美野ちゃんと美幸ちゃんに頼んで、美子が出かける支度をしている」
「それがどうした」
「美子は買い物に行くと言っているが、今身に着けている物が普段使いじゃなくて、最高級品だ。物の善し悪しは分からんが、値段は最高レベルだ」
冷静にそう告げられた淳は、いきなり脈絡が無さそうな事を言われた以上に、秀明の鑑定眼に感心した。
「お前って昔から、美術品とか宝飾品の鑑定とか善し悪しの批評はできないが、不思議と価値の有る無しだけは勘で見分けて、偽物や駄作の類を掴まされた事は皆無だものな。ある意味凄いぞ」
「悪かったな、育ちが悪い成金で。美子がそこまで気合い入れて支度をするのが、本当に単なる買い物の為だと思うのか?」
ここで秀明が気分を害した様に口にした内容を聞いて、淳は漸く完全に目が覚め、相手の言いたい事を完全に理解した。
「買い物じゃないと? 本当のところを聞かないのか?」
「買い物と既に言っているのに、それ以上の事を言うと思うのか?」
「急いで支度する。途中で合流しよう。逐一、連絡をくれ」
「分かった」
ベッドから飛び起きながら頼んだ淳に、秀明は余計な話をせずに通話を終わらせ、それからは随時淳のスマホに美子の様子を連絡してきた。
「淳、ここだ」
「おう、何とか首尾良く合流できて良かった」
「全くだ。車を使われたら、ちょっと面倒だったからな」
約一時間後、細かく乗っている車両まで伝えていた秀明と、淳は電車内で合流を果たした。そして挨拶もそこそこに、秀明にここに来るまでに考えていた事を尋ねてみる。
「ところで、着替えながら思ったんだが、美子さんは桜査警公社の会長だろう? 当然、日常的に護衛が付いている筈だし、そいつらに聞けば居所なんてすぐに」
「俺に一切、報告は無い」
「は?」
「以前、例え美子が間男を作っても、会長のプライバシー保護を優先すると、面と向かって言われた事がある」
「……大した社長様だな」
自分の台詞を遮って断言した相手に、淳は少しだけ同情した。そして二人で幾つか他愛のない話をしながら、注意深く乗客の間から、少し離れた所に着物姿で佇んでいる美子の様子を窺う。
「本当にどこに行く気だ……。降りるぞ。遅れるなよ?」
「ああ」
そして新橋駅でホームに降り立った彼女の後から、見つからない様に注意深く進んだ二人は、人並みを抜けて美子が迷わずに歩いて行く方向を見て、怪訝な顔になった。
「何だ? ゆりかもめ?」
「お台場にでも行くのか? ああ、でもホテルとかもあるし、そこで加積夫人と会うか、何かの会合の席に押しかけるつもりなんだろうか?」
「それは良く分からんが……、日曜で人出が多くて助かったな。これは連結車両が短いから、変に空いていると美子に見つかる可能性もあるし」
「そうだな」
そして注意深く美子が上がったエスカレーターとは反対側からホームに上がった二人だったが、こそこそと人波に姿を隠して車両の到着を待ちながら、周囲の状況を観察していた淳が、到着した車両に乗り込んでから徐に言い出した。
「なあ……、秀明」
「……何だ?」
「少々、思い出した事があるんだが」
「だから何だ」
「この客層、この時期を考えて……。毎年この時期にお台場で開催されている、あるイベントの事なんだが……」
日曜であるからビジネスマンの姿が殆ど皆無なのは当然として、親子連れやカップルをはるかに凌駕する人数の、若い女性客達で埋め尽くされた車内で、淳が微妙に顔を引き攣らせた。対する秀明も、男二人連れの自分達が相当悪目立ちしているは十分分かっていたが、控え目に否定の言葉を返す。
「それは一応、俺も考えた。だがな、淳。そんな所に、美子があの格好で出向くと思うのか? TPO無視も甚だしいぞ。周囲から浮き上がって見失う心配が減って、俺達は楽だが。それに美実ちゃんは、臨月近い妊婦だぞ? 普通に考えたらあり得ないだろう?」
「ああ、普通だったらそうだな。だが、美子さんも美実も、普通一般の女性とは言えないだろう?」
「…………」
すこぶる真剣に指摘してきた友人に、秀明は黙り込んだ。そして周囲で明るい甲高い声が楽し気に響く中、定刻通りに発車した車両が順調に進んでいく。それからしばらく無言だった二人だったが、レインボーブリッジを渡り終えて少ししてから、急に秀明が何やら弁解する様に言い出した。
「その……、淳。今日美子は、本当にショッピングモールとかで、買い物かもしれんし」
「……あのな、秀明」
「日舞教室の生徒達と、どこかで待ち合わせて茶話会とかの可能性もあるからな」
「外の景色を見てるか? ショッピングモールとかホテルとか、もう通り過ぎたぞ」
「そうだな天気も良いし、意表をついて春の気配を感じながら野点とか」
「美子さん、周囲の客と一緒に降りたぞ。因みにここは、国際展示場正門駅だ。現実を直視しろ」
「…………」
「だが、桜査警公社の美子さん担当の護衛も、周りに紛れてたって事だよな。凄いな。全然分からん」
冷静に指摘されて秀明が口を閉ざすと、淳が少々慌てた様に促してくる。
「ほら、秀明、行くぞ! 他の経路からも人が集まって来るから、マジで見失いそうだ!」
「……ああ」
そこで何とか気を取り直した秀明は、淳と一緒に東京ビッグサイトへの連絡通路を歩き始めた。
秀明が指摘した通り、周囲からの訝し気な視線など物ともせずに一足先にそこに到達した美子は、入場待機列に真っ直ぐ歩み寄り、その先頭近くで自分以上にその場にそぐわない、ダークグレーのスーツ姿の男性に声をかけた。
「お待たせしました、藤宮です。畠山さんですか?」
「はい、おはようございます、会長」
「日曜なのに、朝からご苦労様。精神的負担も加味した、時間外手当をお支払いしますね?」
「ありがとうございます」
安堵した表情の、自分とそう年の変わらない男性と美子が笑顔で挨拶を交わしていると、ここで秀明達が小走りにやって来た。
「美子。こんな所で何をしている。それにそいつは、桜査警公社の奴だろう。やっぱり美実ちゃんがここに来るのか?」
若干険しい表情での問いかけに、美子は一瞬嫌そうな顔つきになってから、素っ気なく答えた。
「来るかどうか、公社の方に問い合わせなんかしていないわ。だけど私はここの常連だから、今回公社の方に一足先に来て、パンフレットの入手をお願いしただけよ」
「常連?」
「ええ。パンフレットの事前販売は、今回やっていなくてね。当日並ぶのは面倒だし。それのどこがいけないの? 美実と偶々出先で会ってしまったのなら、付き添いの方の落ち度にはならないわよ」
堂々と主張した美子から、秀明が無言で視線を動かすと、傍らの畠山が苦笑の表情になる。そこで苛立ったように淳が会話に割り込んだ。
「そんな行列をする所に、本当に美実が来ると?」
「加積さんが手を回すなら一々並んだり待ったりせずに、あっさりこっそりスタッフの出入り経路を使って、中に入っていてもおかしくはないわね」
平然と美子が口にした内容を聞いて、秀明たちが唖然としていると、この間もゆっくり進んでいた行列は入り口近くまで進んでおり、彼女は男二人に手振って追い払った。
「そういう事だから、中に入りたかったらさっさと入場券を購入して来なさい。ちゃんと列にも並ぶのよ? 遠くから楽しみにしてきたお客の前で、乱闘騒ぎなんて許しませんからね」
「あのな!?」
「話は後だ。行くぞ!」
厳命してきた美子に、淳は思わず声を荒げたが、そんな彼を秀明が引きずるようにしてその場を離れた。それを見送った畠山が、手にしていたパンフレットを美子に手渡す。
「それではこちらをお持ち下さい」
「ありがとう。それで?」
主語を省いて短く美子が尋ねると、彼は心得た様に補足説明した。
「本日の担当者からの連絡を受けまして、これまで回っておられたスペースに、丸を付けて時間を書き込んであります。宜しかったら、ご参考になさって下さい」
それを聞いた美子は、満足そうに微笑んだ。
「助かりました。今のは聞かなかった事にしておきますね」
「はい、ごゆっくりお楽しみください」
あくまで個人的に、社内で禁止されている情報の横流しを頼んでいた美子は、後々のお礼を考えながら畠山に見送られて HARU COMIC CITY 会場内へと進んだ。
そして美子の予想通り、加積が裏から手を回して開場直後にこっそりとスタッフ用の通路経由で会場入りしていた美実は、これから訪れる修羅場など全く予想せずに、すっかりその場を満喫していたのだった。
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