「え? まさか産まれるのか!?」
「予定日は、まだ先よね!?」
「はい、まだ五週間は先なんですが……」
「変に緊張が続いて、産気付いちゃった? まあ、この時期だと早産でも、十分対応はできると思うし、大丈夫でしょう」
蓮はのんびりと口を挟んだが、それで彼らの狼狽ぶりが悪化した。
「落ち着いている場合か! 早産になるかもしれないんだろう? さっさと救急車を呼べ!」
「笠原、急いで! 大至急よ!」
「はっ、はいっ!」
そんな動揺著しい三人を、蓮が冷静な声で制した。
「笠原さん、待って。初産だし、すぐにどうこうしなくて大丈夫よ。美実さん、入院の荷物は纏めてあるわね?」
「はい、部屋にスーツケースに詰めてあります」
「じゃあ笠原さん、車と運転手を手配した上で、彼女の部屋からスーツケースを運んでトランクに入れて頂戴。それから後部座席にはビニールシートの上にタオルケットを敷いておいて。そうすれば、万が一間に合わなくて破水したり出産しても、座席は汚れる心配はないわ」
「……はい」
「れ、蓮さぁぁん」
口調は淡々としているのに結構物騒な指示をしている蓮に、美実が涙ぐみながら呼びかけると、彼女は苦笑いで宥めた。
「そんなに情けない声を出さないの。大丈夫だから。かかりつけの病院に連絡しながら、ちょっと必要な物を取って来るから、ちょっと待ってなさい」
「……はい」
そう言いおいて蓮が立ち上がり、室内に取り残された三人が、顔を見合わせておろおろしていると、廊下の方から騒々しい足音と怒声が近付いてきたと思ったら、慌てた様子で淳が飛び込んで来た。
「美実! 陣痛がきてるって本当か!?」
「ええと……、そうかも」
「それなのに、なんでこんな所に座ってるんだ! さっさと病院に行くぞ!」
そこで暴言以上に無視されて腹を立てたのか、桜が腹立たしげに口を挟んできた。
「こんな所とはご挨拶ね。少なくともあなたの貧相な家よりは、遥かにマシな筈だけど?」
「五月蝿い、黙れババア!」
「本当に礼儀を弁えない若造ね。美実さんとは大違いだわ」
「お前らなんぞに払う敬意は、皆無だからな!」
どうやらこの二人の相性は最悪らしく、激しい舌戦を繰り広げかけたが、ここで戻って来た蓮が呆れ気味に声をかけた。
「ちょっとそこの一見イケメン、黙りなさい。美実さんは私が病院に連れて行くわ。あんたは他に行く所があるでしょ?」
「はあ? どこに行くって言うんだ?」
「美実さん。さっさとこれ、記入して」
「はい?」
淳の問いかけを無視して美実の横に座った蓮は、座卓の上に持ってきた物を乗せた。
「経験者として言わせて貰えば、戸籍に片親だけってやっぱり色々あるのよね。後からちゃんと籍を入れるにしても、手続きがちょっと増えるし、産まれる前に済ませておいた方が楽よ? だからこれを提出するのを、ここから出る条件の一つに加えようかな~って」
蓮が婚姻届を広げながら、チラッと加積達の様子を窺うと、彼らも多少驚いた表情になったものの、無言で頷いた。しかし当事者の美実は、立て続けに生じた予想外の事態に、狼狽えまくる。
「あの……、でも、急に言われても……、淳も困ると思うし」
「美実、さっさと書け!!」
「はっ、はいぃ!」
しかし淳に一括されて、慌てて婚姻届に手を伸ばした。それに蓮が冷静に必要な物を差し出す。
「はい、ボールペン。それから小野塚が置いていった『藤宮』の印鑑を使って」
「お借りします」
そこで淳はピクッと眉を上げて不満そうな顔になったが、無言を貫いた。しかし次に蓮が口にした内容に、さすがに文句を付ける。
「じゃあお二人は、証人欄に署名捺印をして下さい。印鑑も二種類持って来ましたから」
「何を勝手に仕切ってる!」
しかしそれを聞いた加積達は、嬉々として身を乗り出した。
「あら、そういうのは初めて。面白そう」
「俺達に頼む人間などいなかったからな。それなら俺達が、二人の結婚の証人になるわけだな?」
「まあ、責任重大。それなら、私達がしっかり監督してあげないとね? 美実さんの扱いが酷かったら、私達が承知しないわよ?」
「……っ!」
ニヤニヤと嫌らしく笑いながらの台詞に、本音としては(誰が貴様らに頼むか!)と言いたかった淳だったが、ここで反対しても事態が悪化するだけと理解できた彼は、憤怒の形相ながら無言のままだった。そして美実から夫婦に渡って署名捺印が済まされ、淳の記入分だけが空白のままの婚姻届を差し出した蓮は、せせら笑いながら問いかけた。
「じゃあ、これを持ってさっさと区役所の窓口に行きなさい。本籍地への届け出でないなら、戸籍抄本が必要な筈だけど、あなたの本籍は都内に移してあるの?」
「……ああ」
「それならあなたが取って、美実さんの本籍地の区役所に届け出れば問題は無いわね。婚姻届は二十四時間受付可能だけど、ぐずぐずしてると戸籍抄本の発行窓口が閉まるわよ?」
「甲斐性なしの父親と、産まれてくる子供に罵られるかどうかの瀬戸際だな」
「美実さんの出産とどっちが先かしらね? せいぜい頑張りなさい」
蓮に便乗して夫婦がからかいの声をかけると、淳は勢い良く婚姻届を掴みながら美実に向かって叫んだ。
「五月蠅いぞ! 美実、産むのはちょっと待ってろ! さっさと出してくるからな!」
「あ、ちょっと淳!」
そして振り返らずに駆け出して行った淳を見送った面々は、苦笑いで感想を述べる。
「『産むのはちょっと待ってろ』だなんて、横暴ね」
「無茶な事を言う男だな」
「そういえば、あの男。ここに車で来たの?」
「いえ、門の前でタクシーから降りていました」
生真面目に応じた笠原に、桜が真顔で頷く。
「それなら、事故を起こす心配だけは無さそうね」
「そうだな。慌てて事故を起こしたりしたら、とんでもないからな。じゃあ美実さん、安心して行きなさい。蓮、頼んだぞ」
「分かりました。さあ、美実さん。行きましょうか」
「すみません、お願いします」
そう話が纏まり、蓮に付き添われた美実は、ゆっくりと病院への移動を開始した。
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