「失礼します。こちらにおいでと伺いましたが……、美実さん?」
「お、小野塚さん!?」
襖を引き開けていきなり姿を現した和真に、美実は激しく動揺した。対する和真も不思議そうな顔になったものの、冷静に一礼してから加積の側に足を進める。
「お手数おかけして、申し訳ありません。こちらが、先程お話しした書類です。至急内容を確認の上、署名捺印をお願いします」
「ああ、すっかり忘れていた。さっき電話で来ると言っていたな。笠原、悪いが実印を持ってきてくれ」
「今お持ちします。少々お待ち下さい」
そして和真が持参した封筒の中身を取り出し、加積が目を通し始めたのを見て、美実は狼狽しながらも必死で考えた。
(うわ、どうしよう。さすがに心の準備が……。でも、また小野塚さんに連絡を取って時間を取って貰うのも悪いし、この機会に思い切ってお話ししよう!)
そう覚悟を決めた美実は、和真に向き直って声をかけた。
「あの、小野塚さん! 今、少々お時間、宜しいでしょうか?」
「はい。構いませんよ? 目を通して頂くのを、待っている所ですし」
「あのっ! すみません、ごめんなさい!」
「え? どうかしましたか?」
笑顔で了承した途端、いきなり頭を下げて謝罪してきた美実に、和真はさすがに面食らった。しかし少々テンパり気味の美実は、頭を下げたまま言い募る。
「今まではっきり言って無かった私が全面的に悪いのですが、私、小野塚さんと結婚を前提にしたお付き合いはできません!」
「あの、美実さん?」
「やっぱり子供の父親が一番好きなのが分かりましたので、入籍しなくても彼を人生のパートナーとして、生きていく事にしました! 小野塚さんみたいな優秀で人格者な方に優しく接して頂いて、本当に感謝しています。そして本当に申し訳ありません!」
「取り敢えず、頭を上げませんか?」
「小野塚さんの幸せを、陰ながら応援してますので! それでは失礼します、お元気で!」
和真の問いかけを半ば無視したまま、美実は頭に思い浮かんだ事をそのまま口にした。そして最後に叫ぶやいなやガバッと上半身を起こし、バッグを引っ掴んで後ろを見ずに駆け出す。
「あ、ちょっと、美実さん?」
「走ると危ないぞ?」
一目散に逃げ出した美実の背中に、加積夫婦が当惑しながら声をかけたものの、彼女がそのまま廊下の向こうに姿を消してしまった為、二人は美樹に視線を向けて苦笑した。
「あらあら、美樹ちゃん。叔母さんにすっかり忘れられちゃったわね」
「さすがに玄関まで行ったら、思い出して引き返して来るだろうから、ちょっと待っていような?」
そんな大人達の様子を、今まで無言で観察していた美樹は、小さく首を傾げながら問いを発した。
「まーちゃん、ふりー?」
それを受けて加積と桜が、にやにやと笑いながら和真に視線を向ける。
「うん? そうだな、一応フリーなんじゃないか?」
「たった今、盛大に振られたばかりですからねぇ」
「あのですね……」
微妙に和真が顔を顰めながら言い返そうとしたところで、何故か美樹が立ち上がり、スタスタと彼に歩み寄った。
「美樹ちゃん、どうかしたか?」
「和真に何か用があるの?」
その問いかけを無視した美樹は、正座したままの和真の顔を両手で押さえながら顔を近付け、彼の口に自分の口を、衝突寸前の勢いで重ね合わせた。
「っ!?」
「え?」
「はぁ?」
そして当事者の和真は勿論、周囲の大人達が何事が起きたのか分からないまま戸惑った声を上げると、真顔のまま顔を離した美樹が振り返り、加積達に向かって淡々と宣言する。
「つば、つけた。よしきの」
「…………」
そして無反応な周囲を見回した美樹は、再度要求を繰り出した。
「かづちゃん、さくちゃん、まーちゃん、ちょーだい?」
今度はにっこり笑ってのおねだりモードだったが、そこで一気に室内が爆笑に包まれた。
「……ぶ、ぅわっはっははははっ!! かっ、和真、お前っ! 二歳児に唾を付けられたぞ! 売約済みだなっ!!」
「あはははははっ! 凄いわ、光源氏も真っ青ね! これからどうとでも好きなように、育てられるわよ!」
「桜、ちょっと待て。とても美樹ちゃんが、他人の思うように育てられるとは思わないが?」
「寧ろ和真の方が、美樹ちゃんに調教されそうよねっ! 笠原! 早く和真と美樹ちゃんのツーショット写真を撮って! 和真の引き取り手が漸く現れたと知ったら、実家の親御さん達が泣いて喜ぶわ!」
「それは止めておけ。そんな写真を送ったら、女遊びが過ぎてとうとう幼女趣味に走ったのかと、一家揃って泣くに決まっている」
「そっ、それもそうねっ!」
「…………」
主夫妻が爆笑し、居合わせた使用人も堪え切れずに口元を押さえて顔を引き攣らせる中、和真は憮然とした顔で無言を貫いた。美樹がそんな和真を不思議そうに眺めていると、慌ただしい足音と共に「ごめんなさいぃ~!」という泣き声とも叫び声とも聞こえる声と共に、美実が座敷に飛び込んで来る。
「美樹ちゃん、一人で帰りかけてごめんね! うっかり者の叔母さんを許してぇぇっ!」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。どうどう。ママ、ないしょ」
「うわあぁぁん、ありがとう、美樹ちゃん! こんな事美子姉さんに知られたら、確実に家から叩き出されるもの!」
涙目で抱き付いて来た叔母の背中を軽く叩きながら美樹が宥めると、美実が歓喜の声を上げた。そして騒がしくしてしまった事に気が付いて、慌てて桜達に頭を下げる。
「あ、すみません、お騒がせしました。今度こそ失礼します」
「ああ、帰りも遅らせるから。美子さんに宜しく」
「またいらっしゃいね」
「はい、ありがとうございます」
「かづちゃん、さくちゃん、まーちゃん、さよーならです」
「おう」
「さようなら」
そして美樹の手を引いた美実は、室内の笑いを堪える微妙な空気には気が付かないまま、帰って行った。そして二人が廊下に出て行くと、加積が早速、この間茫然としていた和真をからかう。
「いやはや……、モテモテだなぁ、和真。あんな若い子にまで好かれるとは、羨ましいぞ」
「今の今まで知らなかったけど、守備範囲が随分広かったのねぇ。知らなかったわぁ」
桜も夫と調子を合わせて冷やかす様に声をかけると、和真は剣呑な目つきで乱暴に手の甲で口を拭い、普段の温厚な表情と口調をかなぐり捨てて、二人相手に凄んだ。
「うっせえぞ、このくたばりぞこない共が。その干からびた口を閉じろ」
しかし当然それ位で動揺する二人では無く、余計に嬉々として応じる。
「……ほう? これまた、随分珍しい物が見られたな」
「笠原! すぐに和真の写真を撮って! 普段善人顔の和真が、こんなどこからどう見ても悪人面になっているなんて、滅多に無いわよ! 実家の皆さんに教えてあげたら『こんな顔もできる様になったのか』と、感激してくれる筈だから! ほら、早く早く!」
「桜、それは止めておけ。一体何があったのかと、見た人間全員が戦慄するに決まっている。あいつらの胃壁と髪を、これ以上薄くさせるのは気の毒だ」
「つまらないわぁ」
如何にも残念そうに告げる桜を横目で見ながら、ここで加積は和真に確認を入れた。
「それで? お前はどうする気だ?」
完全に面白がっている顔付きに、和真は盛大に舌打ちしてから吐き捨てた。
「どうもこうも。ここまでコケにされて、俺に黙って引き下がれと?」
「別に、何も言ってはいないが?」
「じゃあ勝手にさせて貰う」
「まあ、怖い」
くすくす笑う桜を無視してスマホを取り出した和真は、迷わず電話番号を選択して電話をかけた。
「菅原か? 俺だ。第三段階に入れ。……あぁ? 当たり前だろう。何度も言わせるな! さっさと進めろ!」
らしくなく電話の向こうに向かって怒鳴りつけると、和真は怒気を潜めてスマホをしまい、加積に向かって一礼した。
「それでは失礼します」
そして表面上は落ち着き払ってその場を去ったものの、和真が美実と美樹に対して、相当気分を害している事が丸分かりであった為、加積は桜と顔を見合わせて笑ってしまった。
「美子さんも大物だが、美樹ちゃんはそれ以上だな」
「本当ね。あの和真を欲しがるなんて」
それから暫く二人の笑いは収まらず、周りの使用人達は戦慄しながら、その様子を眺める羽目になった。
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