妊娠して仕事を辞めるどころか、創作意欲満々の美実は、その日、担当編集者と電話で打ち合わせを進めていた。
「それでは紫堂先生、今確認した内容で、次回作のプロット作成を進めて下さい。今度社に出向いて貰った時に、原稿データのチェックをしながら、次回作の詳細を詰めましょう」
「分かりました。あの…、木原さん。ちょっと個人的な話があるんですが」
「はい、何でしょうか?」
一通り打ち合わせを済ませてから、恐縮気味に美実が呼びかけると、相手の木原は不思議そうに問い返してきた。そんな彼女に、美実は思い切って告げる。
「実は、子供ができまして。今三ヶ月目なんです」
それを聞いた木原は一瞬黙り込んでから、明るい声で祝いの言葉を述べてきた。
「本当ですか!? それはおめでとうございます!」
「ありがとうございます。それで出産までは執筆にそれほど影響は出ないと思いますが、出産後暫くは難しいと思いますので、ご了解頂きたいのですが」
「そうですよね。じゃあそれを考慮して、スケジュールの前倒しや先延ばしの処置を取りましょう」
「すみません。宜しくお願いします」
すぐに仕事の口調に戻って、早くも頭の中で今後の予定を組み直し始めたらしい相手に、美実は電話越しに深々と頭を下げた。すると木原は、すぐに気安い口調に戻って話を続ける。
「いえいえ、これ位当然ですよ。まだ三ヶ月目ですから、時期的に余裕がありますし。ところで先生、いつご結婚なさるんですか?」
「え?」
唐突に繰り出された質問に、美実が咄嗟に応じれずにいると、木原が何気ない口調で続ける。
「今はデキ婚なんて、珍しくありませんしね。あ、ひょっとして、もう入籍だけ済ませちゃいました? 披露宴とかに合わせて、編集部から祝電を送りたいんですが」
「ええと……、当面入籍とかの予定はありませんので、お気遣いなく」
控え目に断りを入れた美実だったが、木原はちょっと考えてから明るく続けた。
「そうなると……、今流行りの事実婚って奴ですか? さっすが紫堂先生、時代の最先端をいってますよね。それなら私が個人的に、ささやかなお祝いを贈ります」
「いえ、事実婚とかの形でもなくて、この機会に子供の父親とは別れる事に……」
「…………え?」
言いにくそうに美実が告げると、電話の向こうで木原が困惑した声を上げた。そのまま電話を挟んだ双方で、気まずい沈黙が十秒程続いてから、木原が何事も無かった様に話を終わらせる。
「先生の事情は了解しました。それでは失礼します」
「宜しくお願いします」
何とか無事に打ち合わせの通話を終わらせた美実は、携帯を閉じながら溜め息を吐いた。
「何だか、変に気を遣わせちゃったわね」
そして椅子から立ち上がって自分のベッドにごろりと横たわってから、しみじみとした口調で呟く。
「でも木原さんの様な反応が、世間一般的な反応なんだろうな。そう考えると、うちって寛容って言うか豪胆って言うか……。揉めて以来、時々物言いたげな視線は受けるけど、口に出して五月蝿く言ったりしないものね」
自分の家族をそんな風に冷静に評しながら、美実はそのまま暫く自室の天井を見上げて、難しい顔で考え込んでいた。
その翌日。美実にとっては義兄に当たる谷垣康太が帰国したのが日曜だった為、彼が空港から直行して藤宮家に顔を出した時、一家全員揃って、美樹の誕生日の祝いをしていた。
「お久しぶりです。お邪魔します」
「いらっしゃいませ、谷垣さん」
玄関を開けた美野に先導されて康太が座敷に顔を出し、室内の面々に立ったまま神妙に挨拶すると、美樹が嬉しそうに駆け寄って来た。
「くま~!」
「こんにちは、美樹ちゃん。また随分と大きくなったなぁ」
愛想良く笑顔を振りまきながら美樹の頭を撫でた康太は、数歩足を進めて美子の前に座り、再度頭を下げた。
「この度は、美恵と安曇の世話をして頂きまして、ありがとうございます」
「大した事ではありませんから、お気遣いなく」
そんな社交辞令を交わしてから、康太は思い出した様に背負っていた大きなナップザックを下ろしながら、側にいた美樹に声をかけた。
「あ、そうだ。今日が美樹ちゃんの誕生日って美恵から聞いて、ちょうど良いと思ってプレゼントを持って来たんだ」
「くま?」
「お祝いを頂けるみたいよ? ちゃんとお礼を言いなさいね?」
「うん!」
ごそごそとナップザックの中を漁っている康太を見て、美樹は不思議そうな顔になったが、美子の台詞で何やら貰えるらしいと見当がついたのか、美樹はにこにこしながら待った。そんな彼女の前に、康太がある物を差し出す。
「ほい! 美樹ちゃん。今回の旅行先の地元民に長年伝わっている、魔除けの御守りなんだ」
「すご~! ありがと~!」
「どういたしまして」
木彫りのトーテムポールに良く似た感じのそれは、一応人型を模しているらしいが、上部の顔は能面っぽい上、全体に意味不明な紋様が極彩色で描かれている不気味な物で、とても子供に対する一般的な土産物とは思えなかった。それを無言で凝視している美子に、昌典が控え目に声をかける。
「……美子」
「何? お父さん」
「顔が引き攣っているぞ?」
「気のせいよ」
きっぱり言い切られて昌典が口を噤むと、義父とは反対側から秀明も美子に囁いた。
「確かに魔除けと言うより、寧ろ呪われそうだが、谷垣さんに悪気は無いんだからな?」
そう言われた美子は、若干不愉快そうに夫に向き直って言い返した。
「何を言ってるの、あなた。そんな失礼な事は考えていないわ」
「そうかもしれんが、変な病原菌とか付いていそうだから、アルコール消毒位はしたいとか思ってはいるよな?」
「…………」
どうやら図星だったらしく、美子は無言のまま視線を逸らした。それを見て昌典と秀明が小さく溜め息を吐く中、美実は久し振りに目にする義兄の底知れなさに感嘆する。
(さすが谷垣さん。大概の事では動じない美子姉さんを、容易に呆れさせたり苛立たせるなんて。あの秀明義兄さんがフォロー役って光景は、滅多に見られないわ)
そんな中、インターフォンの呼び出し音が鳴り、美子が腰を浮かせた。
「あら、誰かしら?」
「私が見て来るわ」
「そう? お願い」
まめな美野が素早く立ち上がり、来客に応対するべく座敷を出て行ったが、ものの数分で困惑顔で戻って来た。
「美子姉さん。美樹ちゃんに、小早川さんから宅配便でプレゼントが届いたんだけど……」
「…………」
襖を開けながら慎重にお伺いを立ててきた美野に、美子は無言で視線を向けた。そして何となく座敷内が静まり返る中、美野が少し怯えつつ再度確認を入れる。
「ここに、持って来ても良いかしら?」
「取り敢えず、持って来なさい」
「はい」
そして開け放した襖の向こうに姿を消した美野だったが、問題の物は廊下に持って来ていたらしく、すぐにそれを抱えて中に入って来た。
「え?」
美子を初め、大人達の目が点になる中、身長1メートルに満たない美樹が横になった時よりも大きく見える明るい茶色のクマ型のぬいぐるみが、彼女の目の前に置かれる。
「はい、美樹ちゃん。小早川さんからの、お誕生日のプレゼントよ」
「りあっくま~!!」
「お、凄いの貰ったな美樹ちゃん」
透明なビニールで包装されたそれを、美樹にせがまれて美野がリボンを外し、ビニールから取り出している光景を見た美子は、若干冷たい視線を夫に向けた。
「……あなた?」
その問いかけに、秀明が弁解がましく口にする。
「確かに『美樹ちゃんからの手紙のお礼に、誕生日にプレゼントを贈りたいから、彼女が好きな物を教えてくれ』と言われて教えたが。俺は、こんな大きな物を要求してはいないぞ?」
「手紙って、何?」
「さあ……、詳しくは聞かなかったが」
怪訝な顔を夫婦で見合わせた時、美実が恐る恐る二人の会話に割り込んだ。
「あの……、それは多分、私が淳に書いた手紙に、同封した物の事だと思うんだけど」
それを聞いた美子は、ちょっと驚いた顔になった。
「手紙を書いたの?」
「貰ったので、一応返事を」
「ふぅん? そうなの」
(別に責められてる感じとは違うんだけど、何? この居心地の悪さ)
そこで義兄からは薄笑いを、美子からは探る様な笑みを向けられた美実は、その場を離れるきっかけを掴めずに若干気まずい思いをしていると、至近距離で姉妹達が囁き合っている内容が聞こえて来た。
「同封されたメッセージカードには『お誕生日おめでとう、美樹ちゃん。いつまでも優しい君でいてくれ』って書いてあるんだけど……」
「小早川さん、去年の美樹ちゃんの誕生日には、特にプレゼントはくれなかったよね?」
「そりゃあ友人の子供の誕生日だからって、一々プレゼントを贈っていたら、お金が幾らあっても足りないわよ」
「まさか美樹ちゃん……。小早川さんが精神的に落ち込んでいる上、自分の誕生日が近いこの時期に、ちょっと優しい言葉を書いて送ったら、プレゼントを奮発してくれるとか、考えたりはしていないわよね?」
「…………」
美野が疑わしげにそう口にした途端、一斉に三人が美樹に視線を向けて押し黙った。しかしすぐに、美恵と美幸がこぞって否定してくる。
「ちょっと、美野。それ、どう考えても考え過ぎだから」
「そうよ。二歳児がそんなに計算高い筈無いって! 本当にそうだったら怖すぎるから!」
「そ、そうよね?」
そして三人で「あはは」と笑い合っていたが、その笑顔が微妙に引き攣っているのが、美実には分かった。
「くま、ごろ~ん!」
「良かったなぁ、美樹ちゃん」
「うん!」
(でも、美子姉さんと秀明義兄さんの子供だし……。本当に、偶々?)
そして貰ったぬいぐるみに早速抱き付きながら、畳の上に転がっている美樹を見て、美実は密かに頭を悩ませる事になった。
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