藤宮家の当主である昌典は、帰宅時に玄関で孫娘が出迎えてくれた為、泊まりがけの出張の疲れも忘れて、満面の笑顔になった。
「おじーちゃん! おかえりー!」
「ああ、美樹。ただいま。ちょっと見ない間に、また大きくなったな」
「うん!」
相好を崩しながら美樹を両手で持ち上げた昌典を見て、既に夕飯を済ませて出迎えた美子と秀明が、苦笑しながら声をかける。
「たかだか三日会わなかった位で、大きくなったも何も無いでしょう」
「お帰りなさい、お義父さん」
「ああ、美子、秀明。留守中、何か変わった事は無かったか?」
「それは……」
美子達が咄嗟に顔を見合わせ、どう話を持って行こうかと口ごもった隙に、美樹が空中に持ち上げられながら、上機嫌で報告した。
「おじーちゃん! あかちゃん!」
「はぁ? 美子、二人目か?」
慌てて昌典が美樹を床に下ろしながら視線を向けてきた為、美子は慌てて説明しようとした。
「違うわ、そうじゃなくて」
「みーちゃん、あかちゃん! よしき、おねーちゃん!」
「どういう事だ?」
「美樹……」
にこにこと美樹が報告した内容を聞いた途端、昌典は僅かに表情を険しくし、秀明は思わず片手で顔を覆った。
「お父さん、話は夕食を済ませてから」
「食べる前に話を聞く。居間に美実を連れて来なさい」
「……はい」
何とか取りなそうとした美子だったが、昌典はそのまま居間に向かった為、秀明はその後に付き従い、美子は美実を部屋まで迎えに行った。
「お帰りなさい、お父さん」
「そこに座れ」
自分を呼びに来た美子から、一応説明を受けていたものの、居間に入って明らかに不機嫌そうな父親を見て、美実は溜め息を吐きたくなるのを堪えた。そして手で示されるまま、美実は昌典の向かい側のソファーに座り、彼女の隣に美子が、昌典の隣に秀明が座った所で、尋問が始まる。
「俺に、話す事があるな?」
「ええ。昨日の話だけど……」
ここに来るまで完全に腹を括っていた美実は、前日の騒動の一部始終を淀みなく説明し、自分の主張で話を締めくくった。
「……そういうわけで、淳と別れて子供を産んで育てる事にしたから」
しかし話が進むにつれて徐々に憤怒の形相になりながらも、黙って話を聞いていた昌典の怒りが、ここでとうとう爆発した。
「ふざけるな!! この大馬鹿者がっ!!」
「……っ!」
「お父さん、少し冷静になって頂戴」
かつて無い程の怒鳴り声と共に、破壊するのではないかと思われる程の勢いでローテーブルを拳で叩いた昌典を見て、美実は真っ青になって身体を強張らせ、美子は冷静に父親に声をかけた。するとその物言いが気に障ったのか、昌典の怒りの矛先が美子へと向かう。
「美子、お前もお前だ! 何を悠長に構えているんだ! しかも小早川君を叩き出すとは! ここは叱りつけてでも、きちんと結婚させるべきだろうが!」
しかしその腹立たしげな訴えにも、美子は落ち着き払って言い返した。
「結婚は本人同士の意志ですべきでしょう? 美実が納得できていないものをごり押ししても、上手くいかないと思うわ」
「しかしだな、生まれてくる子供の事を考えると」
「そしてその子が大きくなったら『本当は結婚したくなかったけど、あなたの為を思って仕方無く結婚したのよ』と言わせるの?」
「……それは極論だろうが」
思わず憮然とした顔付きになった昌典だったが、そんな父に向かって、美子は淡々と話を続けた。
「美実がどうしても産みたくないと言うなら、早めに堕ろす選択肢もあるけど、どうしても母体に負担がかかるから勧められないし。だけど今の所、美実は産むつもりだから、それを認める代わりに、何かあった時は私と秀明さんの養子にするわ」
「ちょっと待ってよ! 養子って何? 私、ちゃんと育てるわよ?」
姉の提案を聞いて、美実は慌てて会話に割り込んだが、美子は父から妹に視線を向けてから、幾分冷たい口調で言い捨てた。
「何を甘い事を言っているの。女手一つで育てるなんて、生半可な事じゃ務まらないのよ? 今のところ仕事はあるけど、物書きなんて書けない売れないなんて事になったら忽ち干上がるし、何の保証も無い職業じゃないの」
「それは! 確かにそうかもしれないけど!」
「それに将来、あなたが結婚を考える相手ができたとして、その人が子連れで結婚するのを嫌がったらどうするの?」
「そんな事は……。結婚とか、そういう事は……」
それ以上反論できずに俯いて口ごもった美実だったが、美子は構わずに再度主張を繰り出した。
「あなたがどうしても産みたいって言うのなら止めないし、できるだけ力になるつもりだけど、これからどうしようもない事態になる事が、起こらないとは限らないもの。だから万が一あなたの手に負えなくなったら、私達夫婦が責任を取ると言っているだけよ」
「俺達が二人でそういう話をしているのを、美樹が聞いて先程の発言になったと思われます。配慮不足でした。申し訳ありません」
そこで秀明が補足説明して昌典に頭を下げると、彼は表情を怒りから苦笑に一転させて、義理の息子を宥めた。
「秀明、お前が謝る事ではない。一歳児が理解できる話だとは俺にも思えん。美樹が年相応の子より口が達者で、頭の回転が早いだけだ」
「今、さり気なくジジ馬鹿ぶりをさらけ出しましたね?」
「ここに家族以外は居ないからな。問題あるまい」
そんな風に男二人で和やかな会話を交わしてから、秀明は真顔になって美実に向き直り、落ち着いた声音で言い聞かせてきた。
「だけど美実ちゃん。美子が言っている事は正論だ。俺の母も未婚の母だったからね。俺が認識してる範囲でも相当苦労していたし、実際はそれ以上だった筈だ。だから本音を言えば、一人で産んで欲しくはないんだが」
「お義兄さん……」
義兄の生い立ちの詳細までは知らないまでも、おおよその所は知り得ていた美実は、さすがに言い返せずに黙り込んだ。それを見た秀明が、若干困った様に笑いかける。
「でも、やっぱりお腹の子供は俺の友人の子供でもあるから、安易に堕ろしたりして欲しくないし、かと言って美実ちゃんに不本意な結婚もして欲しくない。これからもう少し、お互いに冷静に話し合って貰いたいんだが、それでも問題が生じた時は俺達で責任を取るから、安心して産んで良いから。余計な心配を増やすと、身体に悪いからね」
彼にしては優しく声をかけると、慌てて美実が反論しようとする。
「そんな! お義兄さん達が責任を取る必要なんて!」
「本来は無いわね。産むと言う権利を行使するなら、それに付随する義務と責任を果たすのはあなたの役目よ。せめて産むまでの間に、それをしっかり認識しなさいと言っているだけだわ」
「…………」
しかしバッサリと美子に切り捨てられ、美実は思わず黙り込み、居間に気まずい沈黙が漂う。すると突然、その空気に似合わない、明るい声が割り込んだ。
「みーちゃん! おふろ、は~い~ろ~!」
ドアを押し開けて入ってきた美樹が、迷わず自分の所まで来て、くいくいと手を引っ張った為、美実は面食らった。
「え? 美樹ちゃん?」
「やくそく! ね~! お~ふ~ろ~!」
「え、ええ……。でも……」
約束などした覚えなど無かったが、ここは話を合わせるべきかと、美実は恐る恐る父親の顔色を窺った。すると昌典は、顔をしかめながらもこの場を離れる事を許可する。
「もう行って良いぞ」
「はい……、失礼します」
「おじーちゃん、おやすみです!」
「ああ、おやすみ」
神妙に頭を下げた美実の横で、美樹がにこにこしながら挨拶すると、さすがに憮然としたままの顔はできなかったのか、昌典の顔が僅かに緩んだ。その隙に美実はソファーから立ち上がり、美樹の手を引いて居間から抜け出した。
「美樹ちゃん。お風呂の約束、してないよね?」
廊下を歩きながら尋ねてみると、美樹が真剣な表情で見上げながら言ってきた。
「うん。えーちゃん、『さーしゅーけーき、とーぬー』って」
「え? 何それ?」
「えっと、『ほーべん』で、うそ、いいって! ほーべん、すご~」
美樹が口にした内容を、美実は僅かに眉を寄せて脳内変換し、すぐに正確な所を理解した。と同時に、美樹の背丈であれば、まだ居間のドアノブにまで手が届かない筈であり、誰かが廊下からドアを開けてやらないと彼女が一人で入って来れる筈が無かった事に気が付き、更に自分達が廊下に出た時に誰も居なかった事で、二重の気遣いを感じた。
「ええと……、つまり『最終兵器投入』で『嘘も方便』って事よね。美恵姉さん……、美子姉さんにバレたら、後から怒られるわよ?」
思わず小さく笑ってしまうと、美樹が少し困った様にお伺いを立ててくる。
「みーちゃん。ダメ?」
そこで心配そうに尋ねてきた姪を安心させるべく、美実は笑顔で首を振ってみせた。
「ううん、これから一緒にお風呂に入ったら、嘘じゃないから大丈夫よ?」
「うん。お~ふ~ろ~! じゃぶじゃぶ~!」
彼女の言葉を聞いて安心した美樹は、途端に機嫌良く風呂場に向かって歩き出した。
一方で、美実達が出て行った直後の居間では、昌典が美子に対して溜め息を吐いてから苦言を呈した。
「美子……、お前の気持ちは分かるし全く同感だが、あまりきつく言うな」
「怒鳴りつけていたのは、お父さんじゃないの。……どうせ私は、ガミガミばばぁよ」
父親の言葉に美子は不快そうに目を細め、面白くなさそうにそっぽを向いた。しかしそれを見た秀明が、笑いを堪える様な口調で言い出す。
「拗ねるな、美子。可愛過ぎて、また惚れ直すだろうが」
「秀明、こんな時にのろけるな」
「茶化すのは止めて頂戴」
義父からは呆れ気味の、妻からは冷たい視線を向けられた秀明だったが、そこでいつもの表情になって昌典に申し出た。
「話を戻しますが、俺としてはやはり、二人にきちんと結婚して貰うのが最良だと思います。ですが先程言った様に最悪の場合でも、美実ちゃんと子供の事は俺達できちんと面倒を見ますので、安心して下さい」
そう請け負った秀明に、昌典は自然に頭を下げた。
「そうか……。本当にすまん、秀明」
「お義父さん、頭を上げて下さい。俺にとっても美実ちゃんは可愛い義妹ですから、それ位当然です」
「お父さん、少ししてから食堂に来て。お夕飯を出しておくわ」
そんな二人の会話を無視して唐突に立ち上がり、自分の言いたい事だけ言って台所に向かった美子を見送った昌典は、思わず溜め息を吐いた。
「美子の奴、相当へそを曲げているらしいな」
それに秀明が、困った様に頷く。
「はい。淳本人が美実ちゃんの事をちゃんと理解していなかった事に加えて、実家の家族に言いたい放題言われた事で、完全に態度を硬化させまして。昨夜から、何度かやんわりと諭してみたのですが、全く聞く耳持ちません」
「本当に……、しなくても良い苦労をかけるな」
頭痛を堪える様な表情になった義父を、秀明が冷静に宥める。
「気にしないで下さい。それよりも美子の攻略と懐柔が、二人が結婚する為の最重要課題だと思われます」
「確かにそうだな……。小早川君がこれ以上、美子を怒らせない事を祈ろう」
「なるべく俺も、フォローできる所はしていきますので。美恵ちゃん達にも頼んでおきます」
「そうだな。よろしく頼む。食べたら深美にも頼んでおこう」
そこで亡き義母の名前を聞いた秀明は、放っておくと昌典は仏壇の前で徹夜するかもしれないと懸念し、区切りの良い所で声をかけないと駄目だろうなと、密かに考えを巡らせた。
予想外の誘いを受けたお風呂で、美樹と楽しく一時を過ごした美実だったが、風呂から上がって美樹を秀明に引き渡し、自室に一人きりになった途端、気分が下降するのを止められなかった。
「相変わらず美子姉さんって、普段おっとりしている感じなのに、叱る時は容赦ないんだから」
布団に潜り込みながらぶつぶつと文句を口にした美実だったが、美子の主張を全面的に認めるだけの、冷静さは持ち合わせていた。
「義務と責任なんて……。分かってるわよ、そんな事位。子供じゃないんだから……」
弁解する様に呟いた美実は、自分が泣きそうになっている事に気が付き、それ以上余計な事を考えない様にするため、頭から布団を被って寝る事にした。
そんな風にすっきりしない気分で過ごしていた美実だったが、一方の淳も状況は大して変わらなかった。
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