月曜の夜、電話がかかってきた為、淳が固定電話の受話器を上げると、確実に居る時間を見計らったらしい父親の声が聞こえてきた。
「やあ、淳。元気にしてるか?」
「親父? ああ、取り敢えず体調は良いが。珍しいな、親父が電話してくるなんて」
「今、元気なのが俺しかいなくてな」
それを聞いた淳は、僅かに眉根を寄せた。
「そっちで今、質の悪い風邪でも流行ってるのか?」
「加積康二郎と言う人が、奥様同伴で旅館に土日お泊まりになってな。全室貸切にして、他に黒服の男性が三十人程、一緒に泊まった」
「…………」
淡々とした声での報告に、淳は無言で固まった。そんな息子の反応は気にせずに、潔がそのままの口調で話を続ける。
「ここに来るまでも凄かったらしい。一人一台運転して来たから、温泉街の入口が三十台以上の黒塗りの外車で渋滞して、周囲から何事だと思われたそうだ」
「親父……、何を感心してるんだ」
妙にしみじみとした口調で語る父に淳は突っ込みを入れたが、潔の話はこれからが本番だった。
「別に感心してはいないが……。それで到着早々、奥さんの方が外に繰り出し、土産物屋を回って片っ端から店内の商品を全て買い上げて、一つ一つきちんと包装させてうちに運び込ませたものだから、売る商品が無くなった上、その対応で殆どの店が開店休業状態になった。飲食店には黒服が居座って他の客に睨みを利かせるものだから、買い物も食事もできないと、観光客からの苦情が観光協会事務所に殺到したそうだ」
「それ……、店の方からも、影響妨害の苦情が集まったんじゃないのか?」
「ああ、そっちの方はうちにだ。買い上げた商品の搬送先や、請求書の届け先から、うちの滞在客だと分かったし」
「…………」
週末の書き入れ時に多数の店が迷惑を被った上、温泉街のイメージダウンに繋がりかねないと実家に非難が集中した事が容易に想像できた淳は、無言で額を押さえたが、続けて潔が無視できない事を言い出した。
「あと夜の宴会時には、大広間で読経会を開催してな。用意してきた音響設備で、窓を開け放って大音響でそれを流したから、かなり広い範囲に響き渡ったらしい。周りに迷惑をかけてしまった」
それを聞いた淳は、顔付きを険しくして口を挟んだ。
「親父。それは立派な営業妨害だぞ。十分、訴えられるレベルだ」
「ああ。店の商品を正規の値段で購入したり、うちの中でされる分には仕方がないが、不特定多数の人間を不快にさせるのはな。だからご挨拶がてら、止めて頂くように頼んでみた」
「……それで?」
抗議したなら抗議したで、淳は不安しか感じなかったが、潔は口調を変えないまま、さり気なく尋ね返した。
「お前、美実さんの監禁について、加積さんを訴えるとか書いた手紙を渡したな? 現物を見せて貰ったが」
それで完全に話の流れが見えた淳は、唸る様に確認を入れた。
「……ああ。それで俺、親父から意見しろとでも言われたか?」
「言われたな。だが、それとこれとは別問題だし、書かれてある事が本当なら、尚更お前に止めろとは言えんだろう? だからそう答えたが。そうしたら、取り敢えず読経を外に流すのは止めてくれた。一晩、うちの中で読経が響いていたがな」
「親父、すまん!」
淳は本気で電話の向こうの父親に頭を下げたが、潔の声は全く動じないままだった。
「別に、お前が謝る事では無いだろう。筋が通らない事を言っているのはあちらだ。質の悪い客は、いつの時代にもいるものだ」
「いや、それでも加積クラスの傍迷惑客は、そうそういないと思うんだが……」
きつい性格の母親の横で、常日頃は影が薄い父親の、意外な肝の座り具合に感心しながら淳が口を挟んだが、ここで潔は苦笑いの口調になった。
「まあ確かに困った客ではあったが、しっかり正規料金は払って貰ったしな。その上、完全に開き直った縁が『札束が向こうから歩いて来てんのよ! ありったけ飲ませて食べさせなさい!』と温泉街中から食材と酒をかき集めて提供して、ちゃっかり別料金で上乗せ請求していた。客を見送った直後に、緊張の糸が切れたらしく熱を出して倒れたが、まだ変なテンションのまま、布団の中で高笑いしているぞ」
「縁の女将根性は凄まじいな。あの加積から金を巻き上げたのかよ……」
溜め息を吐いて項垂れた淳だったが、潔の話は更に続いた。
「それから康之は、この間周囲の旅館に頭を下げて駐車場や仲居を融通して貰ったり、業者に頭を下げて食材資材をかき集めたり、苦情受付の窓口になって方々に頭を下げて回って完全に胃をやられたのか、今日の午後胃カメラをして、そのまま入院治療になった」
「なんかもう……、康之さんには本当に申し訳ない……。ところでお袋は?」
「加積さん達が大挙して現れた段階で寝込んだ」
「……そうか」
それで父だけが普通に話ができる状態だと分かった淳は、暗い表情になって黙り込んだ。するとそれを察したのか、潔が再び笑いを堪える口調で話しかけてくる。
「しかし、お前。とんでもない人に喧嘩を売ったものだなぁ……」
「親父がそこまで平常運転なのが、俺は逆に怖いんだが」
正直な感想を口にした息子に、潔が平然と言い返す。
「ジタバタしても仕方があるまい? 一応、経過を報告しておこうと思ってな。縁からは『バカ淳に一言文句言っといて!』と絶叫されたし」
それを聞いた淳は、瞬時に真顔になった。
「……落ち着いたら、一度そっちに顔を出す。好き放題にボコれる様に、それまでにしっかり体力つけとけって、縁に言っておいてくれ」
「分かった。伝えておこう。それから言わずもがな、だが……。負けるんじゃないぞ?」
「当たり前だ。じゃあ親父も、身体に気をつけろよ?」
「ああ。それじゃあな」
静かに激励してくれた父親に感謝しつつ、淳は静かに受話器を戻してから、悪態を吐いた。
「……あのくそジジィ、やってくれやがった」
わざわざ直に実家に圧力をかけに行った、加積夫婦の底意地の悪さを再認識した淳は、自分の考えの浅さに盛大に歯ぎしりした。
※※※
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい」
殆ど目を合わせないまま、しかし一応律儀に挨拶をして食堂を出て行った美野を見送って、この間ずっと居心地の悪さに堪えていた美幸が、盛大に抗議の声を上げた。
「美子姉さん。美野姉さんの態度もどうかと思うけど、いい加減にして!」
「何が?」
「もう三月だよ? 美実姉さんをどこかに預けて、もう優に一ヶ月過ぎてるのに、どういう事? 美野姉さんじゃなくても、心配するし怒るからね!?」
憤然として美幸が訴え、昌典と秀明が視線を向ける中、美子の淡々とした声が食堂内に響いた。
「……言いたい事がそれだけなら、さっさと学校に行きなさい」
「うもぅ! 美子姉さんの分からず屋! 行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
腹を立てながら、それでも美野と同様に挨拶して美幸が出かけてから、昌典が美子に声をかけた。
「美子」
しかし尋ねようとした事を、彼女が先回りして冷静に報告する。
「あれから屋敷を五回訪ねたけど、礼儀正しく門前払いされたし、口を利いてくれそうな人に取り次ぎや屋敷への同伴をお願いしてみたけど、皆に申し訳無さそうに断られたわ」
「そうか……」
「ただ、美実のかかりつけの産婦人科に問い合わせたら、妊婦健診はきちんと受診しているし、特に問題は無いそうよ」
そこまで聞いた彼は、思わず口を挟んだ。
「それなら次の予約日を聞いて、そこで待ち構えていれば」
「個人情報保護の面で、患者に関する問い合わせは受け付けられないのよ」
「俺達は家族だろうが!」
「『ご家族ならご本人に直接お尋ね下さい』と言われるのがオチね」
「…………」
あっさりと美子に言い負かされた形になった昌典は、渋面になって黙り込んだ。するとここで秀明が、思い出した様に尋ねてくる。
「因みに出版社の方は?」
それを聞いた美子は、まるで舌打ちしそうな表情になった。
「迂闊な事に、気が付くのが遅れてね。先週担当の木原さんに電話してそれとなく尋ねてみたら、最近何回か出向いて貰って、当面必要な作業は終えたと言われたわ。逆に『先生から聞いていませんでしたか?』と不思議そうに言われて、冷や汗をかいたわよ」
「そうか……。確かに俺も失念していたしな。そうすると必要な外出は、きちんとさせて貰っているらしいな」
「そうみたいね」
そこで秀明は、改めて美子に尋ねた。
「それで、これからどうする気だ? 淳の奴も、個別に何回か押し掛けているみたいだが、そろそろ我慢も限界らしい」
「……考えが、無いことも無いわ」
「何だ?」
不思議そうに尋ねた秀明だったが、美子は明言せずに父と夫を促した。
「取り敢えず、二人とも出勤して。遅れるわよ?」
「ああ」
「行ってくる」
この状態で、美子があっさり自分の考えを口にする筈も無いと分かっていた二人は、無理に問い詰めずに立ち上がった。そして二人を見送ってから、美子は腹立たし気に、ある所に電話をかけ始める。
「全く……。どこまで世話を焼かせるんだか……。この手は使いたくなかったけど、仕方が無いわね」
そして美子はブツブツ文句を言いながらも、相手が出てからはいつも通りの口調で、ちょっとした野暮用を依頼した。
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