美子達の働きかけも虚しく、取りかかっている淳の仕事もケリがつく目処が立たないまま、あっと言う間に三月に突入し、淳の苛立ちは日を追うごとに増加していた。
「高梨さん、こちらの文書の清書をお願いします。それから三雲さん、このリストの全員と連絡を取って、スケジュール調整をして下さい。それと沼澤さん、この書き出した内容と類似する、過去の判例の検索をお願いします」
「分かりました」
「お預かりします」
「少々お待ち下さい」
周囲のスタッフに矢継ぎ早に指示を出しながら、鬼気迫る形相でモニターの表示を勢い良くスクロールさせつつ、一心不乱に何かをノートに書きなぐっている淳を、事務所の者達はどこか心配そうに遠目で見やった。
「小早川先生、どうかしたんでしょうか?」
「最近、変ですよね?」
「何なんだろうな? 少し前までは幸せ一杯って顔をしてたのに、最近雰囲気が怖いぞ」
そんな事を囁かれているなど気付きもせず、淳はひたすら目の前の事案に取り組んでいた。
(全く、よりによってどうしてこんな時期に、こんなに揉める案件に関わらなくちゃならないんだ!!)
心の中で盛大な罵倒を吐き出した淳だったが、そこで周囲からの有形無形の圧力を受けた森口が、さり気なく声をかけてきた。
「どうした、小早川。随分苛ついているみたいだが、何かあったのか?」
「……プライベートで少々」
「そうか……」
ノートを見下ろしながらも、一応手を止めてぼそりと呟いた淳に、森口は言葉少なに応じた。正直なところ(またかよ……)と呆れた彼だったが、それは感じさせずに明るく話しかける。
「それで、今度は誰を怒らせたんだ? 美実さん本人か? 夫婦喧嘩に関しては一家言を持っていると自負しているから、アドバイスできるならしてやるぞ?」
「どれだけ夫婦喧嘩をしてるんですか……。お心遣いは大変ありがたいのですが、喧嘩の類ではありませんので」
溜め息を吐きながら丁重に断りを入れた淳に、森口は意外そうな顔つきになった。
「ふうん? でもまさかお前に限って、借金とかじゃあるまいな?」
「その心配も無用です、森口さん。ちょっと美実が軟禁されているだけですから」
「ああ、そうか軟禁……、って! 何だそれはっ!?」
思わず素直に頷きかけて、慌てて自分の肩を掴みながら声を上擦らせた森口に、淳は僅かに困った顔を向けた。
「森口さん……」
淳がさり気なく周囲に目線を向け、今の行為で室内の人間の視線を集めてしまったと認識した森口が、声を潜めて謝罪した。
「あ、ああ……、悪い。いや、しかしだな、穏やかでは無さ過ぎるだろ! 何なんだ軟禁って!」
小声ながらも鋭く詰問してきた森口に、淳は冷静に答えた。
「もっと正確に言えば、ヒット本欲しさに、自主的に滞在しているとも言えますが」
「さっき聞いた内容との差が、著しいと感じるのは俺だけか?」
「森口さんは、『三田の妖怪』と言うフレーズを聞いた事はありますか?」
唖然としたところで唐突に話題を変えられ、森口は困惑しながらも記憶を探ってみた。
「『三田の妖怪』? それって……、あれだろ? 加積康二郎の事だよな? 奴の息がかかってるスクエア法律事務所って、業界内でも超有名じゃないか。灰色を白にするどころか、真っ黒をえげつないやり口で白にしちまう、ろくでもない悪徳弁護士事務所で、腹黒くて後ろ暗い奴ら御用達だし。うちも何回か負けてるだろ?」
「その加積邸に軟禁されてます。彼女の姉夫婦が、解放するように妖怪夫婦と交渉中らしいですが」
さらりと聞き捨てならない事を言われた瞬間、森口の顔が凍り付き、押し殺した声で淳に迫った。
「……お前、一体何をやった?」
「先んじて、こちらから何かをしてはいません。美実が軟禁されてからは、軽く喧嘩を売ってきましたが」
「だからお前、何をやらかしてるんだ!?」
森口が思わず大声で叱りつけ、更に室内の視線を集めたが、淳は微動だにせずに淡々と状況説明をした。
「最悪、辞表を出すので、今手がけている事案をできるだけ進めて、滞りなく引き継ぎできるようにしておきます。なるべく他の皆さんに、ご迷惑をかけないようにしておきますので」
「おっ、お前な……。いや、喚いている場合じゃない。下手したらスクエア法律事務所が絡んでくる可能性が無きにしも非ずとなると、所長になるべく早く報告しておかないと……」
思わず声を荒げかけた森口だったが、何とか思いとどまり、勢い良くその場から駆け去って行った。
「森口さん?」
「どうしたんですか!?」
周囲の者達が驚いて、その背中に声をかける中、淳だけは冷静に、中断していた作業に再び取り組み始めた。そんな風に、色々な意味で淳は徐々に煮詰まっていたが、美実はすこぶる順調に、加積邸での日々を過ごしていた。
「おはようございます」
「おはよう」
「あ、美実ちゃん、おは~」
朝起きて食堂に顔を出すと、屋敷内で生活している女性達が挨拶を返して来たが、それに美実は逆に驚いた。
「あれ? 楓さん、今日はお店が休みって言ってませんでした? それなのに、いつもより起きる時間が早いですよね?」
クラブのオーナーママである楓は、皆が朝食を食べ終えてからゆっくり起きてくるのが常であり、席に着きながら尋ねてみると、彼女は堂々と主張してきた。
「休みだから、早く起きるんじゃない。時間は有効に使わなくちゃ。夜まで遊び倒すんだもの」
「あなたの場合、『夜まで』じゃなくて『夜も』でしょう? もうそんなに若く無いんだから、いい加減夜遊びも夜の商売も、足を洗いなさいよ」
「余計なお世話。それに還暦で現役ママをしている大先輩に、失礼だと思わないの?」
年嵩の蓮が冷静に突っ込みを入れ、それに楓が盛大に言い返す様子を見て、美実は(相変わらずだわ)と苦笑いしながら、久しぶりに朝に顔を合わせた楓を宥めた。
「でも本当に、楓さんって三十代半ばだなんて見えませんよ。最初、私と何歳かしか違わないと思ってましたし」
「うん、正直で宜しい!」
「増長するから、この子に関しては、お世辞はほどほどにね」
「いえ、本心からそう思ってますが!」
そこでこれ以上揉めては堪らないと、美実は慌てて使用人の女性に揃えて貰った箸を取り上げながら、話題を変えた。
「そういえば、加積さん達は、昨日からお出かけでしたね」
すると蓮と楓は軽く目を見交わしてから、意味ありげに微笑む。
「ええ。夫婦で温泉旅行だそうよ」
「良いですよね。お年を召してからも、仲が良くて」
「そうね」
「二人揃って、面白い事が大好きですものね」
蓮達は、加積達が淳の実家にちょっかいを出しに行ったのを知っていたが、美実には内緒だった為、すっとぼけた。そして広い食堂で三人で朝食を食べ始めて少ししてから、美実がさり気なく話題を出す。
「だけどこの間ずっと観察してましたけど、お二人って全然愛人らしく無いですよね? ちゃんと外でお仕事をしてますし。初めて紹介された時に、驚きました。てっきり加積さん達の娘さんかと思ったんですが」
それを聞いた二人は、小さく噴き出してから口々に言い出した。
「確かに、世間一般のイメージとは、かけ離れている自覚はあるわ」
「私達、どっちかって言うと、康ちゃんより桜さんの意見の方を優先するしね」
「加積さんの事を『康ちゃん』呼ばわりするだけで、楓さんが勇者に見えます……。できれば加積さんとの馴れ初めとかを、差し支えなければ聞かせて頂きたいんですが……」
そんな事を控え目に美実が言い出した為、蓮が意外そうに尋ねた。
「あら? ひょっとして、桜さんに聞かれたら拙いかもと思って、そこら辺を今まで聞いていなかったの?」
「はぁ……、一応」
「そんな事、気にする事無かったのに! だって桜さんが大いに関わってるし」
「どういう事ですか?」
途端にケラケラ笑い出した楓に美実は驚いたが、楓はそのまま楽し気に話を続けた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!