藤宮邸内で、美実達がパニック寸前の状態に陥るより、遡ること十分前。潔と良子は最寄り駅から住所を元に、徒歩で藤宮家へと向かっていた。
予め調べておいた箇条書きの地図と、駅前の地番表示を見てそれほど戸惑わずに進む事ができたものの、少し前から道の片側に続いている、きちんと積み上げられた石垣の上に設置されている板塀に、良子は呆れ気味の視線を向ける。
「全く……、さっきから何なの? この板塀。野中の一軒家じゃあるまいし、23区内で最寄り駅から十分前後でこれだけの屋敷を構える事ができるなんて、ここの家の人間、絶対ろくな事をしてないわよ」
半分以上嫌味で口にした内容を、潔が溜め息を吐いて窘めた。
「良子。あまり失礼な事を言うな」
「だって、真っ当な事をしてたら無理よ、こんなの。周りの家だって、都内にしては敷地があると思うけど。絶対、脱税とかで裏金を貯め込んいでる成金よね」
「そうとは限らんだろうが」
すっかり決めつけている妻に、どう言ったものかと潔は頭を悩ませたが、本人はさっさと頭を切り替え、角を曲がると同時に住所を書いた紙をもう一度見下ろして確認してから、周囲を注意深く見回し始めた。
「ええと……、淳から聞いた住所だと、この辺りの筈よね?」
「ちょっと待て。もう一度、地図で確認してみるから」
潔も歩きながら上着のポケットをごそごそと探り始めたが、ある事に気が付いた良子がそれを止めた。
「……待って、あなた。分かったわ」
「そうなのか? 良かった。どこだ?」
「ここ、みたい」
「ここって……」
先程、良子が『ろくな事をしていない』と言い放った板塀が続いた先に据え付けられている、重厚な数寄屋門を指し示されて、潔は戸惑った表情になった。良子も若干呆然としていたが、門の上部に《藤宮》の分厚い木製の表札が掛かっているのを見て、潔が思わず納得した様に頷く。
「淳が言ってた、美実さんが『良い家のお嬢さん』だって言うのは、本当だったらしいな」
「まあ……、そうね。なかなか立派なお家みたいだから、変にこちらを当てにする事も無いでしょうし、良かったわ」
少し面白く無さそうに良子が応じると、潔が気を取り直して提案した。
「取り敢えず、ご在宅かどうか聞いてみるか」
「そうね。ここで立っていても始まらないし」
そこで門の横に据え付けられていたインターフォンに近かった良子が、手を伸ばして呼び出しのボタンを押した。すると数秒後に、女性の声で応答がある。
「はい、どちら様でしょうか?」
「小早川淳の母です。主人共々、こちらのご主人か、美実さんに」
「は、はいぃぃ!?」
愛想笑いを浮かべつつ、インターフォンに語りかけた良子だったが、何故か自分の言葉を遮る様に奇声が発生した後、全く物音がしなくなった為、彼女は笑顔を強張らせながら夫を振り返った。
「……何?」
「さぁ……。でも、誰か居たんだよな?」
「そうよね? 一体何なのよ?」
そして良子は腹立たしげに再びインターフォンに向き直り、機器越しに文句を言おうとした。
「ちょっと」
「こちらは自動音声対応システムです。誠に申し訳ありませんが、現在この家は留守にしております。後ほど、日を改めてご訪問下さい」
「…………」
しかし先程と同じ女性の声で、冷静に語られた内容を聞いて、潔と良子は思わず顔を見合わせた。
「自動音声対応システム?」
「そんなわけありますか!! 何なの? 人を馬鹿にしているわけ!?」
潔は怪訝な顔をして呟いたが、良子は怒気を露わにして夫を叱りつけた。そして再びインターフォンに向かって相手を怒鳴りつけようとした所で、背後から困惑気味の声がかけられる。
「どうかされましたか? 家に何かご用でしょうか?」
その声に潔と良子は、慌てて声がした方に向き直った。
「え? あの……、こちらの方ですか?」
「はい、藤宮美子と申します。今日はちょっと外に出ておりましたが、妹達が家に居るはずなのですが……」
(どうして門前で揉めていたのかしら? 珍しいけど、夫婦で新興宗教の布教活動でもしているとか? それで皆に門前払いされて、腹を立てていたのかしら)
美子にしてみればこの時点では全く事情が分からなかった為、小さく首を傾げたが、彼女が普段使いにしている大島紬と印伝のハンドバッグを見て、その価値のおおよその目安をつけた良子は、若干の嫉妬心と対抗心を煽られた。しかし潔はちょうど良かったと安堵し、落ち着き払って頭を下げる。
「申し遅れました。私は小早川潔と申しまして、淳の父親です。こちらは妻の良子になります。初めまして」
「良子です。字は違っても私と同じ『よしこ』と言う名前の、しっかり者のお姉様が美実さんに居られると、淳から聞いていました。お会いできて嬉しいです」
二人から微笑みながら挨拶をされた美子は、内心でかなり驚いたものの、表面上は微塵も動揺せずに穏やかに言葉を返した。
「こちらこそ光栄です。どうぞ中にお入り下さい」
「それではお言葉に甘えまして、失礼します」
そうして笑顔で家に入る様に促した美子だったが、内心では結構腹を立てていた。
(何なの? 訪問するならするで、事前に電話の一本も入れるのが筋じゃないの? それに、よりによって同じ名前? 冗談じゃ無いわ)
そんな事を考えていると、良子のわざとらしい声が上がった。
「まあ、外から見ても立派な構えだと思っておりましたが、植え込みもきちんと手が入っていて素敵ですね」
「ありがとうございます。宜しければ、後程庭の方もご案内致しますが」
「ええ、是非」
そんな社交辞令を交わしながら、美子は門を抜けて玄関へと向かった。
(そう言えば……、昨夜の電話。あれがそうだったの?)
ふと、前夜の事を思い出しながら、美子はさり気なく尋ねてみる。
「小早川さんのご実家は旅館を経営しているとお伺いしましたが、泊まりがけではなくて、今日は午前中に出ていらしたんですか?」
「はい。朝の忙しい時間は一通りこなしてから出まして。長野新幹線ができてから、在来線を乗り継いでも東京に日帰りできる様になって、助かっています」
「本当に便利になりましたね」
そんな会話をして、笑顔で相槌を打った美子だったが、内心では怒りを堪えていた。
(それは確かにこっちが問答無用でぶち切ったのは、不作法で失礼な振る舞いだと非難されても文句は言えないけど、それでこちらに拒絶されているって、察する事ができないわけ? それに連絡を付けないまま乗り込んで来るのは、非常識じゃないの!?)
ムカムカしながらも美子は玄関の鍵を開け、静かに引き開けて潔達を振り返った。
「どうぞ、お入り下さい」
「失礼します」
そして二人に続いて玄関に入ると、何故か上がり口に美野と美樹が立っていた為、美子は怪訝な顔になった。
「美子姉さん、お帰りなさい」
「あら……、ただいま。どうしたの? タイミング良く出迎えなんて」
「ええと……、ちょっとね」
そして曖昧に笑った美野は、微妙に顔を強張らせて潔達に頭を下げた。
「いらっしゃいませ。どうぞお上がりください」
「こんに~ちゃ! ど~ぞっ!」
叔母の横で、美樹が満面の笑みで真似して頭を下げると、潔達もたちまち笑顔を見せる。
「お邪魔します」
「可愛らしいお嬢さんですこと。美子さんの娘さんですか?」
「はい、娘の美樹です」
「本当に、この頃の子供は一番可愛いですね。私の娘もそうですけど、その子が産んだ孫二人もそうでしたわ」
「……そうですか」
(あなたの娘や孫がどんなのかは知らないけど、美樹を十把一絡げにした挙げ句、身内自慢をしないで欲しいわね!)
益々イラッとしながら美子が相槌を打ち、そんな母親の様子を見た美樹はピクッと全身を強張らせて瞬時に笑顔を消した。そして美野が二人の会話が切れるのを待って、先程の事を謝罪しようと恐る恐る声をかけた時に、異変が生じる。
「あの、それで先程は」
「けーかーけーほー!」
「え?」
いきなり甲高い声が広い玄関に響き渡ったと思ったら、声の主の美樹は大人達の視線が集まる中、クルッと踵を返し、更に一声叫んで奥に向かって一目散に駆け出した。
「たいひー!」
「よ、美樹ちゃん!? どうしたの? ちょっと待って!」
そんな風に脇目も降らず、パタパタと駆け去った美樹を呆然と見送った美野は、心の中で涙を流した。
(美樹ちゃんの危険察知能力と生存本能が、人並み以上なのは分かったわ。でもできるなら、叔母さんも一緒に連れて逃げて欲しかった……)
そんな事を考えて一人項垂れていると、背後から不穏な声が聞こえてくる。
「……美野?」
その声に美野は動揺しながら振り返り、必死に弁解した。
「どっ、どうしたのかしらね? 美樹ちゃん。また美幸が、変な言葉を教えたりしたのかしら?」
「全く。後で叱っておかないとね。小早川さん、お騒がせしました。どうぞお上がり下さい」
「はぁ」
「失礼します」
何となく納得しかねる顔つきでスーツ姿の潔と良子が靴を脱ぎ始めると、美子は無言で手招きし、すぐ側にやってきた美野の耳元で囁いた。
「美野。急いで奥の座敷に座布団を四枚準備して、お茶を淹れて持って来て頂戴。それから美実を呼んできて」
「分かりました」
「それから……」
そこまでは素直に頷いた美野だったが、続く美子の指示を聞いて、声を潜めたまま慌てて反論しようとした。
「あの、美子姉さん! でもそれは」
「お願いね? さあ、急いで」
「はいっ!」
小さく睨まれて美野は我に返り、潔達に一礼してから足早に奥へと足を進めた。それから美子は若干時間をかけて草履を脱ぎ、上がり込んでから潔達に笑顔を向ける。
「お待たせしました。それではご案内致します」
そして二人と世間話などをしながら、座敷へと案内していった。
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