「お疲れ様でした」
「お気をつけてお帰りください」
首尾良く打ち合わせが終わり、笑顔の木原に見送られて編集室を出た美実は、並んで歩き出した日下部に詫びを入れた。
「日下部さん、すみません。打ち合わせに夢中になって、殆どほったらかしの状態になっていまして」
「いえ、出版社などに立ち入る機会は、普通なら殆どありませんから、興味深く観察させて頂きました。時々編集長が、話し相手になって下さいましたし」
それを聞いた美実は、笑顔を深めた。
「ええ、上条編集長って、何をやらせてもそつがないって言うか、気配りも仕事もできる人なんですよ」
「見るからに、そんな感じがいたしますね」
「そうなんですが社内で妬まれて、元々男性誌の編集部に居たのに、かなり特殊な業界誌の編集部に回された事があるそうです」
「それは難儀な事でしたね……」
心から同情しながら、(特殊な業界誌って……、さっきの仏教関係の雑誌とも関係があるんだろうか)などと考えていた日下部に、美実が怒りを露わにしながら訴えた。
「でも、そこで斬新な紙面改訂と特集を次々と組んで成功させて発行部数を増やしたら、今度はマゼンダ文庫の編集部に回されて。何でも公衆の面前で『お前は女にモテるから、購買層が女性の所はうってつけだろう』と、かつての同僚に言われたとか。完全にやっかみですよね! 仕事で見返しなさいよ!」
「それは……、編集長はなかなかの苦労人でいらっしゃるみたいですね」
本気で同情した日下部だったが、すぐにその感想を撤回した。
「そうしたら編集長が就任二年で、マゼンダ文庫の売上が五割増になりまして。今年で就任五年目になるんですが、売上は就任以前の二倍を越える見込みになってるんです」
「それは……、素人が聞いても凄い数字ですね」
「ですよね!? だから二年目の時に、かつて嫌みを言った同僚に向かって『君の所は年々売上を減らしてるな。男性が購買層なんだから、君の持論だと君はもっと男好きにならなければいけないんじゃないか?』と会議の席で微笑んで、出席者全員を凍り付かせたそうです。さすが編集長!」
「それは……、なかなか非凡な方でいらっしゃいますね」
他のコメントのしようが無かった日下部だったが、美実は益々上機嫌になって話を続けた。
「ええ。数多くの応募作の中から、私の作品を選んで一押しして下さったのも編集長ですし、私にとっては、もう神に等しい存在なんです! もう一生付いて行きます!」
「そうですか……」
思わず遠い目をしながら、言葉を返した彼は(この女性を拾った段階で、既に非凡な方だろうな)と完全に達観しながら停めてある車へと戻った。
その後、無事に美実を加積邸に送り届けてから、桜査警公社に戻った日下部は、報告の為、直属の上司の席に直行した。
「只今戻りました」
「ああ、日下部、ご苦労。今日頼んだ護衛対象者は特Sだったな。護衛中、何か異常か支障は無かったか?」
「いえ……。特にそのような事は無く、無事に屋敷に送り届けました」
その報告を聞いた警備部門部長の杉本は、満足そうに頷いた。
「そうか。それなら良かった。これからも引き続き頼む」
「あの、その事なのですが……」
「どうした?」
あっさり話を終わらせるつもりだった杉本は、通常とは違って口を挟んできた相手に少々驚いた視線を向けたが、対する日下部はかなり躊躇しながらも、意見を述べた。
「その……、誠に申し訳無いのですが、次回から警護担当者を変更した方が良いのではと思ったものですから……」
「やはり何か問題があったのか? 若い女性だし、我が儘な振る舞いや無茶振りがあったとか」
「その様な事はありません。通常の事柄であれば藤宮様は大変常識的で、周囲への気配りも欠かさない方だと思われます。ただ……」
「ただ?」
「その……、もう少し若い人間の方が、藤宮様と色々と話も合うかと愚考致しまして……。何しろ身重の方ですし、少しでも精神的負担を軽くして、気分転換を図れる相手が護衛の方が良いかと愚考いたしまして……」
冷や汗を流しながら、控え目に主張してきた部下を見て、杉本は真顔で考え込んだ。
「なるほど……。それも一理あるか。護衛と言うのは、対象者の身柄だけ安全に保てば良いのでなく、精神面でも負担を生じさせてはいけないからな。ベテランの君がそうそう対象者を不快にさせるとは思えないが、君がそう懸念するなら、次回の外出時の護衛は他の者に担当させる事にしよう」
「差し出がましい事を申しました。宜しくお願いします」
そこで日下部は胸をなで下ろし、簡単な報告書を作成するべく、自分の机へと戻った。
その日の夜。秀明は久しぶりに訪れた淳の自宅マンションで、普段傲岸不遜な彼にしては珍しく、もの凄く居心地の悪い思いをしていた。
「おい……。このふざけた内容は何だ?」
持参したICレコーダーの再生を終えた途端、唸るように問いかけてきた淳に、秀明が渋々と言った感じで答える。
「たった今聞いた通り、美実ちゃんの加積邸滞在宣言だ」
「ふざけるな!! 一体全体、どうしてこんな事態になっているんだ!」
「それは俺が聞きたい位だ……」
勢いに任せてローテーブルを叩きながら怒鳴った淳に、秀明はうんざりとしながら応じたが、相手が憤怒の形相で立ち上がった為、慌ててその腕を捕らえた。
「ちょっと待て、淳。どこに行く気だ」
「美実を連れ戻しに、加積邸に行くに決まってる」
「だから、それは待て! お前が押し掛けても、あの屋敷内に入れて貰える筈が無いし、下手したらその場で不法侵入で捕まるぞ! 弁護士の肩書きに、傷を付ける気か!?」
「そうは言っても!」
双方、険しい表情で言い募ってから、秀明が愚痴めいた呟きを漏らす。
「確かにこれまで私生活が謎に包まれてきた、あの加積の回想録や自伝なんかを出版できたら、作家としては一目置かれるだろうしな。美実ちゃんがその誘惑に勝てなくて、ついつい居座りたくなった気持ちも、分からなくはないが……」
「分かるなよ、そんな事!」
「とにかく、現実問題として、俺達が外で騒いでもどうにもならないんだ。桜査警公社の社長は確かに俺だが、未だに加積の影響下にあるから、加積を叩く為にそこの人員は動かせない。寧ろ直接お前を、どうこうしてくる。その危険性を分かっていて、お前に好き勝手させられるか!」
「……それは十分、分かってる」
真剣に危険性を訴えると、淳が忌々しそうな顔つきながらも、一応おとなしく腰を下ろす。それを見た秀明は幾分安堵しながら、彼を宥めた。
「取り敢えず、美子が加積夫妻、もしくは美実ちゃんに直接連絡を取って、翻意させるように働きかけてみると言っているから、少しだけ待ってくれ」
それを聞いた淳は、まだ納得しかねる顔付きながらも、一応頷いてみせた。
「分かった。取り敢えずはお前達に任せる。そして今手掛けている面倒な奴を、なるべく早く片付ける目処を付けて、加積をつつく為のネタを集める事にする」
「だから……、そういう不穏な発言もするな」
物騒な気配を醸し出している淳を見ながら、秀明は(この俺が、押さえ役に回る事になるとはな。本来こいつの方が、遥かに常識的だった筈なのに)と複雑な心境に陥っていた。
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