××県某所に存在する科学技術研究所。
様々な分野の研究が日夜行われているその場所で、ヒデアキもまた研究の日々を繰り返していた。
ただ、彼はチズの死から自身の中で大きな柱のようなものを喪った感覚を拭い去れず。
その感覚のせいなのか、芳しい研究成果を上げることがまるで無くなってしまっていた。
「京極先生、進捗の方はどうです」
休憩室で一息ついていたところに、コーヒーを片手に職員がやって来る。
薄っすらと昇る湯気をぼんやり見つめながら、ヒデアキは質問に答えた。
「ああ……まだ成果は出ていない。反応が出るのは一週間後か……恐らく、また齟齬はあるのだろうが」
「気の遠い話ですねえ。まあ、そんなものなのは充分承知ですが」
コーヒーを不味そうに啜る職員も、この研究所で幾人もの科学者を見てきたのには違いない。
それを考えると、ヒデアキは少しだけ怖くなった。
研究が行き詰っていることなど、とうに見通されているのではないかと。
「私も早く結果を残したいよ。そうでなければ、意味がない……」
否、意味など既に失っている。
口をついて出てきたのはただ、言い訳の言葉でしかないのだ。
「……そういえば」
気を遣ってくれたのか、職員は話題を切り替える。
「最近あの子、よく来ますね」
「あの子?」
「ええ……様子を見に来てるんですか? それとも、お弁当でも?」
「ちょっと待ってくれ。何のことかな?」
ヒデアキには思い当たる節がなかったので聞き返したのだが、その答えは全く予想外のものだった。
「あれ? 研究棟に来てるのって娘さんですよね」
「アツカ……?」
そんな馬鹿な、という台詞がまず頭に上った。
アツカがこの研究施設を訪ねてくる理由などヒデアキには考えつかなかった。
勿論、弁当を頼んでいるというわけでもなければ、様子見に来てくれるほど気に掛けられているわけでもない。
アツカはもう、ヒデアキに対して好意的な感情を持ち合わせてはいないはずだった。
「どうして、アツカが……」
「おかしいな……普通に歩いてたんで、ここに来ているのは誰でも知っていることかと」
「いや……私はまったく」
「うーん、じゃあひょっとしたら人違いかもしれませんね」
「……だと、思うんだがね」
しかし、良くも悪くもアツカは印象に残る女の子なのだから、誰かと見間違えるとは思えなかった。
この職員もアツカと何度か顔を合わせている人物なので、なおさら見間違いの可能性は低い。
人違いならいいのだが、と思いつつも、ヒデアキは気味の悪い感覚がじわりじわりと広がっていくのを意識せざるを得ないのだった。
*
翌日の夕方。
珍しく早い時間に帰宅したヒデアキは、自身を安心させるためだと言い聞かせながら、アツカの部屋を物色していた。
そう、娘が研究所にいたというのは、何かの間違いだ。それを証明するのは難しいけれど、この部屋に怪しいものがないのならきっと。
しかし、そんなヒデアキの祈りが通じるわけもない。
「……これは……?」
アツカが勉強机の上に置きっぱなしにしていた書籍。
それは紛れもなく医学書であった。
「アツカ……こんなものを読んで……」
パラパラとページを捲ると、至る所に彼女が書いたと思わしき注釈が残っている。
ヒデアキは医術に関して門外漢なので詳しく分からないが、少なくともアツカが素人の域を超えた知識を有しているであろうことだけは理解できた。
机には他にも複数の書籍が置かれており、医学の中でも病理学、薬理学、免疫学などなど各分野の本が揃えられている状態だった。
そのどれにもやはり細かく注釈が記されている。この数を読了し、尚且つこのように注釈までつけるとすると膨大な時間がかかることは言うまでもない。
チズが亡くなるよりも前から、この書籍の山と向き合っていたのは明白だった。
アツカは、自身の力で母親を救う可能性を本気で追い求めていたのだ。
……しかし。
「な、何だこの本は……」
視線を変え、部屋の奥にある本棚を見たとき、ヒデアキは一冊の奇妙な書籍を発見した。
近づいて背表紙を確認してみると、その怪しさは一層高まった。
著書のタイトルは『魂の学問的理解』。
風見照という人物が著したらしいそれは、魂というオカルティックなものを極めて真面目に、科学的に捉えてみせた書籍だった。
その論理だけで言えば、ある程度の人間はなるほどと頷いてしまうだろう。しかし当然、ヒデアキはその存在を肯定するはずもない。
ただただ、害悪な奇書を娘が読んでいるという嫌悪感が生じるばかりだった。
「どういうことだ……どうしてこんなオカルト本が、アツカの部屋に」
見る限り、他の書籍は全て医学書や工学関係の書籍だ。工学についてもやや違和感があるが、医学との親和性があるのかもしれないと考えることはできる。
だが、明らかに魂云々というのは異常だった。
手に取った本のページを、流し読みだが最後まで捲り終える。
そしてヒデアキは、そこにアツカのメモが残されていることに気付いた。
「……GHOST?」
ページの隅に、小さな文字で記されたもの。
それは、この書籍がGHOSTなる存在から提供されたものだという内容だった。
GHOST。直訳すれば幽霊や亡霊という意味のそれが、どういったものなのかは不明だ。恐らくは個人でなく、何らかの組織、団体なのだろう。しかし、名称からして怪し過ぎる。
あれだけ聡明な娘が、まさかカルト教団にでも入信したのかと眩暈すらした。
「……何なんだ、これは……」
憎き父親への嫌がらせだというなら、まだその方が良い。
ヒデアキはそんなことを思いながら、そっと部屋を後にするしかなかった。
……だが、彼の思いとは裏腹に、アツカは真剣に魂の存在を追い求め始めていて。
そしてまた、魂というものは確かに存在するもので。
一つだけ正しいものがあるとすれば。
GHOSTが怪しい機関だというその直感だけは、間違いのないものだった。
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