十一月二十二日。
冬もその寒さをいよいよ本格化させてきた頃の放課後。
俺は人気の少ない学校の図書室にやって来ていた。
――もうすぐ期末テストだからってなあ。
小さく溜め息を吐く。
ここを訪れた理由は、試験勉強のためである。
十二月に待っている期末試験を乗り越えるべく、シグレが一緒に勉強したいと申し出てきたのだ。
別に放課後に勉強なんて、しなくてもいい気がするのだが。……というか、シグレの方が前の中間テストは好成績だったらしいし、どうして今までの成績は悪かったのやら。本気になれなかったとかだろうか。
「……ま、ヒマっちゃヒマだし付き合うけど」
正直、勉強だけが理由ではない。
以前聞きそびれていたシグレの事情というものも、聞いておきたかった。
ソウヘイにも、確認しておくべきことだと伝えられていたのだし。
「……シグレ?」
図書室に並ぶ本棚の間、細い通路部分にシグレは立っていた。
しかし、どうも様子が変だ。本棚の影に隠れるようにして奥の方を見つめている。
「ああ、レイジくん」
「どうしたんだ?」
俺が訊ねると、シグレは人差し指を差して、
「いやあ、何かあそこに……」
「ん?」
「覗いてみてください」
促されるまま、シグレと同じようにそっと奥を覗いてみると、長テーブルの前に向かい合って座っている二人の男性の姿が見えた。
一人はこの学校の先生だが、もう一人は……。
「あの人が、何度か名前を見聞きした京極秀秋さんみたいです。どうも、講演の挨拶か下見か、ここへ来たみたいですね」
「はあー……なるほど」
京極秀秋さんは、五十代ほどの恰幅の良い男性だった。学者らしい威厳が感じられるというか、近づき難い雰囲気がある。眉間に刻まれた皺は、彼の人生の苦悩をそのまま表しているかのようだった。
「先生がお話を聞いてるみたいですけど、やっぱり理解できてないっぽいですね」
「そりゃあ、高校生レベルの話じゃないだろうしなあ」
話題は秀秋さんの研究についてらしい。先生も、あえてそんな話題を出すとは自殺行為だな。
「学界では堅物と言われているようですが、そんな私も最近は視野を広げていましてね。以前論文としてまとめた高次元に関する諸考察について、深化させてみようと考えているのですよ」
「はあ……それは?」
「実は、旧友との話で出た、思いつきのようなものがきっかけではあったのですがね。高次元における重力の伝播を真とするなら、他のエネルギー等が同じ振舞いをすることは有り得るか、という命題です」
旧友、というところで胸がドキリとした。京極さんが話しているのはもしかすると。
「す、すいません。私にはちょっと難しくて」
「少し非科学的な言い方をすれば、他の次元にエネルギーが移動することはあるのか、ということです。その旧友は、時間軸についての自説を語ってくれましたがね。……今となっては懐かしい」
「いやあ、教授のお話はとても勉強になります」
「そうですか……だといいんですが」
分かり切ったことだが、京極さんは相手が話を理解していないと承知した上で説明しているようだ。だから、詳しく中身を説くことまではしなかった。
……それはいい。気になるのはやはり、旧友についてだ。
「キョウゴクさんの言う旧友ってのは、ヒカゲさんのことなんだよな……」
「きっとそうです。高次元っていう言葉も出てきてますし」
「……ちょっと話をしてみたい気もするが、どうも別世界の人って感じがするよなあ」
「著名人なわけですもんねえ……」
著書まで出している学者なのだし、鈴音学園にやって来ているだけでも珍しい話だ。
元々この辺りに住んでいたのだろうか? 少なくとも、ヒカゲさんとの接点はこの鈴音町にありそうだが。
「……ま、取り込み中みたいだし話はできないだろうな。さっさと本借りて、ミス研に行こうぜ」
「そ、そうですね」
ここで勉強は出来なさそうなので、他の場所はといえばミス研しかない。あそこももうすぐ使えなくなりそうだけれど、今はまだ俺たちの領域だった。
京極さんの邪魔にならないよう、静かに図書室を後にする。渡り廊下を通って別館まで来れば、もう喋り声などは聞こえなくなる。
実質、別館の教室を部室として使っているのはミス研くらいだった。
部室の扉をガラリと開け、中に入っていつもの席に座る。慣れた動作だ。シグレも何度となく繰り返したように、向かい側へ座った。
平穏な時間だ。事件以降は、特に問題が発生することもなく日々を過ごせている。
「……えーっと、ここはこの公式でしたっけ」
「ん? ああ、そうそう。最近習ったところのはずだな」
「どもです」
サラサラと、シャーペンがノートの上を滑る音が暫く続く。
「……確か、こっちはこの式の方を使うって言ってくれましたよね?」
「えと? ……あー、そっちは多分そうだ」
やっぱり、飲み込みが早いのはシグレな気がする。以前俺が言ったらしいことを、今はあまり覚えていなかった。
「……ふう」
三十分ほど勉強したところで、とりあえずの一服を入れることにして、まずはシグレが立ち上がった。
「結構やった気はしますけど、そうやって油断してると意外に得点取れないんですよね」
「そうだなあ、俺は何度もそれで後悔してるから……っていう話はしたっけ?」
「聞いたような、そうでもないような」
自分が話したことかどうかが曖昧なのは、疲れているせいなのか、そもそも考え無しの発言だからなのか。
……まあ、コーヒーでも飲んで落ち着くことにしよう。
電気ポットで湯を沸かし、シグレの分も合わせて作る。元々部室の物は大半がアヤちゃんが持ち込んだものだったが、俺やランが使わせてもらうこともしばしばだった。
そう言えば、コーヒーの好みについては俺もアヤちゃんも甘めが好きで、シグレは微糖が好きなんだよな。ちょっと意外だ。
「……ところでさ、シグレ」
コーヒーを淹れ終わり、一口飲んだところで俺は話を切り出す。シグレはカップへ伸ばしかけた手を一旦止め、
「はい?」
と、上目遣いにこちらを見つめた。
「こんなときに聞くのは悪いんだけど……ちょうど二人で話もできるし、聞いておこうかとね」
「……ええと?」
「シグレはさ、二年前に事故で両親を亡くしたって言ってたけど……それが実は事件だったって話をソウヘイから聞いたんだよ」
そこで、シグレの顔が僅かに強張るのが見てとれた。それは勿論、愉快な話ではない。シグレの辛い過去に、俺は土足で踏み込もうとしているようなものだ。
「話し難いことだから、黒影館のときはそう言ってたんだろうけど、本当は何があったのか知りたいと思って。聞いとかねえとなんか、モヤモヤしたままになると思ってさ」
「はは……ソウヘイさん、心配してくれてたんですね」
参ったなとばかりに頭を掻いて、シグレは少しだけ声のトーンを落とす。
「まあ、そうは言っても話せることはあんまり多くないんです。突然のことで……現実味のない出来事でしたから」
「それでも、聞かせてくれ」
「……分かりました」
パタリとノートを畳むと、シグレは小さく息を吐いてから、静かに語り始める。
二年前に青木家を襲った悲劇について。
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