病室で、彼女は必死に母の体へ縋っていた。
お母さん、目を開けてよと。
何度も何度も、悲鳴のように訴えながら、彼女は。
自身の元から離れようとしていく魂を、繋ぎ止めようとしていた。
「ねえ、しっかりしてよ、お母さん! 元気になるんでしょ……また美味しいご飯作ってくれるんでしょ!」
医師たちは慌ただしく動き回っている。
母に繋がれた装置は、異常を示すようにけたたましい音を鳴らし、点滅を繰り返している。
アツカは、自分の無力さに打ちひしがれながら、それでも名前を呼ぶしかなかった。
それだけが……彼女にできる唯一の働きかけだったから。
「ねえ、お母さん……」
勿論、それが母を救う手助けにはなるはずもなく。
準備の整った医師と看護師は、ベッドからアツカを遠ざけると、チズを手術室まで運んでいく。
どうか、どうか助かりますよう。
アツカはただその思いだけで心をいっぱいにして、遠ざかっていく母を見送った。
そして、己の拳を痛いほどに握り締めるのだった……。
手術は、実に三時間以上にも及んだ。
その間は、アツカにとってまるでこの世の終わりかのような時間に感じられた。
まだ、灯りは消えないのか。まだ、母は出て来られないのか。
まだ……父は来ないのか。
駆けつけてこない父に対しての怒りも、アツカの中で沸々と湧き上がっていた。
途方もなく長い時間の果て。
手術室の扉がゆっくりと開かれて。
慌てて駆け寄るアツカに、しかし医師は重々しい表情で首を振る。
「……嘘……」
それが魔法のような効力をもたらしたなら、どれほど良かっただろう。
けれど、その言葉に何の力もなく。
医師は悲しげな眼差しを隠すこともないまま、彼女に告げた。
「……最善は、尽くしたのですが」
それも、何の意味もない言葉だった。
いや、彼女を絶望に突き落とすには十分過ぎたけれど。
アツカはその瞬間に全てを喪ったと、悟る。
「すみません」
十二月三日、ちらちらと粉雪の降る冬の夜だった。
京極千鶴はついに意識を取り戻すことなく……帰らぬ人となったのだった。
*
ヒデアキが病院に辿り着いたのは、もう日付も変わろうかという時間。
その頃にはもう、チズの遺体は霊安室へ移されていた。
がらんと色々なものが無くなった個室に、電気も点けないままでいたのはアツカ一人。
彼女はパイプ椅子にもたれかかったまま、温もりの消え去ったベッドを虚ろな目で見つめているのだった。
「……すまない。遅く、なった」
許されるとは当然思わなかったが、ヒデアキは半ば弁明のようにそう口にする。
アツカはぴくりとも動かなかった。
「どうして、間に合わなかったの?」
「アツカ……」
「ねえ、どうして!?」
そこでアツカは立ち上がり、ヒデアキの襟元を両手で掴んだ。怒りに満ちた表情は涙で濡れ、目も顔も真っ赤になっていた。
「何でよ! お母さんは待ってたのに! ずっとずっと、そばにいなくて、遠くで研究ばっかりやってるあんたを……それでもお母さんは、きっと待ってたのに!」
憎しみの籠った拳で、何度もヒデアキの胸を叩きつける彼女に、しかし力は無い。耐え切れない悲しみに、最早体を支える力すらも失っているようだった。
「どうして……ねえ、どうして最期くらい……いてあげられなかったのよ……」
最期くらい。
本当にその通りだと、ヒデアキも痛感していた。
もう少し連絡が早ければ、或いは容態の悪化が急激なものでなければ、きっと彼は間に合っていただろう。
だが、あまりにもタイミングが悪過ぎたのだ。
遠出をしなければいけなくなったその日に、容態急変の連絡があったのだから……。
「……そうだ。私は……間に合わなかった」
娘の前では、せめて落ち着いていなければなどと思っていたが。
そんなことには何の意味もないと、ヒデアキはすぐに悟った。
だから、彼は拳を握りしめ、歯を食いしばる。
「私は……あいつが望んだことを何一つ生きている内に、見せてやれなかったんだ」
「……お父さん……」
胸元で止められていたアツカの小さな拳に、冷たい雫が溢れる。
その感覚に、アツカは初めて気付いた。
ヒデアキが、これまで一度も見せたことのない涙を流していることを。
「私は……何もできない、無力で無知な男だ」
すまない、と。
それからヒデアキは何度も呟き続けた。
アツカが戸惑い、何も言い返せなくなっていても。
半ば呪文のように、ヒデアキは己の後悔を吐き出し続けたのだった。
霊安室に安置されたチズは、とても安らかな表情で眠っていた。
それはまるで、この世での約束を全て置いて行ってしまったかのようであった。
実際、ヒデアキもアツカも、置いて行かれてしまったのだ。
彼女に何もしてやることの出来ないまま、置き去りにされてしまったのだ。
冬の冷たき夜。
この夜は二人にとって、決して忘れられぬ離別の夜となるのだった……。
*
チズの死後、ヒデアキはぽっかりと空いてしまった穴をひたすら埋めるように、研究に没頭していった。
それは決して、チズの夢をせめて叶えようという前向きなものではなく、ただ繕うように、いや逃げるようにして落ちていった道だった。
そして、目指すものすら暗い闇の向こう側にある日々の中。彼の目は、一つの変化を見落とすことになる。
やがて大きなうねりとなる、僅かな変化。
そう……自身の娘の変化を。
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