「もう九時を過ぎましたね……」
スマートフォンを見ながら、シグレがポツリと呟く。少し肌寒くなってきた客室内で、俺たち三人は何をするでもなく、時間を消費していた。
一角荘内には小さな浴室が一つあったので、全員軽くシャワーを浴びて温まったが、それでもすぐに寒さを感じるくらいには、高原の夜は冷え込んでいた。
「未だに何も起きませんし……このまま夜が明けるなら、僕らはどうしてここへ招かれたんでしょうね?」
「その、夜になってからが怖えわけだけどな」
「……だな。怪しい奴に襲撃とかされなきゃいいんだが」
「それが怖いですよね。関係者を集めて……どうにかするつもりなら」
「そりゃあ、するつもりなんだろうよ。きっと」
「ええ……」
黒影館の事件は【まぼろしさん】というでっち上げの噂を引き金として幕を開けた。深夜零時。まぼろしさんを呼び出す儀式の途中に館内は停電、封鎖され、そこから参加者は一人一人、非道な実験の犠牲となっていったのだ。
今回とて、現状で動きがないから安心できるわけでは勿論ない。やはり、事件が起きるとすればそれは深夜になるだろうと睨んでいた。
「……それにしても、マキバさんが学者さんだったなんて知りませんでした。二年前に見たときは、そういう活動を仕事にしてる人かと思ったくらいですから」
「眼鏡外してれば確かに、そう見えないこともなさそうだな」
料理の手際は良かったし、きっとアウトドアの技術も高いのだろう。こう言う場に参加していれば、シグレがそう思うのも無理はない。
学者のイメージとは少しばかり遠い活動だ。
「……しかし、暇だわ。緊張感も緩んできそうだぜ」
ソウヘイが欠伸を噛み殺しながら言う。確かに、緊張感は抜けていそうだ。他ならぬ俺だって、変化の無さと遠出の疲れで眠気が増してきている。
「ちょっと、下覗いてくるよ。片付け全部、マキバさんに任せちまったし」
体を動かさないと、俺までソウヘイのように油断してしまいそうだ。
「お、優しいねえ」
「レイジくんは優しい人ですもん」
「変なこと言うな。……ま、行ってくる」
二人にそう断って、俺は客室を出て一階に降りた。
「はあ……なんか、眠いな」
コテージ内は静かだ。ダイニングへ向かったが、もうマキバさんの姿はない。
どうやら、テキパキと片付けを済ませてくれたようだ。後で会ったらお礼を言っておくとしよう。
……それにしても、居心地が悪い。
何かが始まりそうなのに、いつまでも焦らされている感じだ。
気を緩めてしまいそうな自分に苛ついてしまう。
ともすれば、それすらもあいつの作戦だったりするのだろうか。
どうだろう。
「あら……サクライくん」
ふいに、呼びかける声があった。
顔を上げると、目の前にはモエカちゃんが立っていた。
どうもさっきから隅の方にいたらしいが、気配がないので全く気付かなかったようだ。沈んだ表情を見られただろうし、少し恥ずかしくなる。
「モエカちゃん。夕食はもう?」
「ええ、勝手にいただいたわ。マキバさんが作ってくれたの?」
「ほとんどな。片付けもあの人が」
「……そっか。面倒見のいい人ね」
だからこそ、ボーイスカウトのリーダーが務まっていたんだろう。
子どもが好き、と語る彼の目は確実に本物だった。
「ねえ、サクライくん」
「うん……?」
どうしたのか、と聞き返そうとしたとき、予想外のことが起きる。
何を思ったか、突然モエカちゃんは俺のそばまでぐいと近づいてきて、上目遣いに覗き込んできたのだ。
意図が分からず混乱する俺に、モエカちゃんは小さく告げる。
「私たちは……きっと、似てる」
「な……何……?」
「……ううん、何でもないわ」
何でもない?
それは明らかな嘘だった。
でも、仄めかすだけを仄めかして、モエカちゃんはすぐに俺から離れていく。
その動作には、隙が無かった。
「サクライくん、気を付けてね。二年前の事故以来、この鏡ヶ原には怪しげな噂が広まっているから」
「……噂?」
「そう」
窓から夜闇を見やった彼女は、言葉を続ける。
「崩れた教会の、犠牲者たちの祟り。近寄る者たちに警告するような、恐ろしい呻き声が聞こえるという噂よ」
「犠牲者たちの呻き声……」
「……馬鹿馬鹿しい噂だけど、心には留めておいて。そして何かあったら、お兄ちゃんを守ってあげて」
事故の犠牲者たちの呻き声。その噂は、まぼろしさんの噂と同じようにも感じられた。オカルトという蓋で真実を封じるような、或いはそれで以って関係者たちを誘い込むような。
あいつはまぼろしさんの噂を使って俺たちを黒影館へ誘った。なら、同様の噂を話すモエカちゃんは? ……気にはなるが、彼女はその上で俺たちを心配してくれている。とてもゲームのホストには思えなかった。
モエカちゃんはそのままくるりと身を翻らせ、入口扉を開く。
夜風がひゅう、と鳴った。
「どこ行くんだ? モエカちゃん」
「ちょっと外の風にあたりにいくだけ。……じゃあ、ね」
バタンと音を立て、扉は閉ざされる。
状況を整理できないまま、彼女は言うだけを言って去ってしまった。
――あの子は、本当にソウヘイの妹なんだよな?
ソウヘイ自身も、一年で様変わりしたと話していたが、経験云々ではない何かがあるような気もする。
それが何かは判然としないが……とにかく彼女は異質だった。
「……戻るか」
呆然としたままでいるわけにもいかない。彼女や彼女の話した噂については警戒するようにして、今はシグレたちと固まっておかなければ。
こういうとき、孤立した者が消えていくのは事件の鉄則なのだから。
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