幻影回忌 ーTrilogy of GHOSTー【ゴーストサーガ】

観劇者への挑戦状付、変格ホラーミステリ三部作。
至堂文斗
至堂文斗

-2.日下敏郎②

公開日時: 2021年5月3日(月) 22:30
文字数:1,434

 ――調子はどうかな、レイジくん。


 ヒカゲさんの優しい声色は、今でも鮮明に覚えている。

 思えばそれは、あの頃が最初の記憶だったからなのだろう。

 俺は、喪われた自分を取り戻そうと藻掻く中で。

 なるべく多くの記憶を留めたくて、彼との思い出もまた深く刻み込んだのだ。

 結局その思い出が、積み重なっていくことはなかったけれど。


 ヒカゲさんは、時折俺のお見舞いというか、様子見のために桜井家を訪れてくれた。

 そこには多分、彼自身の責任感もあったのだと思う。

 具体的な経緯を、当事者であるはずの俺はまるで知らないが。

 親父もヒカゲさんも、知ろうとする必要はないと俺を諭したものだ。


「……まあ、普通に生活はできてますよ。全然問題ありません」

「そっか。……それならよかった」


 親父が外出中だったので、俺はリビングでヒカゲさんと話していた。

 ヒカゲさんは日中に訊ねてくることが多かったので、どんな仕事に就いているのかといつも疑問に思っていた。


「今日、お父さんは?」

「出かけてます。……供養にとか言ってたけど、母さんのことでもないだろうしな」

「……そうなんだね」


 そこでヒカゲさんは、一瞬だけ悲しげな表情を浮かべたような気がしたが、すぐに取り繕うように笑い、


「はは、中々会えないなあ。毎度、タイミングが悪いことだ」

「静かでいいでしょう」

「こらこら」


 と、また二人で笑った。

 それから、一瞬の沈黙。

 冷たい麦茶を一口飲んでから、俺はヒカゲさんに訊ねる。


「……ヒカゲさん」

「うん?」

「もう、一年になります。俺は……元に戻るんですかね」


 カランと、グラスの中の氷が音を立てた。


「それらしい生活はできていても、昔のことは、まだ。本当に戻れたとは……まだ」

「……そろそろ、一年だったね」


 ほう、とヒカゲさんは小さく溜め息を吐く。そのまま言葉を選ぶように、手を組んでゆっくりと瞼を閉じた。


「私はただの科学者だから、君の記憶については何も言えない。でも、君のお父さんが昔と同じように過ごしてるのを見て、ほっとしているよ。だから……無理に戻さなきゃと思う必要はないと思う」

「……ですかね」

「不安だろうけど、ね」


 今から一年前。

 俺の人生の転換点……いや、分断点と言うべきか。

 俺は事故により、それまでの記憶を全て喪った。

 日常生活ができる程度の知識はそのままに、俺は桜井令士としての拠り所を全て手放してしまったのだ。

 そして、俺は自身に起きた事故の詳細を知らない。

 さっきも言った通り、親父もヒカゲさんも、知ろうとする必要はないと言うばかりだったからだ。


「……ねえ、ヒカゲさん」

「何だい」

「俺を助けてくれたのは、ヒカゲさんだって親父から聞いたけど……何も知らないんですよ。俺はどんな事故にあって、ヒカゲさんはそこからどう俺を助けてくれたんですか」


 欠落した記憶。

 自分が自分で無くなった瞬間。

 後で後悔するかもしれないけれど……やっぱり、知りたいと思う気持ちは強かった。

 親父は話さなくても、ヒカゲさんなら……そう考えることもあった。

 それに。


「あなたは……俺が目覚めたとき、何て言ったんですか」


 唯一、酷く曖昧な記憶。

 意識が覚醒する最初の瞬間に聞こえた声。

 ヒカゲさんの優しく、けれど寂しげな声……。


「今は駄目でも、いつか……教えてください」


 半ば諦め気味に投げかけた言葉。

 ヒカゲさんはそれを受け止めると、遠い目をしながらこう返した。


「……そうだね。きっといつか、分かるはずだよ」


 きっと、そうなるはず。

 その言葉は、自分に言い聞かせるようなものにも感じられたのだった。

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