――調子はどうかな、レイジくん。
ヒカゲさんの優しい声色は、今でも鮮明に覚えている。
思えばそれは、あの頃が最初の記憶だったからなのだろう。
俺は、喪われた自分を取り戻そうと藻掻く中で。
なるべく多くの記憶を留めたくて、彼との思い出もまた深く刻み込んだのだ。
結局その思い出が、積み重なっていくことはなかったけれど。
ヒカゲさんは、時折俺のお見舞いというか、様子見のために桜井家を訪れてくれた。
そこには多分、彼自身の責任感もあったのだと思う。
具体的な経緯を、当事者であるはずの俺はまるで知らないが。
親父もヒカゲさんも、知ろうとする必要はないと俺を諭したものだ。
「……まあ、普通に生活はできてますよ。全然問題ありません」
「そっか。……それならよかった」
親父が外出中だったので、俺はリビングでヒカゲさんと話していた。
ヒカゲさんは日中に訊ねてくることが多かったので、どんな仕事に就いているのかといつも疑問に思っていた。
「今日、お父さんは?」
「出かけてます。……供養にとか言ってたけど、母さんのことでもないだろうしな」
「……そうなんだね」
そこでヒカゲさんは、一瞬だけ悲しげな表情を浮かべたような気がしたが、すぐに取り繕うように笑い、
「はは、中々会えないなあ。毎度、タイミングが悪いことだ」
「静かでいいでしょう」
「こらこら」
と、また二人で笑った。
それから、一瞬の沈黙。
冷たい麦茶を一口飲んでから、俺はヒカゲさんに訊ねる。
「……ヒカゲさん」
「うん?」
「もう、一年になります。俺は……元に戻るんですかね」
カランと、グラスの中の氷が音を立てた。
「それらしい生活はできていても、昔のことは、まだ。本当に戻れたとは……まだ」
「……そろそろ、一年だったね」
ほう、とヒカゲさんは小さく溜め息を吐く。そのまま言葉を選ぶように、手を組んでゆっくりと瞼を閉じた。
「私はただの科学者だから、君の記憶については何も言えない。でも、君のお父さんが昔と同じように過ごしてるのを見て、ほっとしているよ。だから……無理に戻さなきゃと思う必要はないと思う」
「……ですかね」
「不安だろうけど、ね」
今から一年前。
俺の人生の転換点……いや、分断点と言うべきか。
俺は事故により、それまでの記憶を全て喪った。
日常生活ができる程度の知識はそのままに、俺は桜井令士としての拠り所を全て手放してしまったのだ。
そして、俺は自身に起きた事故の詳細を知らない。
さっきも言った通り、親父もヒカゲさんも、知ろうとする必要はないと言うばかりだったからだ。
「……ねえ、ヒカゲさん」
「何だい」
「俺を助けてくれたのは、ヒカゲさんだって親父から聞いたけど……何も知らないんですよ。俺はどんな事故にあって、ヒカゲさんはそこからどう俺を助けてくれたんですか」
欠落した記憶。
自分が自分で無くなった瞬間。
後で後悔するかもしれないけれど……やっぱり、知りたいと思う気持ちは強かった。
親父は話さなくても、ヒカゲさんなら……そう考えることもあった。
それに。
「あなたは……俺が目覚めたとき、何て言ったんですか」
唯一、酷く曖昧な記憶。
意識が覚醒する最初の瞬間に聞こえた声。
ヒカゲさんの優しく、けれど寂しげな声……。
「今は駄目でも、いつか……教えてください」
半ば諦め気味に投げかけた言葉。
ヒカゲさんはそれを受け止めると、遠い目をしながらこう返した。
「……そうだね。きっといつか、分かるはずだよ」
きっと、そうなるはず。
その言葉は、自分に言い聞かせるようなものにも感じられたのだった。
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