――君は、桜井令士だよ。
意識が覚醒したとき、最初に聞いたのがそんな声だった。
幼い子どもに優しく言い聞かせるような、そんな声色の。
「……ここ、は……」
頭痛が苛む中、ゆっくりと目を開けた俺は。
視線の先に、俺を覗きこむ男の姿があるのに驚いた。
「……あなたは……誰、ですか……?」
奇妙な状況に、俺は開口一番そう訊ねた。
けれど、すぐにそれ以上のおかしさに気付く。
目の前の男だけじゃない……俺は、俺自身のことすら分からなかった。
俺がどういう名前で、どういう人間で、そしてここがどこなのか。
何一つ、思い出すことができなかったのだ。
男が告げたらしい、桜井令士という名前。
それが俺のものだという実感もまるで無かった。
「ようやく、目を覚ましたね。私は、日下敏郎という」
俺を覗き込んでいる男はそう名乗り、僅かに微笑んだ。
「そうだな、何といえばいいのか……私は君の――」
「目が覚めそうなんだって?」
ヒカゲと名乗った男が最後まで言い終わらないうちに、遠くから別の声が飛んでくる。
そして、隣の部屋からもう一人の男がこちらにやって来た。
眼鏡を掛けた痩せぎすのヒカゲさんとは違い、無精髭を生やした比較的ガタイの良い男。
年齢も、ヒカゲさんよりは十歳ほど上に見えた。
「リョウジさん……」
ヒカゲさんは、男をそう呼んだ。
レイジとリョウジ。名前の響きが似ていることからすると、この人は。
「……レイジ……目を覚ましたんだな」
「……もしかして……俺の父さん、なんですか」
恐る恐る訊ねると、彼は神妙な面持ちのまま頷いた。
「そうだ。……俺は、お前の父親だよ」
「ああ……」
やっぱり、という気持ちと、それじゃあ、という気持ちが入り混じる。
実の父親のことすら、俺の頭の中には一片たりとも残っていない。
不思議と俺は、この状況をすんなりと受け止めていた。
俺は記憶喪失になってしまったのだ、と。
「お前は俺の息子だ、レイジ。……思い出せないだろうがな」
リョウジ――父さんも、俺が記憶を失っていることを認識しているらしい。
多分、医者から宣告を受けたとか、そんなところなのだろう。
「……あの、リョウジさん」
父さんに向かって、ヒカゲさんは何かを言おうとする。しかし父さんは緩々と首を振り、
「ありがとう、ヒカゲ。……すまない」
「いえ。……どうか、お願いします」
それだけのやり取りの後、ヒカゲさんは軽く頭を下げて後ろに下がる。
親子の時間を優先させてあげよう、ということなのだろう。
「……あの」
とりあえず何か話さなくては、と口を開きかけたのだが、話は父さんの方から切り出してくれる。
「お前は事故で大怪我をしてな。それが原因で、記憶を失っているそうだ。だから……何も覚えていないのも当然なんだよ」
「そう、なんですか……」
父親だと言われても、記憶が無いと他人行儀になってしまう。俺は今までこの人を父さんと呼び、馴れ馴れしく接してきたはずなのに。
これが、記憶喪失。
まるで別世界に来たような、こんな……。
「……だから、レイジ。思い出せなくとも焦る必要はない。事故の怪我もまだ完治していないし、ゆっくりと休んでほしい。ちゃんと目を覚ましてくれた……今は、それだけで十分だ」
「……お父、さん」
「自分のことも、俺のことも。時間が掛かってもいいから、少しずつ思い出せればいい」
……父さんに、優しく語り掛けられて。
俺はそっと、自分の両手を見つめる。
見覚えのない手。
それでも、意思通りに動く手。
「俺は、桜井令士……」
「ああ……そうだ。お前は桜井令士だ」
少しずつ、家族に戻っていこう。
父さんは寂しげにそう呟いて……震える俺の手を、ぎゅっと握ってくれた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!