幻影回忌 ーTrilogy of GHOSTー【ゴーストサーガ】

観劇者への挑戦状付、変格ホラーミステリ三部作。
至堂文斗
至堂文斗

-3.日下敏郎③

公開日時: 2021年5月17日(月) 00:33
文字数:1,477

 ――君は、桜井令士だよ。


 意識が覚醒したとき、最初に聞いたのがそんな声だった。

 幼い子どもに優しく言い聞かせるような、そんな声色の。


「……ここ、は……」


 頭痛が苛む中、ゆっくりと目を開けた俺は。

 視線の先に、俺を覗きこむ男の姿があるのに驚いた。


「……あなたは……誰、ですか……?」


 奇妙な状況に、俺は開口一番そう訊ねた。

 けれど、すぐにそれ以上のおかしさに気付く。

 目の前の男だけじゃない……俺は、俺自身のことすら分からなかった。

 俺がどういう名前で、どういう人間で、そしてここがどこなのか。

 何一つ、思い出すことができなかったのだ。

 男が告げたらしい、桜井令士という名前。

 それが俺のものだという実感もまるで無かった。


「ようやく、目を覚ましたね。私は、日下敏郎という」


 俺を覗き込んでいる男はそう名乗り、僅かに微笑んだ。


「そうだな、何といえばいいのか……私は君の――」

「目が覚めそうなんだって?」


 ヒカゲと名乗った男が最後まで言い終わらないうちに、遠くから別の声が飛んでくる。

 そして、隣の部屋からもう一人の男がこちらにやって来た。

 眼鏡を掛けた痩せぎすのヒカゲさんとは違い、無精髭を生やした比較的ガタイの良い男。

 年齢も、ヒカゲさんよりは十歳ほど上に見えた。


「リョウジさん……」


 ヒカゲさんは、男をそう呼んだ。

 レイジとリョウジ。名前の響きが似ていることからすると、この人は。


「……レイジ……目を覚ましたんだな」

「……もしかして……俺の父さん、なんですか」


 恐る恐る訊ねると、彼は神妙な面持ちのまま頷いた。


「そうだ。……俺は、お前の父親だよ」

「ああ……」


 やっぱり、という気持ちと、それじゃあ、という気持ちが入り混じる。

 実の父親のことすら、俺の頭の中には一片たりとも残っていない。

 不思議と俺は、この状況をすんなりと受け止めていた。

 俺は記憶喪失になってしまったのだ、と。


「お前は俺の息子だ、レイジ。……思い出せないだろうがな」


 リョウジ――父さんも、俺が記憶を失っていることを認識しているらしい。

 多分、医者から宣告を受けたとか、そんなところなのだろう。


「……あの、リョウジさん」


 父さんに向かって、ヒカゲさんは何かを言おうとする。しかし父さんは緩々と首を振り、


「ありがとう、ヒカゲ。……すまない」

「いえ。……どうか、お願いします」


 それだけのやり取りの後、ヒカゲさんは軽く頭を下げて後ろに下がる。

 親子の時間を優先させてあげよう、ということなのだろう。


「……あの」


 とりあえず何か話さなくては、と口を開きかけたのだが、話は父さんの方から切り出してくれる。


「お前は事故で大怪我をしてな。それが原因で、記憶を失っているそうだ。だから……何も覚えていないのも当然なんだよ」

「そう、なんですか……」


 父親だと言われても、記憶が無いと他人行儀になってしまう。俺は今までこの人を父さんと呼び、馴れ馴れしく接してきたはずなのに。

 これが、記憶喪失。

 まるで別世界に来たような、こんな……。


「……だから、レイジ。思い出せなくとも焦る必要はない。事故の怪我もまだ完治していないし、ゆっくりと休んでほしい。ちゃんと目を覚ましてくれた……今は、それだけで十分だ」

「……お父、さん」

「自分のことも、俺のことも。時間が掛かってもいいから、少しずつ思い出せればいい」


 ……父さんに、優しく語り掛けられて。

 俺はそっと、自分の両手を見つめる。

 見覚えのない手。

 それでも、意思通りに動く手。


「俺は、桜井令士……」

「ああ……そうだ。お前は桜井令士だ」


 少しずつ、家族に戻っていこう。

 父さんは寂しげにそう呟いて……震える俺の手を、ぎゅっと握ってくれた。

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