「待っていて……すぐ、魂魄を剥離させるから……!」
巨大化した人形――最早化物とも言えるその存在に、アツカは必至で縋る。
その中に宿るチズの魂を、鎮めるために。
ヒデアキが恐怖で動けずにいる間に、アツカは怪しげな装置を手に取り化物へと向けた。
「……何故機能しない! 理論は風見照の著書で完全に理解している、意思だって十分にある……!」
何故だ、何故だとアツカは喚く。
想定外の状況を拒絶するように、何度も首を振り続ける。
しかし、事態は悪化していくばかりだ。化物は今や部屋の半分以上を埋め尽くさんばかりに触手のような、或いは蛇の尾のようなものを伸ばし始めていて。
「……これがチズだなどと……お前は認められるのか……?」
ヒデアキの言葉通り。
それはもう、京極千鶴などではなかった。
全てが狂い、壊れ、剥がれ落ち。ただ化物と呼ぶしかない存在だった。
「こんなもの……私は何一つ受け入れられん……」
「違う! こんなものではないんだ!」
アツカは訴える。
本当はこんなものを見せたかったのではないのだと。
だが、そんな言葉は最早無意味なものでしかなかった。
彼女は、失敗したのだ。
「私は、必ず……必ず――」
世界が、真っ白に染まる。
闇を打ち祓う光は、けれどこの瞬間においては救済とはならなかった。
目も眩む光景の中、確かに怪物の断末魔が響き渡り。
そして、室内が元の暗闇を取り戻したとき……そこにはもう、怪物の姿はなかったのである。
「……母さん……? ど、どこへ……」
触媒とした人形ごと、綺麗さっぱりその痕跡は失われていた。
アツカは近くにあった計測器らしきものに駆け寄り、焦燥しきった様子でキーを叩く。
「魂魄の反応は……どこだ、どこにある……」
「おい、アツカ……」
「……そんな……はは、何かのマチガイだ……そう、こんなことくらいで消滅なんてありえるわけが……!」
がっくりと膝をつき、それでも震える手でキーだけは叩き続ける。
それが意味のないことだと、心の中で悟っていたとしても。
そんなアツカに、ヒデアキは近寄りながら問いを投げかけた。
「アツカ……お前はこんなことを望んだのか……? 全てが、現実だったとして……お前の行いはただ、チズを苦しめただけだったんじゃないのか……?」
「うるさいッ!」
どん、とヒデアキの胸元を突き、アツカは喚く。
「私が……私が母さんを戻さなければいけなかった……! 私が……そばにいてあげなきゃ、いけなかったんだ……」
アツカの、純粋なる思い。
幾重にもなる理論付けによって覆い隠してきたその本質は、つまるところそれに尽きていた。
母のそばにいること。
病室で独り、横になりながら、窓の外から変わり映えのない景色を眺めていた母を。
せめて自分が、少しでも救ってあげたかったのだという、遠い昔の悔恨だった。
「……私の願いをこんな風に否定するような現実なら……私は、そんな現実などいらない。こんな失敗など、断じて認めない……!」
狂った研究者の頰に。
いつの間にか、人間らしい感情が伝っていることにヒデアキは気付いた。
だから、ヒデアキは怒りと混乱の中にあって、思い直すことができた。
アツカもまた、自分と同じく哀れな道を辿った者なのだと……。
「アツカ……お前は……」
そっと手を伸ばそうとして、止まる。
蹲る彼女に、今更どんな言葉をかけられるのか。ヒデアキにはもう、何も分からなくなっていた。
理解の及ばぬ魔術。理解を拒絶する娘。
全てが今や、彼の手の届かない場所にあるようだった。
――すまない。
誰にともつかない謝罪だけが、心の中で繰り返される。
伝えたいとすれば、きっとそれは現在でなく、過去の彼女らにだろう。
あの時に戻ってやり直せるならば。
現実主義のヒデアキだったが、このときばかりはそんな夢物語を願わずにはいられなかった。
ふと、気がつけば。
アツカの姿は研究室から消え失せていて。
その別れがどうしてか、永遠の別離のようにすら思えた。
何の言葉もなく。
救われることなく。
アツカはヒデアキの前からいなくなった。
「いつだって……私は間に合わないんだな」
如何に知識を蓄えようとも。
それが幸せに結びつくことは、終ぞなく。
ただ一人、解き放たれた宵闇の世界の中。
ヒデアキは長い間、目の前の現実に打ちひしがれるのみであった。
それから、ヒデアキがアツカの姿を見ることはなかった。
アツカはその後、出資者であるGHOSTに身を置き、研究に明け暮れ、そして数々の実験を繰り返していたと思われる。
ヒデアキはこの事件の直後から、娘は失踪したと説明するほかなく、世間はそれを誘拐だと決めつけて報道を繰り返した。
事実無根の噂であったが、ヒデアキにとってはむしろ気が楽だった。その方がまだ、現実的な説明だったからだ。
あの夜起きたことも、娘の狂気も、彼の口から説明することなどとても出来ない非現実だったのだから。
だが、一つだけ頑ななものはあった。
それだけは、否定するなど到底許されない重大な責任。
……あの日、京極敦花を捨て去った『彼女』を生み出したのは、自分以外にない。何一つ気づいてやれなかった自身の愚かさが、あの日『安藤蘭』という狂った科学者を生み出してしまったのだと、ヒデアキは自らに十字架を背負わせて今日まで生きてきたのだった……。
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