アツカと研究所内で話してから数日後。
その日は、夜遅くまで研究が続けられていた。
ヒデアキは人気のなくなった施設内を、口元に手を当てながらゆっくりと歩く。
研究のこと、家族のことが綯交ぜになった思考が、彼の足取りを鈍らせているのは違いなかった。
時刻は午前零時を迎えようとしていた。
腕時計をちらと見やってから、ヒデアキは小さく溜息を漏らす。
このままではいけない。それだけは明確であるのに、結局抜け出すことが叶わない自分に、苛立ちは募るばかりだった。
そして……時計の針は天辺で重なる。
静かな施設内の、半分ほどが消灯されていた蛍光灯が、パチリと奇妙な音を立てた。
おや、と思ったのも束の間、全ての蛍光灯が一瞬にして光を失い、同時に形容し難い寒気のようなものがヒデアキを襲う。
その感覚に体を震わせて、ヒデアキはキョロキョロと周囲を見回した。
――何が起きたんだ、一体?
停電で蛍光灯や空調が消えたのだとしても、瞬時に寒気を感じるというのは少々おかしい。この現象にもっともらしい理由は何なのだろうと首を傾げつつ、ヒデアキはとりあえず配電設備のある機械室を覗きに行こうと歩き出した。
明かりになるものといえば、携帯電話のライトくらいしかない。そう言えば、メイン電源が消えたときのための非常電源があったはずだが、ヒデアキは思い出したが、状況を見る限りは機能していないらしい。これでは意味がないなと苦笑し、彼は携帯電話を前方の暗闇に掲げる。
どういうわけか、他の人間の足音や話し声すらも聞こえてはこない。緊急事態なのだから、誰かが動き回っていてもおかしくないはずなのに、施設内は未だ静かなままだ。
「誰か……いないのか?」
不安に駆られ、ヒデアキは恐る恐る声を発する。自身の声に、共鳴するように反応が返ってくることを期待して。
けれど、やはり声や音は帰ってこなかった。
幾つも分岐する廊下。機械室の場所は覚えているつもりだったが、いつまで経ってもその案内板は現れない。一度玄関まで戻り、館内マップを確認した方が早いかと思ったとき、ヒデアキの目にあるものが映り込んだ。
それは、薄ぼんやりと光る煙のような何かだった。
怪しい光の筋は、突き当たりにある部屋の扉から漏れていた。プレートには第九研究室と書かれている。ここしばらくは誰も使っていないと記憶していた場所だったが、どうやらそこに誰かがいるらしい。
この状況で出てこないなら、中の人物が停電の元凶かもしれない。危険な実験で電気系統をショートさせたのかもしれないとヒデアキは考えた。
何にせよ、知らぬ振りはできないとヒデアキは扉を開けて中へ入る。場合によっては、叱る言葉の一つでもかけなければと思いながら。
だが、室内を見たヒデアキは、一瞬で全ての言葉を失った。
何故なら、そこにいたのは娘のアツカだったからだ。
「アツカ……?」
「ああ、父さん」
背の小さい彼女にはやや長すぎる白衣。その裾を揺らめかせながらゆっくりと歩く姿は、ひどく冗談めいていた。
冗談ならどれほどよかっただろう。だが、眼前に立つ虚な瞳の研究者は紛れもなくアツカなのだ。
「まだ……成功には程遠いな」
室内は暗く、特に奥側は完全な闇でヒデアキには何があるのか判然としなかった。しかしアツカは、闇の向こうにあるものを見つめながら呟く。
「ハハ……見せる予定ではなかったけれど、父さんが霊の領域に入ったのも、頃合いだと告げているのかもしれないね」
「霊……だと? お前は何を言ってるんだ……まさかそんなものを信じているわけではないだろう」
「信じるも何も、父さん。霊は確かに存在しているんだよ」
「馬鹿な……」
やはり娘は、醜悪なカルト集団の虜にでもなってしまったのか。
襲ってくる眩暈に倒れそうになりながらも、ヒデアキは頭を押さえながら何とか耐える。
しかし、アツカはそんなヒデアキを嘲笑い、
「悪魔がいることを証明するには、連れてくるのが一番の証拠になるだろう。ほら……確かにここに、存在してくれているじゃないか……!」
バサリと、白衣をはためかせ。
大仰な動作で、アツカは暗闇に呼びかける。
すると、まるでそこから生まれ出づるように。
緩慢な動作で……一つの人影が現れたのだった。
「……な……」
その人影は、決して人間などではなかった。
人間に似せて作られた存在。人工的に作り出された関節人形。
……にも関わらず。
「なんだ、その人形は……動いている……のか?」
関節人形は、カタリカタリと音を立てながら、確かに自らの足で歩いているように見えた。
マリオネットのような糸が天井から垂らされているわけでもない。完全に独立し、動いている。
「なんだとは酷いな。これは……母さんだよ」
「何……?」
「凄いだろう? 私が心血を注いでここまで辿り着いたんだ。GHOSTと……『プロメテウスの火』の導きによってね」
とうとう気がおかしくなってしまったのか。
そう思いたくなるほど、アツカの語る言葉はヒデアキにとって受け入れられないもので。
けれども、これは確かに悪魔の証明であった。
機械装置すら組み込まれていない人形が、命を吹き込まれたように動いているのだから。
アツカの話を全て受け入れるのだとすれば。
この人形には、チズの魂が固着していることになる……。
「まだ研究は途上でね。母さんには悪いけれど、今は上手く魂魄が固着してくれないようだ。義体との乖離が激しくて……満足に話すらできないらしいね」
人形には目や鼻、口らしき機構はあるものの、それらが動くような素振りはない。手足だけがなんとか動かせているという状態にみえる。
それに意思が伴われているかも分からない。
「現状はこれが限界だ。けれど、風見照が人形に魂魄を固着させたように、私も必ずこの研究を完成させてみせる……」
「狂っている……こんなものは狂っている……!」
己の理解を超えた、いや理解を拒絶したい光景に、ヒデアキは子供のように首を横に振りながら後退る。
それを見、アツカは呆れたように溜息を吐いた。
「残念だよ、分かってもらえなくて。母さんを救う方法はもうこれしかないというのに」
「チズを救うだと……? 馬鹿げたことを言うな。チズはもう、この世のどこにもいないんだ! もう私たちにできることは何もない。もう……残された者の中にしか、彼女はいないのだから」
「いると言ってるだろう。……ここに! 確かに母さんは存在している。それを否定するなど、母さんを否定しているも同じだ!」
互いに譲らないまま、叫び声にも似た応酬が続く。やがて全ての言葉が無駄だと先に諦めたアツカが、
「母さん……私は、必ず母さんを何不自由なく、この世で動き回れるようにして見せるから……」
カタカタと動く人形を愛おしげに見つめながら、静かにそう呟いた。
……次の瞬間。
「……な、何だ!?」
一瞬、何かが光った気がした。
それは人形のようでもあり、別の何かのようでもあり、或いは世界全てなのかもしれなかった。
ヒデアキが再び人形を見やったとき、それはわなわなと振動を始めていて。
あまりにも異様な挙動に、アツカがまた馬鹿げた仕掛けでも発動させたのかと、声を荒げた。
「アツカ! これ以上何を……!」
しかし、人形に魂を込めたと豪語するアツカ自身が、先ほどまでとは打って変わって狼狽していた。
「どうなっている……そろそろ刻限……終わりの予兆? いや、それにしては……」
ぶつぶつと独り言ちるアツカに、ヒデアキは更に問いかけようとする。
だが、その前に状況は一変した。
聞くも悍ましい音。
甲高い断末魔のような音と、粘性のある液体が泡を立てるような音が入り混じり、耳を、脳を侵蝕する。
耐え難いその音に耳を塞ぎたくなったヒデアキだが、同時に眼前で起きていく変化に、指一つ動かすことができないほどの驚愕が襲った。
「なんだ……これは何なんだ……」
「……かあさん……? 母さんッ!」
有り得べからざる光景。
木と鉄で組み上げられた人形が、歪な色と形に変貌していく。
黒々と、収縮と拡散を繰り返しながら濁り、混じり、捻じれて。
やがてその体は、天井近くまで達するほどに膨れ上がった。
無数の尾を持った黒蛇……この世に存在してはならない何かへと、人形は成り果ててしまったのだった。
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