二階へ戻り、客室のある東回廊にやって来た俺たち。
もうそろそろ到着だと思っていると、隊列からアヤちゃんが遅れているのに気付く。
さっきから何度か咳き込んでいるので心配だ。
「アヤちゃん、大丈夫か? 顔色が悪いけど」
「む……無論だ。……何も、問題はない」
彼女はそう答えるものの、呼吸も乱れがちだし、汗も浮かんでいるように見える。
部屋に着いたら、そこで休んでいてもらった方が良さそうだ。
「おーいっ」
アヤちゃんに肩でも貸そうかと思ったとき、遠くの方から声が聞こえてきた。
俺たちに呼びかけるその声は、ランのものだ。
「なんだ、ランか」
「なんだ、とは何よ。……随分大所帯ね」
ランは今まで単独で探索をしていたらしい。今は六人しかいないわけだし、三人行動していれば確かに大所帯か。
「三人寄れば文殊の知恵ってやつさ。これから、謎解きに向かうところだ」
「何か面白そうな響きね? 一緒に行かせてもらおうかしら……」
そこまで言って、ランは急に首を傾げる。
「……あれ?」
視線の先には、アヤちゃんがいた。
彼女はいつの間にやら、右手で顔を押さえて苦しげにしている。
「アヤちゃん、気分悪いの?」
ランが心配して声を掛ける。しかしアヤちゃんは首を振り、
「……違う」
肩で息をしながらも、そんな否定の言葉を発した。
「……刀城さん、無理しない方がいいですよ、こんな状況なんですから。私だって……」
「違う……ッ!」
大声を上げ、左手を振るうアヤちゃん。
顔の半分を右手で覆った彼女の形相は、しかし非常に苦しそうで。
流石に異常だと感じた俺たちは、アヤちゃんに近づこうとして。
けれど彼女は、それを拒否するように後退った。
「私は……決して、失敗作には」
アヤちゃんの言葉が止まる。
その様子は、まるで嘔吐を堪えているようにも見えて。
「げほッ……!」
一際大きく咳き込んだ瞬間、彼女の口から溢れ出たもの。
赤黒く粘性を伴った、液体。
「アヤちゃんッ!?」
もう、単なる不調で済ませられるはずもない。
アヤちゃんは咳とともに大量の血を吐き、蹲ってしまった。
一体、何が起きている?
彼女の体に、どんな異常が発生しているというんだ……?
「しっかりしろ、アヤちゃん!」
とにもかくにも、安静にさせなくてはならない。
俺は急いで彼女の元に駆け寄ろうとした。
けれど、ランがその動きを制する。
もう――間に合わなかったのだ。
「あ……ああッ」
その短い悲鳴が、アヤちゃんの断末魔だった。
押さえていた右手の間から、何かが伸びてくる。
それは……血と肉に塗れたツタのような触手。
何本もの触手が彼女の肉体を突き破り、ぐにゃりぐにゃりと畝っていた。
「ひッ……」
有り得ない光景。
この世ならざる光景が、しかし目の前で繰り広げられている。
全身から血飛沫を迸らせるアヤちゃんに、最早生命など宿っているはずもなく。
やがて無数に伸びた触手は、互いに絡み合ってヒトガタを形作る。
あまりにも歪なその体躯は、ただただ怪物としか言いようのない、恐ろしいモノで……。
「何よ、これ……」
「やべえぞ! とにかく逃げるんだ!」
俺が何とか叫べたのは、それくらいだった。
思考の全てが、あの怪物は危険だと警鐘を鳴らす。
あれは、既にアヤちゃんではない。
アヤちゃんの体を喰らい尽くした、異形なる怪物なのだ……!
先導するように走り出した俺。その後に、ランとチホちゃんが続く。
ライトで前方を照らしながら、とにかく怪物を引き離そうと逃げ続ける。
怪物の方も、俺たちを獲物だと認識しているのか執拗に追いかけてくる。
捕まればゲームオーバー、文字通り命懸けの鬼ごっこだ。
「こっちだ!」
回廊の突き当りを左に折れたところで、俺はすぐ右側にある倉庫へ入る。
真っ直ぐ行ったと見せかけ、怪物をやり過ごした後一階へ下りるのだ。
ランもチホちゃんもすぐに反応してくれて、怪物が通り過ぎるのを確認してから倉庫を抜け出し、俺たちは螺旋階段を駆け下りる。
そしてもうちょっとで下りきれる、というときだった。
「きゃあッ!」
「チホちゃん!」
しんがりで階段を下りていたチホちゃんが、足をとられて転がり落ちる。
もう少し近くにいてやれば、という後悔は既に遅い。彼女は体勢を崩したまま着地し、足を捻って倒れ込んでしまった。
「い、痛……」
更に、事態は追い打ちをかけてくる。
チホちゃんの悲鳴を聞きつけたのだろう、一度は回廊を真っ直ぐ進んでいった怪物がここまで追いかけてきたのだ。
倒れたチホちゃんのところへ近付こうとする。
だが、怪物の方が一足早く。
「ああ……ぁ……」
チホちゃんの体へ、じりじりと紅い触手が這いより。
その捕食を邪魔させないために、周囲にも細い触手が無数に伸ばされた。
「く……くそ……ッ」
「わ……私に、構わず……」
「そんなことできるわけないじゃない!」
そうだ、そんなことできるわけがない。
恐怖に顔を歪め、涙でぐしゃぐしゃになっているチホちゃんを、捨て置けるはずがない……!
「……アヤ……」
ランが、細く伸びた触手の一つに手を伸ばす。
俺はそれを止めようとしたが、そのときにはもう彼女の手が触手に触れていた。
「戻ってよ……」
上ずった声で、ランは祈る。
「元に戻ってよ、アヤああぁぁッ!」
魂の奥底からの叫び。
ランの絶叫に、怪物の動きがピタリと止まった。
まさか、ランの訴えがアヤちゃんに届いた?
一瞬だけそんな甘いことを考えたりもしたが……決して、そう言うわけではなかった。
『ア……ガギギ……ッ』
唸り声とも、悲鳴ともつかない音を発した怪物。
その体がブチブチと嫌な音を立てて、千切れ始める。
それだけでなく、内部から巨大な水膨れのようなものが幾つも生じて。
膨張が極限に達した瞬間――怪物の体は、体内で爆弾が炸裂するように、爆散した。
「あ……アヤ、ちゃん……」
……きっと、それが活動限界。
怪物としてのエネルギーに、肉体が耐え切れなかったという感じか。
とにかく、限界を迎えたアヤちゃんの肉体は、抑えきれないエネルギーによってバラバラに吹き飛ばされたのだ。
後には……人間のカタチに戻ったアヤちゃんの四肢と頭が、生臭い血とともに転がっていくだけだった。
「……何で、だよ……」
辺りを満たすのは、血の臭いと悲痛な嗚咽。
その中で俺は、悲しみと怒りで拳を握りしめることしかできず。
「……畜生……何なんだよおおおおッ!」
ぶつけようのない激情は、叫びとなって。
この漆黒に支配された黒影館に、ただ虚しく響き渡るのだった……。
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