球技会前日の放課後、実行委員たちはそれぞれの持ち場で明日に向けての準備をしていた。菜緒と淳人は体育館での作業の担当だった。その作業の中で2人の担当はバスケで使うボールのチェックだった。ボールを磨いたり、破損していたり空気が抜けていたりしないかを確認している。
「あ、これちょっと空気抜けてるかも」
「じゃあ、俺空気入れるよ」
「ありがと」
菜緒は空気が抜けかけているボールを淳人に手渡す。菜緒はボールを磨きながらチラリと淳人の方を見つつ、ボンヤリとあの日正紀に言われたことを思い返していた。
『蓮見はあいつみたいなひでぇやつじゃない』
『自分の気持ちを誤魔化すとまた後悔する』
あの日から菜緒はずっと悶々としていた。表向きは淳人と普通に話していたが、心の中は色々な思いでいっぱいだった。正紀の言う通り、ちゃんと向き合わなきゃいけないと思いつつ答えを出せていない。「まだ蓮見くんの知らないこといっぱいあるから」とか「他の人たちに感じる特別とか大切と同じ」という理由を自分に言い聞かせながら、淳人に対する恋愛感情が生まれることを怖がっている。答えを出せていないのではなく出そうとしていないというのが正しいのかもしれない。
「間宮さん?」
ふいに淳人に呼ばれて菜緒は驚く。思いのほか驚いた様子の菜緒に淳人は思わず吹き出してしまう。
「ごめん、そんなに驚かせた?俺ずっとここにいたの知ってるよね?」
淳人は冗談っぽくそう言って笑った。淳人はクラスでは相変わらずクールで無表情なままだったが、菜緒と話すときにはより表情を出すようになっていた。
「もちろん知ってるよ!」
恥ずかしくなって菜緒は少し大きな声で返事をしながら、手に持っているボールを強めに磨いた。淳人はそんな菜緒を見てまた笑う。
「ずっと同じボール磨いてるよ」
「あ……」
淳人に言われて菜緒はハッとした。そして、バツが悪そうにそのボールをかごに入れて別のボールを磨き始めた。
「大丈夫?なんか疲れてる?」
笑っていた淳人は、今度は心配そうに優しい顔をしながら菜緒に問いかける。菜緒は首を横に振った。
「……明日上手くピッチングできるかなって思って、ちょっと心配になっちゃって」
菜緒は誤魔化すために嘘を吐いた。球技会のソフトボールでの菜緒のポジションはピッチャーで、確かにピッチングに不安はある。だけど、今はそんなことを少しも考えていなかった。でも、まさか本人の前で「あなたへの気持ちで悩んでる」なんて言えるわけがない。菜緒は我ながら上手く誤魔化せたなと思った。そして、もうこの話題で押し通そうと決めた。
「……ストライク取るコツってある?」
菜緒の問いを聞いて淳人は「うーん」と考え込み、真面目な顔をして答える。
「俺も知りたい」
「え?」
「何年も野球やってるけど、まだ俺には分からないな。決まるときは決まるし、決まらないときは決まらない。ホント困る」
「そういうもんなの?」
正紀が「蓮見はコントロールがいい」と言っていたのを聞いたことがあった菜緒は淳人の返事が意外だった。
「俺はね。もちろんコツを掴んでる人はたくさんいると思うよ」
そう言いながら淳人は軽くボールを投げるジェスチャーをした。
「まあ、強いて言うなら、キャッチャーのサインと構えを信じることかな」
淳人はそう言って微笑む。
「だからさ、キャッチャーとの相性ってすごく大事で……合わないとお互い大変なんだよね。簡単にケンカになる」
少し懐かしそうに、でもどこか悲しそうな顔をして淳人は言った。
「逆に相性が合うと、すごく楽しいんだよね」
今度は嬉しそうな表情を見せる。
「今は……すごく楽しいよ。今までで1番かもしれない。まだガッツリ試合で組んでは投げてないんだけどさ……俺にとって木村は良いキャッチャー」
木村、つまり正紀のことだ。淳人の話を聞いて、菜緒は正紀が「蓮見はすごい」とか「球を受けるのが面白くてしょうがない」とか熱弁していたことを思い出した。そしてそれを告げると、淳人は「そっか」とテレくさそうにしながらもさらに嬉しそうだった。そんな淳人の笑顔を見て、菜緒も嬉しくなって笑顔になる。
「なんか間宮さんの質問に答えなきゃいけないのに、だいぶ逸れちゃったね。しかも俺の話で」
淳人は申し訳なさそうに言った。そして、「何かないかな」と1人考え込みながら菜緒に伝えられるストライクを取るコツの答えを探している。そんな様子を見て菜緒はクスクスと笑う。
「大丈夫だよ、蓮見くん」
「え、でも何にも解決してなくない?」
「ううん、十分。キャッチャーは玲だから、とりあえず信頼して投げてみる。多分相性いいから」
「多分、なんだ」
「うん。そういうの考えて練習したことなかったから。でも練習で楽しかったから大丈夫だと思う」
笑顔でそう言った菜緒の言葉を聞いて淳人は「そっか」と言いながら微笑んだ。淳人が笑ってくれて菜緒はまた嬉しくなった。
――蓮見くんの笑顔が好きだな。
今はこの気持ちだけで十分だなと菜緒は思った。答えを出すことから逃げてることに変わりはないのかもしれない。だけど、今の自分はこの気持ちを分かっているだけでいいんだと思った。さっきまで感じていたモヤモヤが少し消えていくような気がした。
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