彼は笑顔で手を振ってくれた。後ろを振り返ったが誰もいない。俺に手を振っているのか?
「やあ。キミが斉藤理久君かな?まさか会えるとはね。父から聞いているよ」
「父……?」
一体何者なのかと男性を見ていると、彼は名刺を手渡してきた。
そこに書かれていたのは、この病院の研修医であることを示すものや連絡先、それから『峰岸拓矢』という名前だった。
「もしかして、優也のお兄さん、とか?」
「あれ、優也から聞いてないの?歳の離れた兄がいるとか色々……」
「な、何も聞いてないですね。兄弟がいることも何も……」
そういえば優也は、自分自身のことを殆ど語ろうとしない。唯一話してくれたことは、生まれつきの病気で寝たら息が出来ないといったことくらい。
優也と優也の親父さんの年齢があまりにもちぐはぐで不思議だったけれど、俺より歳上のお兄さんが居るならまあ納得か?真ん中に俺と同じくらいのが居たりしないよな?
お兄さんは肩を落として「俺、すごく優也から嫌われてるんだよなぁ……」ため息をついた。
「一体何をやったんですか」
「何もしていない……とは言えないのかも。場所を変えようか」
お兄さんに連れられるまま、7階へ。
エレベーターから降りる。お兄さんは見えているようだが、俺には殆ど何も見えない。
「ああ、ごめん。理久君は夜盲症の可能性があるんだっけ。父さんがこれ、理久君に渡すように………」
「すみません。何かを渡してもらっているのかもしれませんが、俺には何も見えなくて」
「そんなに見えないのか…普段大変じゃないかい?」
「まあ、そうっすね」
お兄さんがスマホのライトを起動してくれた。
渡されていたものは封筒だった。
「あ…何とか見えます」
受け取ってよく見ると、この病院の中で使う紹介状らしかった。丁寧に医院長の印鑑で封がされている。
「ごめんね、俺には照明まで操作する権限がないから……」
兄ですら権限がないのかと驚く。とりあえず何も見えない状態で歩くのは厳しいのだが。
「そうそう、優也に会いにくるだけならスマホの電源は切らなくて大丈夫だよ。7階なら電話しちゃっても平気。」
「えっ……」
「優也自身が今まで通信端末を持ってこなかったから多分あまり意識していなかったんだと思うけど……6階と7階の間には色々と仕組まれているんだよ」
「そ、そうなんですか………」
「転ばないように注意しながら来て欲しい。肩も掴んでいいから」
「助かります」
さすがに肩は借りないが、遠慮なくスマホのライトで照らしながらお兄さんについて行く。
初めて来た時にも通された応接間的な部屋にたどり着いた。
太陽の光が入ってきていて、なんとか見えると安心していると、流石にここはスイッチで灯りをつけれるようだった。
「多分ここなら座って大丈夫」
お兄さんはどこか遠慮しているような、そんな雰囲気だ。
「……あの。答えにくいとは思うんですけど、もしかしてその……優也と、上手くいってないんですか?」
彼は少しの沈黙の後「うん。養子だから、優也は凄く複雑なんだと思う」眉間に皺を寄せた。
優也が、養子…?
だから年齢が凄く離れていたのか。
「5年前、初めて会った時から酷く拒絶されたよ。それから誰も近づかないようにと、新しく出来たここを寄越せと、自分を治験のために……モルモットとして提供する代わりに要求してきた。凄い子なんだ」
「モルモット……?」
「うん。優也はすごく珍しい病気だからね。どちらにしても、あの子が普通に暮らすことは出来ないし、父は承諾したよ」
ただでこんな場所を手に入れた訳では無いと思っていたが、優也の身体そのものが代償となっていたなんて。
「つまり、通常の家庭では優也の面倒を見きれないから養子として引き取って、研究材料にしている……?あんたら人間なのか?」
目の前にいる人間に、酷い嫌悪感をもった。
優也を、どうすれば助けられる?
お兄さんは首を傾げ、少し考えたあと「あの、理久君……養子なのは俺の方。あっちが本当の子だよ」苦笑していた。
「…………はぃ?」
お兄さんから、細かく説明された。
「えっ、じゃあ、本当に優也はあのおっさんの子で、めちゃくちゃ歳とってから生まれた長男?!」
「そう。定年近くなってからやっと産まれた子らしくて、毎日写真眺める位には溺愛してるんだ……優也からは嫌われてしまってるけど」
その原因も自分なんだけど。と、お兄さんは肩を落とす。
優也はかなり歳の割には大人びていたから、親父さんもお兄さんも、まさか子どもらしい理由、優也が普段食事をしていた席にお兄さんが座っていたことが発端となって、関係が拗れてしまうとは思わなかったらしい。
かなり大人びている……?確かに生意気だとは最初は思ったけれど、ものすごく甘えん坊な歳相応かそれ以下だと思うのだが、それはさておき。兄弟なら、できれば仲良くしてほしいなぁ。
お兄さんは少しだけためらった後「ねえ理久くん!優也は俺のことどう思ってると思う?」ためらいは何だったのかってくらい単刀直入に聞いてきたなこの人。
「嫌ってはない……と、思います。カードキー渡されてんすよね?」
「これには理由があって……あっ」
お兄さんが急に立ち上がる。
「やばい、理久君ちょっとごめん、待っててくれる?」
部屋から大慌てで出ていく。
今日は何を作ろうかな。持ってきた材料だとお兄さんが居るなら足りないかも、なんて呑気なことを考えながら待っていると、お兄さんはすぐ戻ってきた。隣には、寝巻きの優也がぼんやりと立っている。
いつも俺を見ると笑顔で飛びついてくるが、今日はただぼんやりと立って俺を見るだけ。なんか変な感じ。
「これが優也のもうひとつの病気。意識はあるし受け答えもできる。人格が異なる訳でもない。酷く寝ぼけている状態…で……」
お兄さんが話している最中に、優也は俺の隣へ歩いてきた。
「り、く……」
そのまま、倒れるように俺の座っていたソファーの空いていたスペースに飛び込み、俺に抱きついてきた。
「理久、ごめん……待ってよ…と……俺から…はなし…けど、我慢、でき…な…くて……」
苦しそうに息をしながら、優也は俺を見る。
「俺、俺………ごめん、ごめんね…もっと、もっと…………起き、られるように……我慢…できたら………」
お兄さんが青ざめ、駆け寄る。
「優也!まさかお前、起きたんじゃなくて…」
「兄貴……あ…そ、か…………俺、連絡、いれな…か…」
優也の体から力が抜けた。
「優也!!しっかりしろ!!優也!!!」
お兄さんが優也を強く揺さぶるが、返事は無い。あれ…優也、息をしてないような…?
俺が声をかける前に、お兄さんは優也を抱えて走り出した。
俺にとって、この部屋以外はほとんど何も見えないからゆっくり進むしかない。
とりあえず間取りを思い出しながら、勘で寝室へ向かう。
俺が着いた時には、お兄さんが息を切らしながらベッドの横に座り込んでいた。
優也の顔には酸素マスクが着けられており、いつもは電源が入っていなかったベッドの横にあるモニターには色んな数字が映し出されていた。
「あの…これは?」
「あ、あぁ…驚かせてすまない。優也がまさか『寝てない』とは思わなくて…ごめ、吐きそう………水持ってきてくれ…ぅっ」
「あ、はい……見えないんで時間かかりますが、大丈夫すか?」
「うん…」
とりあえずグラスに水を注いで戻ってきた。
落ち着いたお兄さんは優也の状態を確認しながら、もしかすると優也は自分で話したかったのかもしれないと言いながら、優也の後天性の病気について話してくれる。
本人の意思とは関係なく、ひと月ほどの長い期間を眠り続けてしまう病気なのだとか。
発症したのは3歳の時で、原因は家政婦による体罰もといい虐待だと考えられるが、証拠も何も無く、本人も覚えていない。
それ以降『起きていられる期間』と『寝ている期間』を繰り返しているのだそう。
俺と優也が現実で知り合って、2ヶ月と少し。
優也は2ヶ月から3ヶ月ほど『起きている期間』があったあと、2週間からひと月『寝ている期間』があって、また『起きている期間』と繰り返しながら生活していたらしい。
瓶の中身が割合ではなく増えれば増えるほど、現実での死亡率が上がるとは聞いていた。
産まれつき寝たら死ぬ男の子が眠り続けてしまう病気にかかっている。現実での死亡率は普通に生活している人間より遥かに高いものになるだろう。
現に、お兄さんが偶然あの場にいなければ、優也は呼吸ができなくて死んでいたはずだ。
お兄さんは優也のことが大好きで心配で仕方なく、それは親父さんも同じらしい。
新しい治療法が安全であれば当然試すらしいが無理な治験の被検体にする気はなく、睡眠サイクルや健康上問題がないか血液などのデータを取るだけ。本人の認識とは完全にズレている。
お兄さんは他人と息子を接触させたくない親父さんの希望を叶えつつ、誰とも関わらずひとりで暮らしたい優也にどう『寝ている間』の補助をするか考えた結果、自分が世話をすべきだという論文を書き優也を納得させ、入室だけができる権限のカードキーを持っていたらしい。
優也からは『峰岸家の長男としての居場所』を奪った悪者として嫌われているのだと悲しそうに笑っていた。
俺が関わってきた限りでは、少なくとも優也の口から家がどうとか、そういった話は聞いていない。優也が家に固執しているとは思えない。
あいつは本が好きで、ちょっと甘えん坊で、甘えるのが下手くそで、人と関わるのが苦手な寂しがり屋で………あれ?
お兄さんに、いくつか質問した。
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