◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
目を開けると、見慣れた景色だった。
枕元には本の内側、見返しの部分にひらがなで名前の入った植物図鑑が置かれていた。
『さいとうりく』と、大きく『ちはや』と書かれている。ずっと家にあったものとかだろうな。
俺が間違って本の世界に入りそうになってしまっても大丈夫なように置いてくれたのだろう。
いつものようにゆっくりと起き上がりながら、日付も確認できる時計を見る。
手のひらサイズの端末に、今日の日付と起きた時刻を入力した。これで『起きた』ことを伝えられる。
履歴から見て、どうやら今回は2週間くらい寝ていたらしい。いつもより少し短めだった。
逆に『寝てしまった』場合は入力が出来ないから兄貴が世話をしにやってくる。
いつ『起きて』いつ『寝始めたのか』わからないからと毎日起きた時刻と日付をメールで兄貴に送り付けるという方法になった。
別に読書の邪魔をしないなら、いつ来てくれてもいいとは思っているが、言い出せない。
兄貴は結構真面目だし『寝ている間』の世話をするために自分が入室すべきだと主張する論文を書いてあの頃の俺を説得したくらいだから『寝ている間』じゃないと来ないだろう。
けれど今は長男だとか峰岸家だとか、そういう『洗脳に近いもの』は殆ど残っていない。
時々心的外傷が呼び起こされてしまうことはあるけれど、それもだいぶ減った。
俺が繋がりだと思っていた、思わされていた『峰岸家の長男として』という精神的な負担を軽くするために兄貴は俺の代わりになってくれたのだということも理解している。
だからもう、論文なんてなくても来てくれていいのに。
そう思って、初めて気がついた。
何が『弟の代わりでもいい』だろうか。俺の方こそ兄貴の代わりに理久を利用しているだけじゃないか。
丁度よく甘えられる相手が居たから、ペアまで組んで繋ぎ止めておこうとしただけ。
「最低じゃん、俺……」
理久が言ってたっけ。ちゃんと話してみろって。
1階のレストランは開いている時間だし、外に出かける準備をしよう。
ハセガワにメールを送る。
着替えながら兄貴は何処にいるのか考える。分からない。ハセガワなら、予定を把握しているだろうか。
血液検査用の針を刺し、血を抜き取った。
これを受付に持って行って、あとはレストランで朝食を食べながらハセガワを待とう。
朝食はおかわり自由のパンとスープ。これだけを食べるのはすごく嫌な顔をされそうだが、そこは医院長の息子という特権をフル活用させてもらっている。
というか、これだけでも今の俺にとってはかなり重めの食事のようで、他に食べれるものは無いのだと思う。
起きてすぐ冷凍食品を食べていた頃は少し具合が悪かったし。
食べ終えた頃、ハセガワがやってきた。
「いつもは勝手に外出するのに……どういう心境の変化ですか?」
まあ、小言のひとつでも言われるのは仕方ないか。理久と出会う前は靴や服に仕込まれた発信機で、居場所はすぐに分かることもあって勝手に抜け出していたし、むしろ逃げて遊んでいたのだから。
「理久が心配するからね。それより、兄貴って今どこにいるかわかる?」
ハセガワは首を傾げた。何故知りたいのかと疑問らしい。それも仕方ないと思う。今まで何年も兄貴のことをずっと避けていたのだから。
そしてハセガワはあの時、あの場にいた人間なのだから。
「兄貴に、話さなきゃいけないことがあるから」
「………分かりました。案内します。ですが…今、拓矢さんは学校ですよ」
そっか。今日、学校の日なんだ。だから理久もいないのか。
「俺が兄貴の学校に行ったらまずい?」
ハセガワは暫く唸っている。そういえば俺と同い歳の普通の子はどうしているのだろう。
やはり理久もそうだけれど、皆学校に行っているみたいだし、周りに合わせて行くべきなのだろうか?
欠席しがちになりそうだけど、大丈夫かな。授業の内容は全部終わってるけど。
「そうですね……優也君はその、社会一般的に見ればまだ、小学校に通っている歳ですから」
「自分の学校はどうしたのかって怒られるやつかぁ」
「はい。そういう事ですね」
「俺も画面越しじゃない学校に行くべきかな?」
「医院長はどちらでもいいと仰っていましたよ。日本の学籍があってもいいんじゃないかというお考えでした」
「そう。確か、飛び級も無いんだよね」
「ありませんね。この国では本当に年齢の同じ子達が集まっている場所です」
勉強自体なら恐らく内容は兄貴と同じものをやっているはず。けれど、理久が行っている高校をはじめ本の中でしか読んだことの無い学校というものを経験してみたい。
「ハセガワ。俺、学校に行こうと思う」
「分かりました。医院長に伝えておきますね」
「うん。で、今日は兄貴の学校に行く」
「んん???」
ハセガワが取り出した携帯を落としかけた。
「え?だって兄貴に用事があるし」
「あの、拓矢さんは……」
「だから大学の本読んで待ってようと思って!大学の本って専門性が高くなるんだよ?寄贈図書にも色々と味が出てきてさ、日本の大学の本、楽しみだなって!」
今の学籍は学力に合わせて設定される通信制で、海外のものだから一歩も通っていないわけだし。
ごちそうさまと手を合わせ、食器を返却口に持っていった。調理師のおばちゃんが声をかけてくれる。
美味しかったと伝えると、小さな袋に入ったお菓子をくれた。これスーパーでぶら下がってた袋をちぎるやつだ!
お礼を言ってハセガワのもとにもどる。
「ハセガワ、みてみて!こんなにちっちゃい袋にお菓子がいっぱい!」
「良かったですね」
頭を撫でられた。何故……?
俺が暮らしているのは大学付属病院。ほぼ敷地が隣接しているから、すぐ兄貴の学校に着いた。
兄貴の学校の本は、やはり資料的な本が多い。
それでも内容は面白いので、少しずつ読んでいく。
当然小説的な本もちゃんと読んでいく。
ハセガワは図書館にずっと居てくれるならとどこかへ行ってしまった。別に移動する気は無い。
気が付くと、自分の両脇に本の壁ができていた。これ、片付けないとな……
分類が同じ本を数冊取り、席を外す。
高い位置の本は戻すのが大変だが、台を使って……ありゃ、届かない。
背伸びをしながら何とか押し込もうとするが、届かない。
この本ハセガワに取ってもらった本だったかも。別の本から──あっ。
踏み台の上でバランスを崩した。
床に叩きつけられる、そう思って目を瞑ったが、叩きつけられることはなかった。
「おっと、ナイスキャッチ…かな?」
聞いた事がある声がした。目を開けると、兄貴が俺を支えてくれていた。
「あんま無理すんなー?お前今日まで『寝てた』だろ?」
散らばった本を拾い、兄貴は棚に戻してゆく。
「……今日はもう終わったの?」
「ん?いや、空きの時間ってだけだな。優也が来てるって聞いて耳を疑ったよ。何かあったか?」
「用というほどでは無いけれど、確認しないといけないことがある」
「な、何を……」
兄貴は狼狽えながら俺を見る。
心臓が張り裂けそう、とはこのことを言うのかもしれない。顔から火が出るというのは、このことかもしれない。
目を合わせられない。
「あ、兄貴は……俺のこと、好き?」
「それはどういう意味で…?」
黙っていることを約束してあげているけれど、兄貴は『寝ている』俺を不必要に触る事がある。
頬を両手で触るとか、頭を撫でるとか、絶対必要ない筈なのだ。
寝ぼけているから、その時俺は笑ってしまうけれど思い出すとすごく恥ずかしい。
「俺を、弟として、どう思ってるか!」
兄貴は小さな声で「………だよ」何かを言った。
「え?なに?」
聞き直しても、ぼそぼそと言われるだけだ。もう、ハッキリしてくれないと困るんですけど!
「き、聞こえないよ!聞こえるように言ってよ!」
思わず声が大きくなった。
兄貴が顔を真っ赤にしながら「………好きだよ!大好きだよ!『寝ている時』以外も、甘えて欲しい!お兄ちゃんになったばっかりで、出来損ないかもしれないけど、俺頑張るから!だから…嫌わないでくれ!」大きな声を出した。
「え、えっと………」
理久からなんとなく聞いてはいたけど、本当に兄貴、俺の事嫌ってたんじゃなかったのか。
じっと睨むように見てくることがあったから、すごく怖かったのだけど。
涙が出てきた。
「頼りないかもしれないけど、頑張るから……びしっと、かっこいいお兄ちゃんになるから……嫌わないでくれ」
「嫌わないよ、好きかは分からないけど、嫌いじゃないよぉ」
嗚咽混じりの声が出た。
兄貴が手を伸ばしてきた。
その手をするりと避けて、腕の内側へ入り込む。伸ばした手が折り曲げられて、俺の頭を撫でてくれた。兄貴も少し泣いてるみたい。
理久みたいないい匂いはしない。けれど、あたたかくて、なんか落ち着く。
度々鳴っている音楽がまた鳴った。チャイムとかいうんだっけ?
兄貴がそっと俺を離してくれた。
「ごめん、次また講義あるから……」
「ここで待ってるから、行ってきて」
「おう、すぐ戻ってくるからな」
兄貴がなんか受付で怒られているような、茶化されているような、そんな気がしたけど、まあいいか。
積み重なった本を片付けて、また別の本を積み重ねて、そしてまた片付ける。何度か繰り返した。
凄く晴れやかで、暖かくて、そして……眠気に襲われた。
あれ、もう『起きた』はずなのに。
本棚に寄りかかる。ゆっくり腰を下ろした。
息が苦しい。
簡易酸素マスクは荷物の中。荷物は席にある。席はとても遠い。
どうしよう。凄く怖い。怖い、怖いよ………たすけて、お兄ちゃん……
その時「あ、ここに居……優也!大丈夫か!!」兄貴が来てくれた。
兄貴が荷物から持ってきてくれた酸素マスクで空気を吸いながら、目を瞑る。
すごく眠い。どうしてだろう。
今まで『起きた』後はこんなこと無かったのに。
「ごめんなさい…」
泣きながら謝ると、兄貴は頭を撫でてくれた。
「優也は何も悪くないから大丈夫」
俺は、そのまま意識を手放した。
目が覚めると、そこは見覚えがあるような、ないような、そんな部屋だった。
どこだっけ、ここ。
酸素をくれる機械はあるから、本の中の世界ではないだろうし、多分俺の知ってるところなんだと思うけど。
部屋から出る。見覚えのあるような階段を降りながら、周囲を見ていく。
階段を見下ろした時、何か恐ろしい記憶のようなものが頭の中に流れた。
この階段、突き落とされたことがある気がする。
「ぅ…」
思わず座り込む。凄く怖い。
ゆっくり、ゆっくり階段を降りた。得体の知れない恐怖は収まった。
手すりに掴まりながら立ち上がり、周囲を見渡す。
やっぱり、何か見覚えがある。
西洋風の館とか、そんな感じの大きな家。なんかサスペンスホラーでも起きそう。
恐らく階段を降りたすぐのこの空間は玄関ホール的なもので、置物もかなり高そう。
どこだろ、ここ。
玄関は施錠されていた。鍵を持たない者には中からでも開けられないらしい。
仕方ないので屋敷の中を歩いていく。やっぱり見覚えがある。思い出せない。
突き当たりまで来てしまった。
ふと、突き当たりの扉の手前、一つ手前の部屋の扉を見て、また酷い恐怖を感じる。
何故だろう。
ゆっくり扉を開けると、薄暗いが色んなものが置かれている荷物置きのような場所。
埃が沢山あるが、ここは──
また、何か分からない記憶のようなものが頭の中に流れていく。
さっきより鮮明に、そして恐ろしく。怖い。苦しい。痛い。そんな記憶。
その場に座り込んだ。眠くないのに、息が、苦しい?
いや違う、これは息ができなんじゃなくて、息をしすぎてる。過呼吸?どうして?
さっきから俺の頭に浮かんでくるものは何?
その場でじっとしていると、突き当たりの部屋の扉が開いて「ゆ、優也…?」兄貴が出てきた。
兄貴の顔を見る。彼も何が起こっているのか理解出来てはいないようだったが、俺が開けた扉の先を見て、なにかを理解したらしい。
慌てて抱き寄せてくれて、俺の背中をさすってくれた。
しばらくして息がちゃんと吸えるようになる。
「兄貴、ここ、どこ……?凄く、こわい……」
兄貴は目を見開いて何かを言おうとしていたが思いとどまったのか、言わずにただ俺の頭を撫でてくれた。
「来たことはあると思う。でも思い出せなくて…さっきから、変な記憶が、怖いのが、痛いのが、ずっと、ずっと……」
「忘れていいものだよ」
兄貴の言葉で、やっと気がついた。
「……そっか。ここ、俺の家なんだ」
だから、さっきから色んなことを思い出すのか。そういえばこの部屋『お仕置部屋』だった。
いうことを聞けないと、冬は凄く寒くなるから下着だけで閉じ込められたりもしたし、家政婦達から押さえつけられて、沢山叩かれて、殴られて、ものすごく怖かった部屋だ。
「ごめん、エレベーターの点検があってこっちに……ごめん。優也にとってこの家は怖いものだらけだったんだな。本当にごめん」
兄貴の声が震えている。そういえば、兄貴と暮らしたのって『起きている期間』は無いのか。
少しくらい、甘えてもいいんだよね?
「大丈夫。でも平気じゃないから……そばにいて?お兄ちゃん」
凄く恥ずかしくて普段は言えないけど、凄く怖いことには変わりないから、甘えちゃおう。
兄貴は家の中でずっと傍にいてくれた。
移動する時はずっと手を握ってくれた。
何処に行っても恐ろしい記憶が襲ってきて追体験してしまうので、その度に兄貴は優しく俺を抱きしめて、撫でてくれる。
そして、何かを手帳にメモしていた。
いつも兄貴は俺が入っているのを世話してくれるだけだが、今日は風呂も一緒に入って、それから、それから……
初めてやったテレビゲームは刺激的だった。最初は兄貴が勝っていたけれど、後半は俺の圧勝。えへん。コツを掴むの上手いでしょ。
そして、沢山遊んでいたら眠気に襲われた。『起きたばかり』だからかな。
兄貴に伝えると、沢山動いて色んなことがあって、疲れたんじゃないかと言っていた。
そっか俺、現実世界では凄く身体が弱いんだった。体力つけなきゃな。
兄貴が俺の部屋に運んでくれる。
布団はお日様のにおいを沢山蓄えている匂いがした。
俺がいつ帰ってきてもいいように、用意してくれていたんだろうか。
今日は、お日様の布団の中で、おやすみなさい。
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