ゆっくりと目を開ける。
理久から貰ったクッションを抱きしめた。もう、理久のにおいがしない。
気がつくと、顔を埋めていたクッションはぐっしょり濡れていた。
ふと時計を見ると、夕食の時間はとっくに過ぎていた。もう1階のレストランは開いていない。
今日は何も食べなくていいや。食欲もないし。
ごろりと転がって、四角く切り取られた空を見る。
7階からの視界を遮るものはなく、星空が広がっている。まだあと数冊、回収出来るかも。
クリスに確認して、本を探しに出かける。
そして現実の時間では恐らく数日、体感時間では何日だろう。長い時間を『迷魂狩り』に費やしていた。
飲み食いは忘れていたというべきか。
普段から読書に没頭して忘れることはあるが、今回は『迷魂狩り』をやりすぎて忘れていた。
少し目が回って床で横になっていたら、ずっと姿を見ていないとレストランの知り合いから連絡があったらしく、様子を見に来た兄貴に酷く怒られた。
かなり意識がぼんやりとしていたから、あのまま意識を失っていたら死んでいたと思う。レストランの知り合いは命の恩人だ。
つくづく、俺は色んな人に助けられていると思いながら体の中に入っていく点滴を眺めていると来客があった。
琹音がお泊まりに来たらしい。
どうも俺が飲み食いを忘れて読書をしていたからと、残りの夏休みは7階に泊まるのだとか。
『迷魂狩り』が出来なくなると思ったが、よく考えたら俺自身が招いた状況である。
7階に使っていない部屋はまだいくつもあり、どうやらそのひとつが琹音のプライベートなスペースとして使われるらしい。
将来的に本棚を置いて書庫にしようと思っていたので何となく思うところはあるが、また飲み食いを忘れて死にかけるより良いかと思うことにした。
しかし、とにかく琹音は厳しかった。
夏休みがあけて最初の登校日。
学校に顔を出すと千隼君が再度、気持ちを伝えてくれた。
俺は素直に、頭を下げて断った。
「千隼君とは仲良くなりたいと思うよ。好きではあるけど、千隼君の好きとは違うと思うの。だから、付き合うとか、そういうことは無理」
俺の気持ちを伝えると、千隼君は少し唸った後、俺の手を取った。
「だったら僕、優也に惚れて貰えるように頑張る!まずはね、僕のこと呼び捨てで呼んで!」
「千隼?」
「そう!僕たち親友ってことで!」
ぎゅうっと抱きつかれる。
「え、えっと…わ、分かった」
勝手に恋人にされるよりはマシか、なんて思っていたら、流成が割り込んできた。
「優也の親友は俺なの!!お前はちげーの!」
「流成は勝手に言ってるだけでしょ?僕は公認なのさ!」
なんか、めんどくさいことになったなぁ。
しばらく言い合ったあと、ふたりは俺を問いただす。
「「優也はどっちが親友だと思う!?」」
「親友ってひとりしかだめなの?」
ひとりだけというルールがあるなら、向こうは忘れてしまっているけれど俺には理久という親友がいるから、ふたりとも該当しないことになると思う。
俺の問いに狼狽えるふたり。
「それなら、ふたりとも親友なんじゃない?」
何とか誰が親友か問題は解決したらしいので、俺は席について本を開こうとしたのだが千隼が今度は背後から抱きついてきた。
「離れて欲しいんだけど」
「やだ」
仕方なく、千隼に抱きつかれたまま本を読む。
「優也ってほんっと文字が小さい本ばっか読んでるよね。なんで?」
「なんでと言われても……読む?」
「読まない!」
この千隼、理久の魂が混じってるんだよね?何故こんなに読書嫌いなのだろう。
昨年俺は『寝ていた』せいで知らなかったが、この学校では毎年夏休み明けから運動会というイベントに向けて準備をする。
様々な競技種目で順位を争うらしい。
凄く魅力的なイベントではあるが、残念ながら俺は参加出来ない。
元々身体が弱いということで見学だろうと思ってはいたが、当日は見学どころか欠席となるのだとか。
理由は単純に昨年誘拐され、犯人が未だに捕まっていないことが大きく、たくさんの人間が訪れる中ではまた誘拐される危険があるからという理由らしい。
ずっと教室で過ごして外には出ないことや、当日は大人から離れないことを条件に見学もできないかと伝えたが不可能との話だった。
父さんは酷く警戒しているようで、今後の学校行事は全て欠席になるらしい。
学校行事は理久に会える可能性が高いから、別の意味でも楽しみだったのにな。
落ち込んでいると、パシャリという機械音が聞こえた。
顔をあげると、千隼がデジカメを片手に笑っている。
「優也のしょぼしょぼ顔ゲット!…あれ、またボケてる」
そういえば、割と前から千隼は俺の事を盗撮していた。ちょっと分かりにくい本格的な盗撮だったので将来が心配だったのだが、夏休みもあけて堂々と撮るようになったようである。
いい傾向なのかは分からないが、こっそり撮るよりはマシだろう。
「優也が運動会参加出来ないなら、僕が沢山写真撮って、見せてあげるね!」
「ありがと、千隼」
パシャリ。また写真を撮られた。
俺は幼い頃に《自分が撮ることを許可した写真以外には姿がはっきり映らないようにして欲しい》という願いを小瓶に叶えてもらっている。
これは現実世界と本の世界で姿が変わらないから身元を判別しにくくするために願ったもの。そうするように『先生』が教えてくれたから。
顔が映らないと嘆く千隼には悪いけれど、身を守るひとつの方法なのである。
皆が一喜一憂しつつ参加種目を決めている様子を眺める。とても暇。なんだか眠くなってきちゃった。
何度か船を漕いでいると一瞬意識が途切れた。危ない、多分少し寝てた。
目を擦り、挙手をする。
「先生、保健室に行ってもいいですか」
「……峰岸君ですか。体が弱いんでしたね」
行ってきなさい、という先生の許可のもと席を立った、その時だった。
クラスメイトのひとりが声をあげた。
「先生!峰岸、眠そうだった!サボり!!」
先生は俺を見て「眠りたいだけなら、認めません」厳しい顔をした。
「えっと、でも俺……」
「席につきなさい」
「……はい」
どうしよう。学年がひとつ上がって先生が変わったせいで、俺の病気のこと伝わってないのかも。
寝たら息ができないから、なんて言ったところで信じてもらえるか分からない。
くすくすと笑い声が聞こえた。なんだか悲しくなってきちゃった。
今回は普通に眠いだけだから少しくらい我慢すればいいかな。寝ないように気をつけなきゃ。
そう思っていたのだけど。
一度眠いと感じてしまうと、さらに眠気が襲ってきた。
こくり、こくりと何度か船を漕いでしまったのは覚えている。
ごちんと頭を机にぶつけた衝撃で目が覚めた。急に空気が入ってきた肺が驚いて咳をさせてくる。
いけない、これ死んじゃうかも。
再度挙手をして先生に許可を貰おうとするが、居眠りは許さないと許可が降りない。
もう、どうしようもなく、眠いや。
何とか授業の時間を耐えて、休み時間に保健室に向かう。
廊下を歩いていると、突然後ろから突き飛ばされた。床に叩きつけられる。
振り返ると、今年クラスメイトになったばかりの男子生徒が4人立っていた。
生徒のひとりが声をあげる。
「峰岸のサボり!」
次々に他の生徒も声をあげ、いちばん体格の良い生徒が俺の腕を引っ張った。無理矢理立たされる。
「な、何するの」
「サボりちゃんには、お仕置しないとダメだろ?」
「やめて、はなして」
抵抗しても、数人がかりで無理矢理近くの男子トイレへと連れ込まれた。
「峰岸ってさぁ、結構いい所のお坊ちゃんなんだって?……でも、斉藤がプールに突き落としても何も無かったってことはさぁ……家族から相手にされてないんじゃないの?」
男子生徒の言葉を否定する。
プールに落ちたことに関して、千隼は冤罪である。怒り狂った父さんや兄貴の疑いを晴らすのにすごく大変だった。
しかしクラスメイトの中にはそれを信じていない者もいたらしい。
髪を鷲掴みにされた。
「痛い、離して、やめて!!」
「お前の父親、すっごいジイさんの医者なんだっけ?具合悪いなら、俺らが診察してやるよ」
生徒のひとりが腕を押さえてきた。身動きが取れない状態で、シャツのボタンが外されていく。
もがいても、何も変わらない。
「何この剣…もーらい!!」
「やめて!!返して!!!」
ペンダントを盗られた。現実世界で盗られたら、取り返す方法がないのに!!
「そんなに大事な物なんだ。ふーん?」
「お願い、返して……」
歪んできた視界の中、男子生徒に懇願する。
「どうしよっかな~」
楽しそうな男子生徒。名前は忘れたけれど。
「そうだ!俺のドレーになるなら返してやってもいいぞ!」
ドレー?……まさか奴隷?この子意味わかって使ってるの?
でも、ペンダントを取り返す方法が他にあるとは思えない。
返事が出来ずにいると「お前ら何やってんだ!」聞き覚えのある声がした。
目を開けると、体格のいい生徒に向かって流成が掴みかかっていた。
「それ優也のペンダントじゃん!返せよ!!」
「もう俺が貰ったんだよ!俺のもん!!」
「優也の宝物なんだ!ドロボー!!」
体格差も人数の優勢も、何もかもを覆し、流成は男子生徒をのしていく。
そういえば流成って、喧嘩上等ってスタンスだったな。
「くっそ!覚えてろよ!!パパに言いつけてやる!!」
男子生徒は若干泣きっ面になりながらトイレから立ち去る。
「津川の奴…持っていきやがった!!ちょっと待ってろ!!」
ひとり、男子トイレに残される。
掴まれていた手首が、少し赤くなっていた。
待っていろと言われたけれど、流石にトイレの外に出てはいいよね?
ゆっくり、壁に手をついて立ち上がる。
身体強化の切れた身体だと、壁伝いに歩くのでもかなり辛い。これ、理久に会う前よりも筋力とか衰えてる気がする。ペンダントがないと『起きたばかり』でなくても本当に歩けなくなりそう。
息を切らしながら、トイレから出て様子をうかがう。誰もいない。
どうしよう。あれがないと現実世界では本当に何も出来ないし、本の世界でも『迷魂』を回収出来るか分からない。
涙が出てきた。
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