男は新しい客人に気付くと、一旦手を止めて優雅に腰を折る。そして再び音を奏で始め、ルルは少しの間それに聞き入った。
『……クゥ、あの人は、何を、しているの? この音、不思議』
「吟遊詩人だ。多くの国や地域を廻り、自ら手がけた曲を人々に披露する旅人を言うんだ」
『たび、びと?』
クーゥカラットは、吟遊詩人の側に置いてある楽器ケースにルナーを入れる。男はそれに手を止めた。
「施しをありがとうございます、クーゥカラット殿」
彼は女人の様な笑みを浮かべ、胸に手を当てると膝を折り、頭を下げた。
「よく、私をその名前だと分かったな」
「ふふ、旅人の勘ですよ。しかし……子供を連れているというのは初耳ですね」
ルルはそれが自分を指しているのだと分かり、どうすればいいのかと彼らを交互に見やった。クーゥカラットは戸惑うルルの頭を優しく撫でる。
「この子と暮らしてまだ間もなくてな。色々あって、外に出るのも……吟遊詩人に会うのも初めてだ」
「それは光栄です」
吟遊詩人は淡い微笑みを崩さず、ルルへ手を差し出す。ルルはクーゥカラットに促され、女性に似た手を握り返した。
『はじめまして』
「おや? これは……テレパス、ではないですね」
男は頭の中で反響する不思議な感覚に、クーゥカラットへ視線を向ける。クーゥカラットはそれに応えてルルの肩に手を置いた。
「実はこの子は口や目が利かないんだ。こちらの声は届くから、通話石で会話をする」
「そういう事ですか。では改めて……私はアウィン。はじめまして」
『僕は、ルル。よろしくアウィン。旅を、しているの?』
「ええ、皆に歌を広めるために」
ルルはその言葉に、外に出た瞬間に味わった心臓の高鳴りを感じた。痛みにも似るこの感覚に不愉快さは無く、むしろ好奇心の心地好さがある。
初めて出会ったこの手を離せないほど、彼の考えに興味が湧いていた。旅というのは必然的に、多くの危険を見る事になる。しかしアウィンは、歌を広げたいというだけで、その危険に身を投げたのだ。
それが不思議で仕方ない。この世界にどんな国があるのかも興味がある。ルルにとっては未知でしかない旅の思い出も知りたかった。
ルルはアウィンの手を握ったまま、クーゥカラットを見上げる。クーゥカラットはその顔がうずうずと興奮していると分かり、可笑しそうに笑うと、肩に置いていた手を返事としてポンと叩いた。
ルルは許可が出ると、早速アウィンの手を両手で包む。
『あの、お話し、したい』
「私と?」
『うん、貴方と。旅の話とか、色んな話を。忙しい……かな?』
遠慮気味に小首をかしげるルルに、アウィンはクスリと笑った。
だがアウィンは、クーゥカラットが彼を大切にしている事を理解しているらしく、伺うような視線を向ける。それに気付いて無言で頷いたクーゥカラットに軽く会釈し、ルルへ視線を戻した。
「では、立ち話もなんです。どこかに座りましょうか」
『いいの?』
「ええ、もちろん。私が相手で良ければ」
『ありがとう、アウィン』
「ふふふ、どういたしまして。少しお待ちを」
アウィンはルルの手を離すと、荷物の中から1枚の布を取り出した。それを噴水傍の地面に敷くと、ルルの手を取ってその場にエスコートする。服を汚さないように座らせ、自分もその隣に腰を下ろした。
「さて、どんな話をしましょうか」
『アウィンが、最初に居た国は、どんな所?』
「リベルタという小国です。とても自由で、個性的な人々が居る場所ですよ。ルルはここで?」
『ん……そういえば、分からない。気付いたら、セルウスショーに居て……クゥが、助けてくれたから』
「セルウスショー……そうでしたか。ではやはり、ここで会えたのも何かの縁というものですね。しかしルル、どうして私に気を許しても良いと思ったのですか?」
『どういう事?』
「私が悪い人かもしれませんよ? 美しい貴方を、今すぐ攫ってしまうかも」
急に声の調子を下げて怪しく笑うアウィンに、ルルは隠した目を瞬かせる。そんな隙を見て、アウィンは彼の細い手首を握って拘束の真似事をした。
意地悪そうな低い声と掴まれた腕に、ルルは首をかしげながら頭をひねらせた。どうやら彼は恐ろしいものを演じているらしいが、手を振り解こうとは思えない。
『悪い人は……手を優しく、握らないよ』
思い出すのは、奴隷だった頃の生活。調教師が枷の鎖を掴んで引っ張ったり、鞭を振るうといった乱暴を受ける日々。ルルは直接鞭を当てられた事は無い。しかし切る様な空気は肌で感じていて、何も知らなかった当時は掴めない恐怖を覚えさせられていた。
今のルルにとってはまだ、人の善悪を確かめるのが自分に触れる手の優しさだけだ。しかしそれだけでも、彼の本性を見抜くのは充分だろうと思えた。
アウィンは灰色が混ざる青の細い目を丸くしたあと、優しく弧に緩めてルルの手をそっと包んだ。
「1枚上手でしたね」
『ねぇ、聞いてもいい?』
「どうぞ」
『アウィンはどうして、旅をしているの? 1人での旅って……危険でしょ?』
「その通りです。私が国を離れる事を、快く送り出してくれない者もいました」
『それなのに、どうして?』
「ふふ、いい事を教えましょうルル。この世界は……白紙なのですよ」
アウィンはフード越しに耳元へ顔を近付け、楽しそうにそう囁いた。
『白紙?』
この世界には地図というものが無い。遠い昔は存在したらしいが、今は消され、もう互いにどんな国があるのか、どんな種族が生きるのか、分からなくなっていた。
もちろん皆、そんな世界に興味はあるが、あるだけで、誰も本気で見に行こうとはしない。隣の国ですら情報が無いなんて事も珍しくないのだから。未知の世界へ興味だけで踏み込み、死んだだなんて馬鹿らしくて不名誉な事だった。
命を落とすリスクを背負ってまで世界を見るか、安全な母国に閉じこもって終わるか……選ばれるのは、俄然後者だ。
「けれど私は、昔から歌が大好きなのです。そして幼い頃、母国以外の存在を知った時……居ても立っても居られなかった。だから私は、吟遊詩人になる事を選んだのです。もちろん安全は良いですが、それに勝るものも、確かにありますから」
『うん、そうだね。とっても素敵。僕、その考え好きだよ』
「ありがとうルル。そう思ってくれるのなら、きっと貴方も触れるでしょう。どんな国を巡ったか……知りたいですか?」
『教えてくれる?』
「ええ、よろこんで」
それから数時間、彼らの話は顔を見せた太陽が真上に登る頃まで続いた。
クーゥカラットはどこか悩ましそうに、壁に背中を付けて体重を預けながら、少し遠くで見守っていた。
相手の表情が見えないせいか、ルルは感情を顔に表す事が少ない。しかし長く共に過ごせば微かな違いは分かるようになるものだ。少なくとも今、アウィンと会話している彼はとても楽しんでいる。
(いい事だ。そう分かってはいるんだがな)
やはりルルは世界に興味を持った。それは彼の世界が広がる良い機会であり、今日吟遊詩人に出会ったのは運が味方してくれただろう。外へ連れて来た甲斐がある。
しかしそう思うと同時に、罪悪感に苛まれていた。ルルが世界を見たいと言った時、それを心から受け入れる事が出来ない自分がいるのだ。
彼の幸せを望んで作られたこの家族という関係に、いつの間にか自分が依存している。
「大人気ないな、本当に」
嘲笑が混ざる笑みを浮かべながらも、ふとルルの未来に想いを馳せる。
(俺が死んだら、ルルはどうなってしまうんだ……?)
クーゥカラットがそんな事を考えているとはつゆ知らず、ルルは噴水の向こう側に居る彼へ振り返る。もう長い時間彼が隣に居ないため、様子が気になったのだ。
アウィンは視線を辿り、それを察して立ち上がる。今度はこちらを向いたルルの手を再び取って優しく立たせた。
「そろそろ御開きにしましょうか。せっかく初めての外なのですから、もっといろんな場所を見たいでしょう? 話をしていると、1日は短いですからね」
『アウィンはこれから、どうするの?』
「宿は取ってあるので、一晩したらここを発ちます」
『そっか、もう……行っちゃうんだね』
少し残念そうに言って俯くルルに、アウィンは女人の様に微笑むと、跪いて彼の指先に口付けをする。
「またいつか、会いましょう。その時にまたお互いを語らいましょう、ルル?」
『うん……そうだね。また会おう、アウィン。今日は、沢山聞けて、楽しかった。ありがとう』
「私もですよ。今度は紅茶でも片手にしながら、語りましょうね」
ルルはアウィンに導かれ、クーゥカラットの元へ行くと名残惜しそうに手を離す。
「これからは?」
「ええ、もう旅の計画を立てているので」
「そうか。最後に尋ねたい。アウィン……貴方は──」
「私はただの吟遊詩人ですよ、クーゥカラット殿」
言葉を遮って自分の薄い唇に指を当てる彼に、クーゥカラットは目を瞬かせたがフッと笑った。
「そうだな、今日は感謝する。旅路には気をつけろよ」
「ありがとうございます。それでは」
アウィンは荷物を入れたトランクケースと楽器ケースを手にし、クーゥカラットへ腰を折り、ルルへは柔らかく手を振る。そして人々が忙しなく行き交う中へ、杖をつきながら消えて行った。
「楽しかったか? ルル」
『うん、とっても』
「そうか、良かった。これから、もう少し街を周ろうか」
クーゥカラットはルルの手を取り、出来るだけ人が少ない通りを選んで散策を始めた。
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