宝石少年の旅記録

宝石の体を持つ少年の、優しい旅の記録。
小枝 唯
小枝 唯

寂しいという感情

公開日時: 2021年10月18日(月) 20:00
文字数:4,210

 裏庭には、直接ルービィの自室に繋がる階段が設置されている。いつでも彼女が庭の手入れを出来るようになっているのだ。


『濡れちゃうよ?』

「少しくらい大丈夫よ。お風呂で温まって、傷を癒さなきゃいけないんだから。ほら早く」


 ルービィは申し訳なさそうに入るのを躊躇う2人の背中を押す。

 カーペットの上にふわふわな大きいタオルを敷いてルルたちを立たせ、服の上から小さなタオルで水気を取る。洗ったばかりなのかどこかまだ、太陽のぬくもりが残っていた。2人が服を拭いている最中、ルービィはそっと廊下を覗いて、誰も居ない事を確かめる。

 今のうちにと、2人を連れて大浴場へ向かった。


「すっげぇ」


 ベリルは貴族の家が初めてで、広さに圧巻されながら辺りを見渡す。廊下なんて自分の家のは無いし、ここだけでも充分住めそうだ。所々に飾られている絵画も、本で読んだ有名な物が多い。無名な絵でも家主の趣味の良さが分かる。

 大浴場は更に彼を驚かせる。いつもギリギリ足を伸ばせる程度の風呂とは、比べてはいけない広さだ。ベリルの驚いた声に、鳥や小動物たちが隅へ逃げて行く。


「あの動物たち……飼ってんの?」

「いいえ? みんな好きに遊びに来るの」

「はえ~」

「ふふふ、そんなに開けてると、口乾いちゃうわよ。このお湯はね、小さな傷なら癒してくれるの。ゆっくり入って」


 出て行ったルービィを見送ったルルは、早速服を脱ぐ。しかしベリルは、未だ浴場である事が信じられないようで、目があちらこちらと忙しそうに行き来している。

 ふと視界の中に、服を枝に掛けているルルが映った。肩に小鳥が止まり、彼は微笑む様に目を細める。ベリルはその様子から、少しの間見惚れる様に視線を外せなくなった。


(絵を見てるみたいだ)


 本当に言葉通り、優秀な画家の絵画を鑑賞している気分になった。洗礼された体に添える様な煌く宝石。そして慈愛の含んだ瞳に仕草。全てを含め、彼がただの旅人でない事を思い知らされる。

 本来、敬うべき王と裸になって風呂に入るなど、今までの歴史の中であっただろうか。そもそも、隣を立つ事すら許されないはずだ。

 ルルは視線に気付いたのか、こちらに歩み寄って来た。そしてまだ湿っている茶色のベストを指先でつまむ。


『脱がないの?』

「えっ? あぁ、そうだな。ていうか、なんか楽しそうだな」


 ようやく上着を脱いだベリルを待つ虹の全眼は、とてもキラキラしている。早く早くと急かす様に、そわそわしているのが分かった。


『だって、誰かと入るの、楽しいから。お喋りしたり……水掛けっこしたり』

「ぷっ、ははは! そうだな、冷えるから、先入ってな」

『何で笑うの?』

「秘密」


 不思議そうにしたルルの頭に手を置くと、飼い猫の様にグイッと押し付けてくる。一緒に入るだけでこんなにはしゃぐものなのだろうか。妙に大人びた所があると思えば、時折見せる世間知らずな子供っぽい部分が目立って見える。表情が読めないのに、こうも感情が丸見えなのが不思議だ。


(王である前に、ルルはルルだもんな)


 ルルは先に白い湯の中に足を入れた。トロトロした湯は傷口に滲みる事はせず、優しく撫でてくれる感覚があった。試しに顔を洗ってみると、血が滲んでいた頬の切り傷が少しだけ癒えた気がする。ルービィの言った通り、本当に怪我を治す効能があるらしい。心地良さは相変わらずで、湯の底まで潜った。


 脱いでいる間、ベリルはあれだけ急かしていたルルが静かな事に気付いて、チラッと振り返る。しかしそこには、自分の部屋以上の白濁の湯が広がるだけで、姿が無かった。


「ルル? お~い、どこ行った?」


 浴場には自分の声しか響かず、返って来るのは動物が草を動かす音だけ。まさか溺れたのかと、慌てて腰に布を巻くと湯船へ顔を出す。再び呼ぼうとしたその時、バシャッと水飛沫を上げて、探していた頭が「バァ」と言いながら飛び出してきた。

 ルルは湯をかぶったベリルへ可笑しそうに笑った息を吐く。


「ル~ル~……お前なぁ、バァじゃねえ。この~っ」


 ベリルは数秒間唖然としたあと、彼の頭をグシャグシャと掻き回す。一瞬でも本気で心配して損をした。

 ルルはその様子に、顔を覗き込んで小首をかしげる。


『……本当に怒った? ごめんなさい』


 ベリルはしゅんと眉根を八の字にする顔に、仕方なさそうな溜息を吐く。素直に謝って反省するから、どうしてもそれ以上責める気になれない。しかし旅人という職でそれなりに様々な危険を経験しているせいか、ルルは妙な所で危なっかしい。

 ベリルは湯船に入ると、ルルの額を強く人差し指で押した。


「この御転婆やろう。心配したぞ」

『ごめん……』


 ベリルは雲が微かに覆う空をガラス越しに見上げ、胸元まで深く浸かった。その隣で、ルルは湯船の端に敷いたタオルの上に肘を置き、足をゆったりと泳がせる。隣で湯が大きく波立ったのを感じた。ベリルが立ち上がったのだ。

 もう上がるのかと思ったその時、彼は頭を撫でる。


「髪の毛、乾かしてやるよ」

『いいの?』

「ああ。髪とか頭、触られるの好きだろ?」


 ベリルは湯船の縁に腰を下ろし、水気を払うクリームを櫛に付けて、膝に届きそうな髪を丁寧に梳いた。


「それにしても長いな」

『その方がたくさん、梳いてもらえるもん』

「ははは、欲張りなやつ」


 ルルは心地良さそうに目を閉じ、彼の足元に背中をくっ付ける。しかしベリルはいっそう煌めきを増した髪を撫でながら、ふと、胸が苦しくなった。


「ノイスに来て、どんくらいだっけ?」

『えっと……6日目、かな』

「意外とそれしか経ってないんだな」


 ルルは国宝を新しくするという、旅に目的を持っている。国を観てまわるだけの単なる放浪者ではない。別れが近いと、なんとなくベリルは感じていた。


「なあ、ノイスはどうだ?」

『楽しいよ。みんなに会えたし……。あと、平和だなって、思う』


 ノイスは賞金やら武器やらの話題が多いため、はたから見たら物騒な国だ。他の国に比べて血の気も多い。しかし不思議と犯罪というのは少なかった。泥棒や殺人など、他国では取り締まる必要のある犯罪が無いのだ。それはおそらく、国民のほとんどが卑怯を嫌うからだろう。

 少ない滞在期間で、ルルはこの国がとても好きになった。初日はどうなる事かと身構えたが、今はむしろ、対戦を快く受け入れられる。彼らは真正面から掛かってくるから楽しいのだ。それに、人の距離が近くて暖かい。

 ベリルは彼の穏やかな声に、嬉しそうにした。母国を褒められたのだから当然だろう。


「やっぱ、この国も出て行くんだよな」

『? うん、そうだね』

「……寂しくないか?」


 ルルは小さな声にポカンとした顔を向ける。一箇所に留まる以外、ルルと出会うまで考えた事もなかったベリルにとっては、それが大きな不安だった。しかし彼は目をパチクリしたあと、おかしそうに細めた。


『ベリルは……寂しいって感情、どこから来ると、思う?』

「え? そりゃあ、別れとかだろ」

『僕は、そう思わないの』

「じゃあどこから来るんだ?」

『思い出の足りなさ』


 ベリルは返ってきたたった一言に、キョトンとした。しかしいまいちピンとは来ずに首をかしげる。

 2人の傍に小鳥が寄って来た。ルルの濡れた肩に羽を休め、彼は指で止まり木を作る。美しい声を鳴らすクチバシにキスをしながら答えた。


『僕の育て親は、死んでしまったんだ。でも1人で旅をして、分かった。寂しいはね、思い出が足りないと、来る感情だって』


 記憶が見せる名残惜しい寂しさを消せるのは、他でも無い記憶が築き上げる思い出だけ。それは影の様に飲み込もうとする寂しさを、まるで太陽のひだまりの様に追い払ってくれる。

 だからルルは、寂しいと思ってもすぐ暖かな気持ちになるのだと言った。そんな寂しい感情だけでは、足は止まらない。思い出がいつまでも背中を押してくれる。

 ベリルはその言葉にふと父親を重ねた。


「……俺の親父さ、仕事が生き甲斐ってやつでさ」


 母は自分を産んですぐ死に、男で一つで育てられた。破天荒で、大人とは思えないほど自由だった父。どれだけ世間に見限られようと、彼は毎日笑顔を見せた。

 そんな父を持った事に哀れむ輩がいたが、ベリルの耳はそれを風の様に受け流す。振り返らない背中が誰よりも輝いていたから。


「死ぬ直前まで、からくり弄りしてたんだぜ?」


 最期に父は、息子の作った夜食をまるで初めて作った物の様に、美味そうに食べた。そして楽しそうに作品を手掛けた翌日、眠る様に穏やかにこの世を去った。


「俺、涙が出なかったんだ。悲しかったのに、全然泣けなかった。むしろ、絶対親父を超えてから死んでやるって思ったんだ」


 思い出と共に溢れてくるのは涙ではなく、楽しかったという感情。

 ポチャンと、湯に雫が落ちた音がした。ルルはそっとベリルの頬を撫でる。彼は涙を流しながら、嬉しそうに笑っている。


「へへ、悲しくないのに、不思議だな」


 何故悲しくなかったのか、何故寂しくないのか、今理由が分かった。彼が遺したものはどんな大金や名誉よりも膨大なものだと、やっと実感できた。

 ベリルは涙を拭い、晴れ晴れとした表情をした。徐々に希望が湧いてくる。


「なあ、兄弟って知ってるか?」

『本で、読んだよ』

「……ならないか? 俺と」


 ルルは再び閉じていた目を驚いて開き、ベリルを見上げた。彼は微笑んで目を合わせている。

 血の繋がりもなく、もちろん友達だ。しかしベリルは、その関係に留まるにはもどかしいと感じたのだ。僅かな沈黙のあと、小さく頭に声が響く。


『……僕、旅、続けるよ?』

「止めないさ。兄弟って、友達みたいな家族だと思ってる。お前とさ、そうなりたいんだ。もちろん、育て親の人とは別途でな。敵いそうにない」


 ベリルの笑った声が消えたあと、また静まり返った。今度の沈黙は長い。


『じゃあベリルの事、お兄ちゃん……って、呼んだ方が、いいのかな?』


 ベリルはまさかの返しに思わずポカンとし、吹き出す。悩んでいた理由がまさか、呼び方だなんて思っていなかった。あっさりすぎる承諾に、目に涙を溜めて笑う。


「はははっ今までどおりでいいぜ。それより、家族になるのはいいんだな」

『うん。ベリルと兄弟なら、とても、楽しそうだから』

「はは、俺もそう思う。よろしくな」

『ん、よろしく』


 それからしばらくルルは上機嫌そうに、今度はベリルの髪を乾かした。

 新しい、どうあっても忘れられない思い出が出来た。ノイスを離れても大丈夫。この地の記憶はもう、旅路を照らしてくれるだろうから。

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