「じゃあ明日な~!」
祭壇広場の出入り口で、アルナイトは元気よくルルへ手を振る。ルルは小さく振り返して見送ると、ベンチに腰を下ろし、カバンから紺色の本を取り出した。
宿に帰ってから書いてもいいのだが、記憶が新鮮なうちに、大まかにでも記しておきたい。指先や足の感覚だけだから、何か別の刺激があれば簡単に上書きされてしまうのだ。
アルナイトは普段から活動的で、よく探索をするが、あの湖は初めて見たようだ。しかし頭の隅に刻まれた石板が隠すものだとは思えない。わざわざ【ルルの石】を使ってまでなのだから、人の目に触れてはいけない物のはずだ。
ルルは元のように砂の下に隠した石板に、仮面越しで視線を向ける。
(それは単に人を、守るためか……それとも人から、守るためか)
例えば自分だったらどうして隠すだろうか、と尋ねてその二つが濃く浮上する。もっと奥に、隠すべき何かがある。だがそれは知るべきものなのか。
(無知はいけないけど、知りすぎるのも、良くはない)
しかし守るべきものならば、知っておかなければならない。知らない物を守るなんてできないのだから。
ルルは本を閉じ、ガラスペンと一緒にカバンにしまう。ベンチから腰を上げ、そのまま祭壇広場を出た。
しばらくまっすぐ家路を辿っていたルルの足が、迷うように止まる。そしてすぐ別方向へ向かって歩き出した。辿り着いたのは店が並ぶ賑やかな通り。ルルが潜った扉は、ファルベが営む服屋、ピンクローズだった。
今日まで、置いてもらった商品の売れ行きや評判など、一切気にかけていなかった。そう思い出し、少し顔を覗かせる。お客は今居ないようで、ファルベが商品を整頓させているところだった。
ドアベルが可愛らしい鈴の音で、お客が来た事を主人に伝える。ファルベはルルが来たのに気付き、優しい微笑みを浮かべた。
『こんにちは』
「いらっしゃい。来てくれたのか」
『商品を、見に来たの』
その言葉にファルベはぐっと表情を固める。ルルは漂う空気が柔らかなものから緊張へ変化した事に、不思議そうに首をかしげた。ファルベは見える左目を申し訳なさそうに歪める。
「その事で、少し話がしたいんだ。座ってくれ」
声に強張りを感じる。何か問題があっただろうか? ファルべに迷惑がかかっていたら申し訳ない。そんな事を思いながら、ルルは商品を並べた小さなテーブルを挟んで座る。気配で数種類が売れているのが分かった。
仮面越しにチラリとファルベの気配を見上げる。きゅっと唇を結んだファルベは、テーブルにぶつかりそうに深く頭を下げた。気配の影の動きに、ルルは目をパチクリさせた。
「すまない」
『……え?』
「実は今朝、とある商人が来たんだ。その時、この商品を見て……すぐにオリクトの民の髪が材料だとバレてしまって」
『もしかして、アヴィダンという人?』
「あぁ、そう名乗った」
ルルは「そう」と頭の中に呟くと、緩く握った手を、考えるように口元に当てる。そして手前にあった商品の一つを、試しに手に取った。
平たい円を描いた石を繋げた、少し短いネックレス。もうルルから切り離されたこれは、ただの物体。香りも、他の鉱石アクセサリーと特別違いはない。それなのに、オリクトの民が産んだものだとすぐ分かるものなのだろうか。それも髪の毛なんていうピンポイントで。
(ただの商人では、ない)
そこまで目利きとなるには、オリクトの民が材料となった商品をどれほど見る必要があっただろう。ファルベの様子からして、無事ではあるが何か問題があったのが分かる。
「アヴィダンは、良くない人間だ。私の目が無いと気付き、もう片方を売れと言ってきた。そんな人間に、ルルの存在を教えてしまって」
ファルべは絡めた自分の両手をギュッと握り、美しいローズクオーツの片目を強く閉じる。彼は優しい性格だ。自分も怖かったろうに、それを退かして心から謝罪の意を感じる。
ルルは顔を上げさせようと、そっとファルベの薄桃色をした頬を撫でる。フードと仮面で守られた顔で唯一見える唇が、少し微笑んでいるような気がした。
『怪我は?』
「あ、いや、私は大丈夫。マリンが守ってくれたんだ。たぶん、尾行もしている」
『そう。怪我がなくて、良かった』
薄青い指が肌を滑り、髪に隠れた右目の側を撫でた。革製の眼帯が目蓋を隠している。ファルベは少し体を強張らせた。
「……すまない」
『どうして、謝るの?』
「私は汚れたものだから。本来なら、貴方が触れてはいけないんだ」
ルルは怯えるように震えた声にキョトンとする。暗い色の唇が、何か言いたげに開かれるが、当然音は無い。
『そう思わせたのは、誰?』
「え?」
この世界は美しさを重視する。美しい世界の中で懸命に生きる人々は、皆美しい。なのに、顔も知らない、いつ出来たかも分からない基準に、いつの間にか踊らされている。
傷があれば醜い。体が欠けていれば醜い。混血は醜い。その人物自体を見ていないくせに、そんなふざけた事がよく言える。
ルルは世界を愛している。時折り深く傷を付ける残酷さを見せても、世界が愛しい。しかし、彼らに美しくないと言わせる世界は、美しいとも愛しいとも思えない。
『僕の、大切な家族は、人を……殺した事がある』
「?!」
『その人をみんな、悪魔と罵った。でも僕は、その手が優しくて、あったかいのを、知っている。貴方もそうだ。マリンは貴方を、醜いと、罵るの?』
「……いいや」
初めての対面は、檻越しだった。暴れたせいで血が出て、傷だらけで、泥まみれ。それなのに彼は一目惚れをしたと言った。
『自分を、傷付ける行為は、大事な人も、傷付ける。マリンを、侮辱されたら、貴方も胸が、痛いでしょ?』
目が奪われて欠陥品となり、自分を殺したくなった。それをマリンは必死に抱きしめて止めた。あの時、彼も傷付いていたのだろうか。
ルルは唇を、怒ったように少しムッとさせる。
『僕もヤダよ。だって、ファルベが大好きだから。とても優しい貴方が、大好き』
出会って、まだ数日だ。しかしそう思わせる魅力がファルベにはある。
ファルベはまだ見える視界が歪むのが分かった。オリクトの民である故の性なのか、どうしても引け目を感じていた。しかし愛してくれる人がいる。ならば、その愛された自分を自分が許す必要があると、やっと理解できた。
ピンクの瞳から溢れた雫を、薄青い指が攫う。そうして離れた手を、ファルベはそっと包んだ。
「ありがとうルル。もう自分を醜いなんて、傷物なんて言わない」
『うん』
「けれど……危険な事は確かなんだ。私も、世界の王がではなく、君が傷付いてしまうのが怖い」
ルルの手を包む大きな両手が、その時を想像してか小さく震えている。宥めるように、彼のもう片方の手がそっと添えられた。小さな手でも、不思議な安心感がある。
『僕は愛された。だから誰にも、僕を傷付けさせない』
ファルべは頭に強く響く言葉にキョトンとし、思わず可笑しそうに笑った。
彼は大切に想ってくれた人に応えるため、自分を愛するのだ。なんて自信のある言葉なのだろう。けれど不思議と傲慢とも虚勢だとも感じない。それだけ王としてではなく、ルルとして愛されたのだろう。素直すぎる姿勢が羨ましく、真に美しいと思う。
「何か私にできる事があったら、言ってほしい。協力する」
『ありがとう。そうだ、これ』
ルルは解放された手で、ぎゅっと拳を作る。開かれたそこには、ファルベの目と心臓にもなっているローズクオーツと、マリンの名前の由来でもあるアクアマリンが転がった。
驚いているファルベの手を取り、そこに握らせた。
『お守り。マリンが帰ったら、渡して。二人に加護が、ありますように』
ルルはお守りを持たせた手に、願いを込めて口付けする。そして席を立ち、ファルベに見送られながら店を出た。
進む足の先はまだ家路からは外れ、宛もなく彷徨っている。このまま帰るのは、なんだか釈然としない。かと言って行き先も決まらない。
(何故アヴィダンは、ファルベの片目が無いと、判断したんだろう)
髪で隠しても、バレるものなのだろうか? これに関してはあとで、客観的視点を知る必要がある。
(アヴィダン)
どんな人間だろう。聞いた限り、いい人間ではない。だが自分で知っておきたい。きっと無茶だと言われるだろうが、それでも少し挨拶したい。あんな優しい人を傷付けられて、怒らないわけがないのだ。
(相手は商人。あそこには置かなかった、別の商品を、見せる? でもそれは、相手に情報を、与えすぎる)
相手に渡す情報は、あくまでも餌。裏ではこちらが優位に立ち続けなければいけない。
迷いに途方のない散歩をしていた足が、思い立ったように止まる。そうだ、忘れていた。この手はわざわざ髪を切らなくたって、商品を生み出せるじゃないか。そうと決まれば、最高峰の商品を手土産に会いに行こう。
ご愛読ありがとうございます!
ファルベの店名に引っ張られ、今の今まで彼の目をピンクローズにしてしまっている事に気づきました……。本来はローズクオーツです。見つけ次第訂正していくので、すみません……!
ルルは自分を愛しています。作者にとってその感覚は、あまりにも綺麗です。ルルの人生を書いてきたからこそ、このセリフが正しいと分かるのですが、どうにも羨ましい。
吸いも甘いも噛み締める。そんなのはとても難しく、無意識に避けてしまいますね。実際にルルと対面でお喋りして、少しポジティブになりたいものです。
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