私は優馬の住むアパートに着いた。でも、そこから動き出せない。いまさらどんな顔をして優馬に会えというのか……。
今の私は、優馬には見えない。
ここに居るけど、……そこにいない。目には映らない存在。それが今の、……私。
でも。あの神様は言った。
言葉は想いを届け、それを人に伝える。それは人にしか出来ないこと。だから人間はすごいんだって。
今の私は人間ですか?
まだ人の心を持っていますか?
きっとあの神様は答えてくれない。だって…いじわるだから。だからそれを、自分で決める!
私は人間だ…! 目に映らなくても、声が届かなくても、触れられなくたって、それでも私は人間なんだ! 私がそう信じている限り、私は人であり続ける! 奇跡は信じないと起こらない。想いは必ず届く! そう信じて! 私は彼の名前を呼ぶ。
この想いを……ただ……届けるために。
ドア越しに、彼がいるような気がした。気がするだけで。本当は居ないのかもしれない。でも。それでも良いから……どうか私のひとりごとを……聞いてほしい。
優馬、私と初めて出会ったときのこと、…覚えてる?
あなたのことだから……きっと覚えてないよね。
だって。
あなたはいつも鈍感でおっちょこちょい。大切なことはすぐに忘れてしまう。
あれだけ記念日の日だけは忘れないでねって、私。さんざん口を酸っぱくして言ったのに、それでもあなたは忘れてた。
今でもそのこと、…少し根に持ってるんだからね!
でも。なぜかなぁ。どうしてもあなたのことが憎めない。
……ごめんね。私、あなたを置いて先に死んじゃった。
私がもっと賢ければ……こんな事にはならなかったはずなのに。
私、バカだから! 優馬が呼び止める声。本当は聞こえてたんだ。
でも、それを無視した。
私は優馬ではなく……あのあ婆さんを助けることを選んだの……。
でも。今はすごく、後悔してる。
私が選んだ選択は、間違いじゃなかったはずなのに…! それでも私は、後悔してる。
私、汚いよね…! 本当に汚いよ……。
……あの時。本当は助けなきゃよかったんじゃないかってッ! 今はそればかり考えてしまう!
……私が選んだ選択は、……まちがい? だったのかなぁ。
私はその声が聞こえていた。
だけど聞こえないふりをした。
周りは動こうとしなかった。
でも私は動いた。
そこが多分。運命の分かれ道。
それでも私は選んだ。
自分の意志で、この選択が正しいと信じて。
そこに後悔がないといえば、嘘になる。
あの楽しかった日々は、もう私の元には帰ってこない。それを自分の手で壊してしまったから。
今は冷たい世界が私を包み込んでいる。
夜の世界はとても冷たい。この体に体温があれば。きっと私は、この寒さに凍えてしまうだろう。
だから死者は、人の温もりを求めてしまうのだ。
……死者はさびしがり屋だから……。だから私もいつまでもここに留まり続けている。
彼はもう新しい人生を踏み出してしまった。そこに私の姿はない。でも彼は私がいなくても、前を向いて生きて行くだろう。
彼は決して弱い人じゃない。私が好きになった彼は、そういう人だから……。
……私も、前を向かなくてはならない……。
彼のために? ……違う…。自分のために! 私は前を向かなくてはならないのだ。それが今の私に出来ること。それが私、立花みゆきが選ぶ、人生最後の選択。この選択に後悔はない。今は少しだけ胸を張ろう。
……私が私らしくいられた事に。
誰かに笑われてもいい。
馬鹿だと言われてもいい。
それでも私は一生懸命生きたんだ!!
私の人生は確かに立派なものとは呼べないかもしれない。……だけど生きた。強く、生きたんだ!
それを誰かに否定されたくない。私は私らしく……生きたんだから!
最後の言葉は送らない。その言葉は永遠の別れを告げるものだから。
なら普段通りの、私の言葉を贈ろう。あの楽しかった日々を思い出しながら……私はドアの前で……彼に手を振った。
…………じゃあ……………またね…………。
強い光が私を包み込む、すべてが解かされて行くような。心も体もやがて白く、雪のように消えてゆく。
降り積もった雪が、太陽の光に当たって少しずつ溶けて行くように、私の凍った時間も、心までも…ゆっくり解きほぐされて行く。
思い出が一つ消えるたびに、心が軽く、そしてまた一つ消えるたびに、…何かを失った。そして徐々に……私の中が空っぽになって行く。
こうして私はすべてを忘れ……やがて生まれ変わるのだ。
その時、ドアが突然、開いた。そして目の前には、私の愛しい人が……私を強く抱きしめる。
見えない私を、触れられない私を、彼は生きていた頃と同じように、私を強く抱きしめる。……こんな幸せなこと……あっていいのかなぁ……。
…………本当に…………奇跡だね…………。
あの神様は本当にいじわるだ。最後に……こんな奇跡を見せてくれるなんて……。
でも。今はその奇跡に感謝します。
こんな私を……最後に救ってくれて……ありがとう……。
「ごめんね。…私。本当はずっとあなたと一緒に生きていたかった! 優馬と結婚して、そして子供を産んで、お互い歳をとって、あの時はいっぱい喧嘩もしたけど、今はいい思い出だね、なんて言いながら。ずっとあなた一緒に笑っていたかった! ……ごめんね、…ごめんなさい。……私は…」
本当はこんなことを伝えたいわけじゃないのに……。私の口からは、そんな言葉しか出てこなかった。
優馬は頷きながら、最後までそれを聞いてくれる。
そして。
「みゆき、オレたちが初めて出会った時のこと……覚えてるか。みゆきは何故かひとり、公園のベンチに座って泣いてたんだ。最初は、そんなみゆきを見て、声を掛けようかすごく迷った。だって。オレ何かが声を掛けたところで、正直迷惑だと思ったし、オレもそこまで出来た人間じゃないし。でも、やっぱり何処か放って置けなくて、気付いたらみゆきに声を掛けてた。でも今は、声を掛けて良かったと思ってる。オレがあの時、みゆきに声を掛けていなかったら、オレたちは付き合うこともなかった! そしたら、みゆきとの思い出もなかった。……今じゃ考えられないよなぁ。最初は、お互い何処かぎこちなくて、会話なんてろくに出来なかったのに。いつの間にか、それが当たり前のように出来るようになってて。お互い何も言わなくても相手の考えがわかってさぁ。オレたち通じ合ってたんだよ! ………本当は……ずっと近くに居たんだろ……? 何となく、みゆきが側にいるような気がして。そんなことあるはずないって! 自分にそう言い聞かせてた。考えすぎだって。だけど……やっぱりみゆきは近くに居たんだな。ごめんな。今まで気付いてやれなくて。……沢山、さみしい思いをしただろ? 分かるんだ! みゆきのことなら、何でも。みゆきはいたずら好きで、負けず嫌いなところもあって、すぐ拗ねたりもするけど。本当は誰よりも優しくて。……そんな。そんなみゆきが、大好きだったッ!」
「……ばーか。そんなの知ってる」
「みゆき、いかな、」
みゆきは人差し指で優馬の口を抑える。
「そこから先の言葉は、言っちゃだめ。……優馬、あなたは今を生きてる。私は優馬にとって、もう過去の女。……忘れて……」
「忘れれるわけーー!」
「…優馬っ! ……最後まで私を困らせないで………」
「……っッ………」
「……優馬、…私に沢山の思い出をくれて、ありがとう。優馬と過ごした日々は、私にとって一番の宝物だよ! もう他に何もいらない。十分だよ。……その愛を、私じゃない次の人にも分けてあげて、そしてその人と幸せになるの。私は優馬が幸せになることを、誰よりも一番に願ってるんだから!」
「…あぁ、…あぁ。分かったよ。それがみゆきの願いなら、……オレはその願いを、一生かけて叶えてみせる」
「うん」
ふたりは互いを見つめ合い、そして同時に、手を伸ばした。
「「最後の別れの言葉は送らない。その言葉は永遠の別れを告げるものだから。私達が贈る言葉は、別れの言葉ではなく、いつもと変わらない笑顔で、互いに手を振り、またいつか会うその日のために。その約束の言葉を交わす」」
「じゃあ、またね」
「ああ、またな」
この別れは、永遠じゃない。オレたちはまた、いつか何処かで会えるさ。
……互いに思う気持ちがあれば……。
「「いずれ!!」」
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