di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~

『記憶の保存』と『肉体の再生』で死者は蘇り、仕組まれた出逢いが運命の輪環を廻す
月ノ瀬 静流
月ノ瀬 静流

5.比翼連理の夢

公開日時: 2022年8月12日(金) 22:22
文字数:5,882


 天空の間の扉が、力任せに押し開けられた。


 重厚なはずの扉は、金箔の縁取りを煌めかせながら、まるでカーテンのように軽々と吹き飛ばされる。


 次の瞬間、ストレッチャーに載せられた硝子ケースが、勢いよく部屋になだれ込んできた。


 それを押しているのは、血相を変えたリュイセンひとり。


 ルイフォンは、ひと呼吸、遅れて入ってくる。――ただでさえ、リュイセンのほうが圧倒的に足が速い上に、リュイセンに斬られた腹の傷が、まだ治りきっていなかったためである。


 そのまま〈ムスカ〉のところまで走り抜けようとしたリュイセンだが、ストレッチャーが突如、がくんと妙な動きをした。雲上を示す織りだとかいう、毛足の長い絨毯に車輪を取られたのだ。


 硝子ケースの中で培養液が激しく揺れ、蓋の内側に水しぶきを打ち付ける。あわやストレッチャーから落ちそうに、というところで、リュイセンが体を張って硝子ケースを守った。


「リュイセン!」


 後ろから来たルイフォンが叫ぶ。


 リュイセンは弟分の意図を即座に解し、ふたりで同時に硝子ケースを持ち上げた。扱いに気をつけながらも、全速力で〈ムスカ〉のもとへと運ぶ。


 そして、〈ムスカ〉は――。




「ヘイシャオ!」




 彼を呼んだのは、エルファンか。それとも、リュイセンか。


 一族特有の声質は、口元を見なければ判別できないほどに、よく似ている。しかし、もはや彼には、重いまぶたを開けるだけの力は残っていなかった。


 この命の灯火ともしびは、今、消える。


 周りの気配から、リュイセンたちが到着したのが分かった。


 どうやら自分は、『ミンウェイ』が来るまで持ちこたえたようだ。リュイセンのせっかくの心遣い、無下にして逝くのも後味が悪い。間に合ってよかった。


 安堵に意識を手放そうとした瞬間、自分がなんの反応も示さなければ、『ミンウェイ』が臨終に立ち会えたことを誰も知り得ないのだと気づき、彼は自嘲する。


「ヘイシャオ!」


 歓喜の声が上がった。彼の頬が動いたのが分かったのだろう。


 ああ、この声色はリュイセンだ。


 ありがとう。これで私は……。


「ヘイシャオ、大変なんだ!」


 彼の思考を遮るように、リュイセンの声が響いた。


「『彼女』が起きている! けど、苦しそうなんだ! 助けてくれ!」


 耳朶を打つ、リュイセンの必死の叫び。


 何を言われたのか、彼は一瞬、理解できなかった。


 ――『ミンウェイ』が、目覚めた……?


 そんな馬鹿な、と彼は否定する。


 あの硝子ケースは、肉体を育むための揺り籠。培養液の羊水に包まれ、中の生命は胎児のように昏々こんこんと眠り続けるようにできている。


 凍結処理の施されていない『ミンウェイ』の肉体は眠ったまま、時の流れと共に成長し、老いて死を迎え、やがて朽ちていくのだ。


 それが、オリジナルのヘイシャオが望んだこと。


 何故なら、ケース内部の環境を維持するための電源設備が、特注の大容量のものに付け替えられていたから。あの硝子ケースは、彼女が天寿をまっとうするまで稼働し続けるように設計され、古びた研究室に残されていた。誰からも忘れ去られたような場所に、密やかに。


 外部からの電力供給に頼らずに、微生物を利用した培養液を一定の状態に保つ。そうすることで、硝子ケース単体で――完成された世界で、ただ時を重ねる。そんな仕組みを作り上げ、ヘイシャオはこの世を去った。


 勿論、硝子ケースの中から出せば、彼女は目覚めるだろう。彼が、ホンシュアに目覚めさせられたのと同じように。


 しかし、すぐに記憶を書き込まれた彼とは違い、ただ肉体だけが成長した彼女が外に出されたとき、彼女の精神は胎児のままだ。だから、彼女を外に出そうなどという考えは、彼の心の片隅にも浮かばなかった。


 それが……。


『ミンウェイ』が起きて……苦しんでいる――!?


 彼の双眸が、かっと見開かれた。


 ――ミンウェイ!


 目の前に『ミンウェイ』の硝子ケースがあった。裸体を隠す長い髪を振り乱し、苦しげに身をよじりながら、閉じられたケースの中で培養液を掻き分けている。




 彼女が求めているのは、彼だ。




 封じられた空間の中から、彼に向かって懸命に手を伸ばしている。


 肌が青白く見えるのは、硝子越しだから、培養液を通してだから、ではない。彼女の顔には、明らかに死相が現れている。


 ――ミンウェイ!?


 まるで力の入らなかったはずの彼の腕が動く。彼はソファーに横たわったまま、透明なケースに手を触れる。


 硬質な硝子の感触。


 彼女の柔らかな手は、その向こう。


 すぐそこに彼女は居るのに、ふたりの世界は隔てられている。


 ――彼女に、触れたい……。


 彼の目尻から、熱い涙がすっと流れ落ちた。


 そのときだった。


「〈ムスカ〉……! 『彼女』のケースを開けてもいいですか!」


 叫んだのは、想像もしていなかった人物――メイシア。


 質問であるはずなのに、彼女の言葉は断定だった。


「私には、ホンシュアの記憶があります! このケースの開け方は、分かります!」


 彼が息を呑むのと、メイシアが長い黒絹の髪を翻したのとは、ほぼ同時だった。


 硝子ケースの開閉には、それなりに複雑な手順が必要だ。しかし、メイシアの指先は迷うことなく、高速でパネルを操作した。まるでホンシュアに乗り移られたかのように。


 驚愕する彼が瞬きをひとつしている間に、ケース内外の気圧差による鋭い音が上がり、蓋が開いた。培養液の飛沫が上がり、太陽をかたどるという豪奢なシャンデリアの光を乱反射させる。


「あな、た……!」


 あえぐ声で、彼女が叫んだ。


 弱々しい手が、くうをもがく。


 硝子ケースの縁に指をかけ、彼女は起き上がろうとする。しかし、すぐに培養液の中へと沈んだ。自分の体を支えるだけの力がないのだ。


 それを見たリュイセンが「失礼します!」と断りを入れ、裸体の彼女から目を背けながら抱き上げた。ソファーのそばに、そっと下ろし、着ていた上着を彼女に掛ける。


 そして――。


 彼女の手が、彼へと伸ばされる。


 彼の手もまた、引き寄せられるように彼女へと向かう。


 掌が触れ合い、指先が絡み合う。


 彼は、残っていたすべての力を使って、彼女を抱き寄せた。


 柔らかで温かな彼女の体が、腕の中に収まる。ずっと空虚だった胸が満たされていく。


 彼女の歓喜の溜め息が、彼の頬を優しく撫でた。


「やっと……、あなたに……」


「…………っ」


 彼の顔が、切なげに揺れた。


 彼の記憶は、ホンシュアによって、オリジナルのヘイシャオのものに上書きされてしまった。だから彼は、彼女と共に、この硝子ケースで過ごした時間を忘れてしまっている。


「そんな顔……しないで。……私、ちゃんと……分かっている。……全部」


「!?」


 眉を寄せた彼に、彼女がにこりと笑いかける。


 切れ長の目尻に、涙を浮かべながら。


創造主ヘイシャオが……、私たちが何者であるか……言っていたの、聞いている。〈天使ホンシュア〉が……あなたの記憶……奪ったのも……知っている。大丈夫……、安心して……」


 彼女の言葉は、どこか舌足らずだった。苦しそうであるのを差し引いても、たどたどしさを感じる。


 まるで、幼い子供のような。けれど、言い回しは、どこか小難しく……?


 そう思い、彼は直感的に悟った。


 培養液の中の生命は深い眠りに落ちていて、外界のことは何も知覚できないものと考えていたが、そうではないのだ。意識を深層に沈めながらも、好奇心いっぱいに広い世界を求めていたのだ。


 だから、そばにいたであろう、オリジナルのヘイシャオから言葉を知り、知識を得た。――彼と彼女ならば、おそらく。きっと、そうしたはずだ……。


「そうか……。なら、……教えてほしい。……私たちは『何』なのだ?」


 それは長い間、疑問だったこと。


 オリジナルのヘイシャオは何故、『成長する体』の『ふたり』をこの世に遺して、死んだのか。


 凍結処理で時を止め、彼と彼女が共にる幸せな刹那を、永遠に留めておこうとしたのならば理解できる。しかし、老いて朽ちていき、やがて消えていくだけの体を残すなど、まったくの無意味だ。


 腕の中の彼女が、ふわりと顔を上げた。今まで培養液に浸かっていた髪から、きらきらと水滴がこぼれ落ちる。まるで、彼女の笑顔を彩るかのように。


「私たちは……『比翼連理の夢』……」


「『比翼連理の夢』……!?」


 謎めいた彼女の言葉を、彼は繰り返した。


創造主ヘイシャオが……そう呼んでいた。私たちは、創造主ヘイシャオの夢……。創造主ヘイシャオが、焦がれた……理想」


「オリジナルの理想!?」


 訝しげに顔をしかめた彼に、彼女は続ける。


創造主ヘイシャオは……自分の憧れを……形にしたかった。……死ぬ前に、残したかった……。……だから、作った。……それが、私たち……」


「…………!?」


「私たちは……創造主ヘイシャオの願い……。……創造主ヘイシャオは……私たちに、託した。……叶えたかった夢を」


「オリジナルが……叶えたかった……夢」


 彼の心臓が早鐘を打った。


 それは、死の淵にいる彼が、より『死』に近づいているからか、それとも、彼の『生』の真実へと近づいているからか――。


創造主ヘイシャオは、言っていた……」




 俺は、夢物語の願いを叶える。


 君と共に、歳を取りたい。


 君のそばで、永遠とわりたい。


 君と刹那を積み上げ、刹那を繋ぎ合わせ、刹那を連ね続け……。


 刹那を重ねていけば、それは、いつかきっと、永遠とわになる。




「――!」


 彼の瞳が、いっぱいに見開かれた。


 やっと、理解できた。


 オリジナルが何故、『成長する体』の『ふたり』をこの世に遺したのか――。


「そうだ……。私は……ミンウェイと共に生きたかった……、ただ、それだけだ……」


 彼は、呆然と呟く。


 ささやかな願いだった。


 共に時を過ごし、共に歳を重ねて……、それは尊く、儚い願いだった。


 だから、オリジナルは夢見たのだ。




 刹那の時を止めて永遠にするのではなく、刹那を続けて永遠になりたいと――。




「……そう。……創造主ヘイシャオは、ミンウェイと共に生きて……」


 彼女の口元が愛しげにほころび、彼を見つめる目元が切なげに細められた。


「共に死にたかった……」


「……え……?」


 ぞわりと、悪寒が走る。


 無意識の内に、彼は強く彼女を抱きしめていた。――その手が、小刻みに震えている。


「……顕界げんかいでも、幽界でも……、片時も離れることなく……共にる。……それが、創造主ヘイシャオの理想……夢」


「っ!」


 ひくりと胸が跳ね、鋭い音を立てて息を吸い込む。それを吐き出しながら、彼は、かすれた声で呟く。


「それは……どういう……」


 尋ねながらも、悟っていた。だから、その問いは、決定的な事実を突きつけられるための前段階に過ぎなかった。


 決して目覚めないはずの彼女が、苦しさのあまりに培養液の中で目を開けた。


 それは、すなわち――。


創造主ヘイシャオは……、私たちが、決して離れたりしないように……、私たち『ふたり』の命を、『ひとつ』にした……魔法……みたいな……技術で。……どちらかが、置き去りに、ならないように……。自分とミンウェイのように……、『死』によって、分かたれたり……しないように」


「……つまり……、私が……死ねば……、君も……」


「うん」


 全身をおののかせる彼に、彼女は無邪気な笑顔で頷いた。


「私たちは……どこまでも一緒。……決して離れない。……私たちは……〈悪魔〉の創造主ヘイシャオが作った……『比翼連理の夢』……だから」


「……『悪魔』……め……!」


 彼は、唇を噛みしめる。


 彼の選択は、決して間違っていなかったはずだ。


 最高の終幕フィナーレだったはずだ。


 けれど、彼女の命が懸かっていたのなら――……。


「……あなた。……あなたは、きっと……、今の状況に……憤ると、思っていた。……その通り、だった。……でも、私は……今、この刹那を……奇跡だと、思っている……」


 不可思議な顔で、彼女は笑う。


 培養液で濡れた髪が、なまめく色香を漂わせる。なのに、彼女の瞳は幼子のようで……、どこまでも純粋に、澄み渡っていて――。


「何を……言っているんだ!? 私が、君を……殺してしまう……! 私は……誰よりも、……君の『生』を願っていたはずなのに……!」


 彼の悲痛な叫びに、彼女は、ふわりと微笑んだ。


「……ねぇ、あなた。……安全な培養液の中で、眠り続けることは……本当に『生きている』……と思う?」


「!?」


創造主ヘイシャオの願いは……老いるまで、共に生き……共に死ぬ、ことだった。……でも、私の願いは……違う」


 あどけない口調であるにも関わらず、大人びた魅惑の響きで彼女は告げる。


「私は……眠りの中で……、一生を終えたくは……ない……! たとえ刹那でも……、あなたと、ちゃんと……『生きたい』!」


 彼を叱咤するような美声は、魔性を帯びていた。彼女の言葉に抗うことを忘れ、彼は声を失う。


「培養液の中で漂いながら……、時々、肌が触れるだけ、は……違う……! こうして……あなたと、言葉を交わし……、意思を持って……抱きしめたかった……ずっと!」


 苦しげでありながらも、懸命な声。知れず、彼の魂は震え、魅入られる。


「だから、今……この刹那! ……私は……『生きている』……!」


「……っ」


「やっと、言える……。やっと、伝えられる……。やっと、私の願い……叶う!」


 土気色の彼女の唇が、あでやかに咲き誇った。大輪の花のように、この上もなく美しく。


「愛している……あなたを……!」


 涙をたたえた彼女の瞳が、彼を捕らえた。


 その瞬間、まるで見えない糸に導かれたかのように、彼は彼女に口づけた。


 彼女と過ごした記憶はなくとも、彼もまた、ずっと彼女を愛していたのだと魂がっていた。


 体温を失いつつある、ふたつの冷たい唇が重なり、熱い吐息が生まれる。


『生きている』と、感じる。




 創造主たる〈悪魔〉が遺した眠りの魔法は、本来なら解けないはずの呪術だった。


 だから――。


 この刹那は、奇跡。




「愛している」


 彼は、彼女に囁く。


 この『生』が良いものであったとは思わない。――自分にとっても、他者にとっても。


 けれども……。


「ありがとう」


 この『生』で出会った、すべての人々に感謝を――。




 そして――。




「ミンウェイ……」


 不意に、〈ムスカ〉がミンウェイへと振り返った。


 彼は、満ち足りたような、穏やかな顔をしていた。


 真っ赤な目をしていたミンウェイは、うまく返事ができず、しゃくりあげる。


「幸せにおなり……」


ムスカ〉が微笑む。


 その隣で、『彼女』も微笑む。


 ふたりで――とても、幸せそうに。


「――、――っ!」


 ミンウェイは奥歯を噛み締め、叫びだしそうになるのを必死にこらえた。


『はい』と答えるべきなのに、言葉が出なかった。代わりに、涙があふれてきた。


 ふたりの姿に、両親の墓標が重なる。


 仲睦まじく寄り添う、あの海を臨む丘の潮騒が聞こえる……。 




『ミンウェイ、幸せにおなり……』




 耳の中で反響する、〈ムスカ〉の優しい低音。


 寄せて返す波のような。揺り籠のような……。






 そして、ふたりは――。


 すうっと潮が引いていくように、静かに息を引き取った。



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