di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~

『記憶の保存』と『肉体の再生』で死者は蘇り、仕組まれた出逢いが運命の輪環を廻す
月ノ瀬 静流
月ノ瀬 静流

5.分水嶺の流路-2

公開日時: 2021年1月16日(土) 22:22
文字数:5,415

 ――ミンウェイは、実の父であるヘイシャオ叔父を愛していたんだ。


 ミンウェイの耳の奥で、リュイセンの声が木霊こだまする。


「なっ……!」


 あまりの言葉に、ミンウェイはとっさに声が出なかった。


 大きく吸い込んだ息が全身を巡るほどに時が過ぎたあと、彼女はやっと唇をわななかせ、拳を震わせた。


「変なことを言わないで! 私はっ、私はお父様に酷い目にっ……!」


 あらん限りの声を張り上げ、ミンウェイは叫んだ。


 その、つもりだった。けれど、ひび割れた声は、いとも簡単に波音に掻き消される。


 たぎるような怒りが湧き上がっているのに、身が凍るような怖気おぞけを覚える。握りしめた掌は真っ白になっているが、それは憤りのあまりに強く握りすぎた結果なのか、血の気が消え失せたからなのかも判別できない。


 そんなミンウェイを見つめながらも、リュイセンは言葉を止めることなく、「ああ、そうだ」と頷いた。


「あの悪魔は、ミンウェイを虐待していた」


 地の底から轟くような低音が、音としてではなく、振動としてミンウェイに伝わってくる。それは、冷静な口調からは感じ取れない、リュイセンの深い憎悪だった。


「奴にとっては、それが『愛』で、自分が盲目的にミンウェイを『愛』する代わりに、ミンウェイにも自分以外を見ることを許さなかった。――物心つく前からそんな環境に置かれれば、ミンウェイにとって叔父上が世界の中心で、世界のすべてにもなるだろう」


 淡々と話すリュイセンに、ミンウェイは本能的な恐怖を覚え、思わず自分の体を掻きいだく。


「憎しみも恨みも恐れも、裏を返せば相手に強く寄せる思いに変わりない。ミンウェイの中にあったものが負の感情だったとしても、ミンウェイは叔父上しか見ていなかった」


 波音が遠のいていく。


 リュイセンの声だけが、響き渡る。


「そして、いくらあの叔父上だって、ミンウェイに辛く当たるばかりじゃなかったはずだ。奴はミンウェイを『愛』していた。優しい瞬間もあっただろう。――そんなとき、ミンウェイは嬉しかったはずだ。何しろ奴は、ミンウェイの世界の中心なんだから……」


 ミンウェイは、心臓を握りつぶされたような感覚を覚えた。


 辛くて、苦しくて、悲しくて。そんな灰色の世界にいても、確かに笑った日もあった。笑いかけてもらった時があった――。


「やめて!」


 つやのあるはずの美声が裏返り、血を吐くように叫ぶ。


 髪を振り乱して首を振るミンウェイに、リュイセンは唇を噛んだ。しかし、口調を変えず、「頼むから、聞いてくれ」と静かに告げる。


「ミンウェイの世界には叔父上が必要だった。……だから、叔父上を亡くしたあと、ミンウェイはそっくりな父上に面影を重ねた」


「だから? それがなんだというの? 確かに、お父様とエルファン伯父様はよく似てらっしゃるわ。おふたりとも、鷹刀の濃い血を引いているんだもの。当然でしょう?」


「……もしも、ミンウェイが叔父上から恐怖しか感じていなかったら、そっくりな父上にも脅えたはずなんだよ……」


 憤慨した様子のミンウェイに、リュイセンは肩を落とす。その拍子に黒髪がさらさらと頬に掛かり、彼は鬱陶しげに払いのけた。


「……悪いな。俺は、ルイフォンみたいに頭が良くない。言葉でうまく説明するのは、無理みたいだ」


 リュイセンは溜め息をつくと、きゅっと口元を結んで顔を上げる。すべきことを、まっすぐに見据える目で、彼はミンウェイを捕らえた。


「俺は理屈をこね、策を巡らせる人間じゃない。自分の感覚を信じ、行動する人間だ。だから、こう言わせてもらう」


「な、何を……?」


 敵意をむき出しにした切れ長の目で、彼女は痛々しいほどに必死に虚勢を張る。


「俺は何年もミンウェイを見続けてきた。俺の直感は絶対に間違えない。――ミンウェイは父上のことが好きだ」


「……」


「でもそれは、父上の後ろに叔父上を見ているからだ。ミンウェイの心は、いまだに死んだ叔父上にある――!」


 低く冷たい言葉のやいばが、ミンウェイを斬り裂く。


 ――けれど、その刃は両刃もろはだった。同時にリュイセン自身の心をも、深くえぐっていた。


「ち、……違う! 私は、お父様なんか大嫌いだったわ!」


 リュイセンの眼差しが切なげで、泣いているように見えた。ミンウェイの心が、ずきりと痛む。けれど彼女は、全身を震わせてその痛みを振り払う。


「リュイセンの言う通り、私はエルファン伯父様が好きよ。だって私をお父様から解放してくださったんだもの。――けど、それは恩人として。私は、ユイラン伯母様のことも大好きなんだから、変な話をしないでちょうだい!」


 叩きつけるような、ミンウェイの声。


 リュイセンが、ひるむ。まるで、本当に平手打ちをくらったみたいに……。


「……すまん」


 深く頭を下げ、彼はそれだけ言った。そして、ミンウェイの視界から消えるように、しゃがみ込む。


 拍子抜けした彼女が首をかしげると、彼の横顔が墓標と向き合っているのが見えた。


 彼は手を合わせるでなく、ただ瞳いっぱいに墓石を映していた。――正確には、そこに刻まれたミンウェイの父、ヘイシャオの名前を。


 潮風が吹き上がり、リュイセンの肩の上で黒髪が舞う。波打つミンウェイの髪も、華やかに踊る。


「リュイセン……」


 呼びかけた声は、風に溶けた。


 ミンウェイは、リュイセンの隣にしゃがむ。


 風が邪魔して会話が通りにくいから――というのは詭弁で、彼の寂しげな背中に罪悪感を覚えたからだ。その証拠に、彼を間近にしても、言うべき言葉が浮かばない。


 午後になったからか、だいぶ波が立ってきたようだ。穏やかな海も、少しずつ様相を変えていく。


「なぁ……、ミンウェイ……――……?」


 波音が崖を打ち、髪に潮風が吹きつけた。


「え……? 今、なんて……?」


 本当は、ミンウェイの耳には聞こえていた。ただ、その意味が分からなかっただけだ。


「だから……、俺じゃ駄目か?」


「っ!」


 聞き返してはいけなかった。


 そのまま、何も聞こえなかったふりをすべきだった。愚かなことをしてしまった。――ミンウェイは後悔するが、もう遅い。


 吐息の掛かる距離で、リュイセンはミンウェイを見つめている。逃げ場は、ない。


「リュイセン……」


 途方に暮れたように、彼女は彼の名を呟く。


「ミンウェイが、誰を愛していてもいい。俺は、誰かの身代わりでいい。けど俺は、今のミンウェイをひとりにしておきたくない」


「私は平気……」


 ミンウェイは反射的に声を漏らすが、それは畳み掛けるようなリュイセンの言葉に打ち消された。


「今のミンウェイは凄く不安定だ。ふらふらと何処かに行ってしまいそうだ。――そんなの、俺は嫌だ。ミンウェイが居るべきところは、鷹刀だ」


「私が〈ムスカ〉のところに行ってしまうと思っているの?」


「……鷹刀から、出ていくことを危惧している」


 それは決して認めないと、威圧すら感じる声で、リュイセンは、はっきりと告げた。


「だから、俺はミンウェイが何処にも行かないように縛りたい」


「縛る……?」


 想像もしていなかった不穏な言葉に、ミンウェイは眉を寄せる。しかしリュイセンは、彼女のあからさまな警戒の表情にも構わず、「ああ」と頷いた。


 そして、『神速の双刀使い』の異名にふさわしい鋭い眼差しをもって、ミンウェイの心に斬り込む――。




「ミンウェイ。俺と結婚しよう」




 ミンウェイの頭の中は、真っ白になった。


 蒼天に浮かぶ雲を見ているのか、崖を打つ波濤はとうの水しぶきを見ているのか……。


 ――そんな下手な言いわけのようなことを思いつくほどに、心が逃避した。


「今更、驚くことでもないだろう?」


 リュイセンは切なげでありながらも、優しい微笑みを浮かべる。


「俺がミンウェイを好きなことなんて、一族中が知っている。それに、鷹刀は血族婚を繰り返してきた一族だ。いずれ総帥を継ぐ俺にふさわしい相手は、ミンウェイしかいないと誰もが思っている。おかしなことじゃない」


 リュイセンの言っていることは、間違いではない。


 一族の者たちは、慣例として直系は血族婚をするものと思い込んでいる。本来の後継者だったレイウェンが一族を抜けたのは、血族ではないシャンリーを選んだからだ、と信じている者すらいる。


 けれど本当は、鷹刀一族が〈七つの大罪〉と決別した今となっては、もはや濃い血に用はない。むしろ逆で、血を煮詰めすぎて子供の生まれなくなった一族は、その血を薄めていかなければ滅んでしまうのだ。


「だ、駄目よ。私とあなたじゃ、跡継ぎができないわ。あなたは総帥になるんだから、それは困るでしょう?」


 とてもよい口実があったと、ミンウェイは安堵の息を漏らした。


 しかし、リュイセンはその反論を予測していた。――そうとしか思えないくらいの絶妙なタイミングで、言葉を返した。


「俺に後継者は必要ない。かえって邪魔なだけだ」


「どういうこと……?」


 彼女は瞳を瞬かせる。


「祖父上は、俺と父上を倭国に行かせただろう? あれは外の世界を見てこい、という意味だった。他国と比べ、我が国が如何いかに遅れているか、身をもって実感してこい、とな」


「え……?」


「『凶賊ダリジィンは時代遅れの存在だ』――旅先で父上はそう言った。それから、祖父上は鷹刀を解散するつもりでいるのだと、教えられた。急激な変化は望まず、ゆっくりと。父上か俺か、その次の代には、と」


 寝耳に水、だった。ミンウェイは、信じられないものを見る目でリュイセンを凝視する。だが彼は、いたって冷静だった。


「最初は俺も混乱した。俺はなんのために今まで生きてきたのか、とすら思った。――でも、帰国直後に巻き込まれた事件によって、考えが変わった」


 リュイセンは、とても静かに、穏やかに告げる。


「あの事件で一番強かったのは、ルイフォンだ」


 一般人と比べれば、ルイフォンは決して弱くはないが、凶賊ダリジィンとしてはお話にならない。


 けれどルイフォンは、たったひとりで斑目一族を壊滅状態に陥れた。そして、自分とメイシアの自由を手に入れるために、総帥イーレオに対し、親子の情に頼らず、それどころか半ば脅迫しながら対等な交渉に持ち込んだ。


凶賊ダリジィンなんて、弱くて未来のない存在だ。祖父上や父上が言うことは正しい、と俺は思った」


 リュイセンは、ふっと空を仰いだ。


 広く、高く。どこまでも蒼天は続いている。


 彼は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。緩やかに肩が落ち、何も気負わない、ごく自然な顔をミンウェイに向けた。


「俺は、鷹刀という場所が好きだ。一族の者たちが大切だ。――だから、彼らに未来を与えたい」


 それから少し、困ったように笑う。


「簡単なことじゃないんだ。今まで凶賊ダリジィンとして生きていた者たちを、一般人の世界に送り出すってのは……。兄上にも聞いたし、父上や祖父上とも話した」


「え……?」


 ミンウェイは耳を疑った。


 リュイセンが一族を憂い、具体的に動き出すなんて考えたこともなかった。兄のレイウェンが抜けたあとに繰り上げられた、名ばかりの後継者だと思っていた。


「時間が掛かると思う。下手に急いで鷹刀を弱体化させれば、そこを付け狙う輩に喰われる。……古い者たちは、鷹刀の加護から離れたくはないだろう。彼らは亡くなるまで今のままでいいと思う。ずっと鷹刀を支えてきてくれた大切な者たちだ」


 リュイセンの目は、ミンウェイへと向けられていた。けれど彼女には、自分の後ろに広がる、遠く遥かな水平線を見ているように感じられた。


「――古い時代を知らない俺が、幕を下ろす」


 黄金比の美貌が、煌めく。


「俺が、最後の総帥になる」


 魅惑の低音が、響き渡る。


 ……初めて会ったときは小さな男の子だった。無邪気な笑顔がミンウェイには羨ましく、眩しかった。


 彼は覚えていないだろうけれど、卑屈な少女だったミンウェイは『子供って、悩みがなくていいわね』と、なじったことがある。


 そしたら彼は大真面目な顔をして、『修行』と言って姉貴分のシャンリーがおやつを取るのだと、悩みを打ち明けてくれた。それすらも、兄のレイウェンに泣きつくことで解決していたのだけれど――。


「……リュイセン――」


 あの小さな男の子は、もういない……。


 ミンウェイの心臓が痛む。胸が苦しくなる。


「な? 俺には後継者がいないほうが好都合だろう? 跡継ぎがいたら、一族を存続させたがる者が出てくるだろうからな」


「……っ」


「だから、ミンウェイ。俺と結婚しよう」


 なんでもないことのように、リュイセンが言う。


 差し伸ばされた手が温かいことを、ミンウェイは知っている。


「私はあなたよりずっと年上よ。……もっと歳の近い可愛い子のほうが、あなたにはお似合いだわ」


「俺の母上も、父上よりとお以上、年上だ」


「……」


「いいんだよ、ミンウェイ」


 リュイセンが穏やかに、くすりと笑った。それは兄のレイウェンに少し似ており、けれどエルファンにも、イーレオにも、そしてミンウェイの父、ヘイシャオにも似ていた。


「ミンウェイが俺を恋愛対象として見られないのは承知している。父上と母上もそうだ。でも、互いに尊敬しあっている。そういうのでいい」


 心地のよい声が、ふわりとミンウェイを包み込む。


「俺に必要なパートナーは、俺と同じように一族を愛している人間だ」


「リュイセン……」


「結婚というのは名目で構わない。……だから、俺を鷹刀最後の総帥にするために、俺を助けてくれないか」


 そして低く、低く――。


 海底の深くに沈み込ませるように、波打ち際からは見えないように――ミンウェイには聞こえないように……リュイセンは想いを潮騒に溶け込ませる。


「――ミンウェイ、愛している」






~ 第三章 了 ~


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