di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~

『記憶の保存』と『肉体の再生』で死者は蘇り、仕組まれた出逢いが運命の輪環を廻す
月ノ瀬 静流
月ノ瀬 静流

2.伏流にひそむ蛇-1

公開日時: 2021年1月7日(木) 22:22
文字数:5,562

 小部屋というにはやや広い、落ち着いた一室であった。


 扉はぴったりと閉められ、中にはふたりきり。今にも飛び出してきそうな心臓を必死に押し込め、メイシアは目の前の少女を見つめていた。


「わざわざ来てくれて、ありがとう!」


 胸元で両手を合わせ、彼女は感極まったような高い声を響かせる。


「料理長のマカロンも嬉しいわ。ミンウェイさんの最近のお気に入りって聞いていたから、楽しみにしていたの」


 無邪気で、可愛らしい微笑み。テーブルに並べられた色とりどりのマカロンを、わくわくと物色する彼女の動きに併せ、高くポニーテールにしたくるくるの巻き毛が踊る。


 メイシアは、浅く腰掛けた椅子の上で固くなっていた。


 高級娼館にふさわしく、しつらえのよい逸品にも関わらず、どうにも座り心地が悪い。喉はからからで、膝の上で組んだ手は小刻みに震えている。


「そんなに緊張しないで。――お茶を淹れるわね」


 まるでメイシアの心を読んだかのように、彼女はお茶の用意を始める。ほどなくして、メイシアの前にふたつの茶杯が並べられた。


「大丈夫よ。この前みたいに、毒も薬も入っていないわ」


 そう言って、彼女は茶目っ気たっぷりに笑う。


 そして、「好きなほうを取って」とメイシアに選ばせると、残ったほうを先にひと口飲んだ。


「ね?」


 安心した? とばかりに、彼女は小動物のような愛らしさで小首をかしげた。


 メイシアは、ごくりと唾を呑み込んだ。毒を疑っていたわけではない。彼女の歓待ぶりが不可解で、どうしたらよいのか分からなかったのだ。


 そんなメイシアの気持ちなど、彼女はお見通しだったのだろう。にっこりと笑うと、自分の茶杯を目の高さに掲げた。


「それでは――。私に会いに来た、メイシアさんの勇気に、乾杯」


 とても楽しそうに瞳を輝かせ、少女――スーリンは、軽やかに告げた。






 ことの発端は、娼館の女主人シャオリエからの電話であった――。


 メイシアがルイフォンと出逢うきっかけとなった、あの事件のとき。シャオリエの娼館の少女娼婦スーリンが、厳月家の三男を呼び出して情報を入手してくれた。


 メイシアは感謝し、その内容を伝えに来てくれたシャオリエに、『スーリンさんに、是非お礼を言いたい』と告げた……。


「――で? そのときのことをシャオリエが覚えていて、『スーリンもお前に会いたいと言っているから、遊びに来い』だって?」


「はい……」


 メイシアは肩をすぼめ、おどおどとルイフォンを見上げる。


「ふざけんな!」


 ルイフォンの目がぎらりと光った。ぎりぎりと奥歯を噛みしめたかと思ったら、「シャオリエの奴! 何を考えてやがる!」と口汚く罵る。


「いいか、メイシア! お礼なんてのは方便だ。俺とお前がくっついたから、シャオリエは面白がって、スーリンをけしかけているんだ!」


「……」


 メイシアは、何も答えることができなかった。


 確かに今更の話なので、ルイフォンの言う通り、別の目的があるのだと思う。けれど、シャオリエのすることは一見、不可解でも、ちゃんと意味があるのだ。悪意からではないはずだ。


「安心しろ。行く必要ねぇよ」


 ルイフォンの手が、ひょいと伸びてきて、メイシアの髪をくしゃりと撫でる。


「丁重に断ればいい。シャオリエの悪趣味に付き合ってやる義理はねぇからな」


 そう言って瞳を和らげ、彼女に優しく笑いかけた。


 しかし――。


 メイシアは、ごくりと唾を呑み込んだ。


「あ、あの、ね……」


 自分を奮い立たせ、口を開く。


「……行ったら、駄目? 私、スーリンさんにお会いしたい……」


「はぁ? お前、何を言ってんだ?」


 ルイフォンの片眉が跳ね上がった。その様子に身を縮こませながらも、メイシアは懸命に声を上げる。


「まず、お世話になったスーリンさんには、きちんとお礼を言うのが礼儀だと思う。……けど、たぶん、彼女の用件はそのことじゃない。――分かっている。ルイフォンは、スーリンさんのことを恋人ではないと言ったけれど、スーリンさんは違う……と思う。……だから」


 意を決して言い始めた言葉も、ルイフォンの顔を見ているうちに、だんだんと尻つぼみになってしまった。


 ルイフォンは、わざとらしく大きな溜め息をついた。猫の目が剣呑に光り、くいっと顎をしゃくりあげる。


「それで? 今は自分がいるんだから、俺には近づくな、とでも?」


「違う!」


「違わない! お前があいつの呼び出しに応えるってことは、売られた喧嘩を買いに行く、という意味だ!」


「そうじゃないの!」


 ルイフォンが言い終わるのと同時に、メイシアは叫ぶように声をかぶせた。そうすることで、ルイフォンの言葉を上塗りできると信じているかのように――。


「険悪になるのは、避けられないかもしれない。私が、『ルイフォンのそば』という居場所を誰にも渡す気がないから! スーリンさんがそれを望むなら、平行線にしかならないから……!」


「!」


 ルイフォンの顔が喜色を帯びた。こんな言い争いの中でだけれど、普段、なかなか言わない愛情表現をはっきりと口にしたからだろう。


 ごめんなさい、とメイシアは思った。心臓が、ずきりと痛む。そして、これから言おうとしていることに対しての、彼の反応がもっと怖くなる。


「私に会って、彼女が何を言いたいのかは分からない。でも、私は、彼女の感情を受け止めたいの。……っ、それから、ねっ――」


 メイシアは、胸元のペンダントをぎゅっと握りしめた。


「無理かもしれないけど、彼女と仲良くなりたい……」


「は?」


 一瞬、ルイフォンの目が点になった。だが、その目はにわかに鋭くなり、険を帯びる。


「……ずっと悩んでいたの。ルイフォンとスーリンさんは、このまま自然に離れていくのでいいのかな、って」


「お前、何を考えている? 俺はそのつもりだぞ」


 冷徹な声だった。突き放されたのは自分ではないと分かっていても、胸が苦しくなる。


「スーリンさんは恩人なんでしょう? ルイフォンにとって大切な人。だから、そんなことを言わないでほしいの」


 祈るように告げる。


 ルイフォンの険しい視線に、全身が震えた。けれど、譲れない。


 貴族シャトーアであることを捨て、ルイフォンと居ることを選んだとき、彼の周りの人を大切にすると決めた。彼と一緒に、大切な人を増やしていこうと誓った。


 何故なら、自分たちは『ふたりきり』ではない。『皆に囲まれた、ふたり』でありたいと願ったのだから――。


「私がそばに来たことで、ルイフォンから大切な人が失われるのは、間違っていると思うの」


「なっ!?」


「私は、ルイフォンの大切な人を、大切にしたい。スーリンさんを大切にしたいし、彼女との縁もこれきりにしたくない。そのために、私は彼女と仲良くなりたい。――仲良くなるために、彼女に会いに行きたいの」


 ルイフォンのこめかみが、ぴくりと青筋を立てた。浮き出てきた血管がいらいらと脈を打つ。


「綺麗ごとだ!」


「分かっている。でも、これはチャンスなの。私から『会いたい』とは言いにくいけど、彼女から誘ってくれたなら会いに行ける。……結果として、最悪の別れ方をしたとしても、何もしないで諦めたくない」


「あのなぁ……! 確かに、俺とスーリンとは気が合ったけど、いずれは別の道に行くと分かっている。そういう間柄だったんだ。だから、あいつとの縁は、これきりでいいんだ」


 ルイフォンの瞳は、冷ややかな静けさで満たされていた。すっぱりと割り切っている彼に、メイシアは首を振る。


「お願い、行かせて。だって、スーリンさんが呼んでくれたんだから。――私は、あなたから、あなたの大切な恩人を奪いたくない!」


 高く澄んだ声が、凛と響いた。


 怖かった。ルイフォンを不快にさせるのが分かっていて言うのは、恐ろしかった。


 彼を、愛している。だから、怒らせたくない。


 メイシアだって、本当は複雑なのだ。心の底では、ルイフォンがスーリンと出会うことがなかったら、どんなによかったかと思っている。


 けれど、スーリンは恩人だ。


 ルイフォンは母親を亡くしたあと、シャオリエのもとに預けられた。当時の彼は、放っておけない状態だったと聞いている。母を失ったショックと、そのときになされた脳内介入の影響だろう。


 そんなルイフォンを、スーリンが支えた。


 悔しいけれど、ルイフォンにとってスーリンは大切な人だ。気心の知れた同士だということは、ふたりが交わしていた会話を思い出しても確かだといえる。温かな絆を、これきりにしてはいけないのだ。


「今のままじゃ、ルイフォンは二度とスーリンさんに会わない。それを変えたいの」


「だから、会う必要なんてないんだってば! というか、俺があいつに会うって、どういうことだか分かってんだろ!?」


 鋭い声が叩きつけられた。


 言ってしまってから、さすがに気まずくなったらしい。ルイフォンは視線をそらし、くしゃくしゃと前髪を掻き上げる。


 ルイフォンの言葉は、メイシアの胸にぐさりと突き刺さった。


 理解しているつもりだった。


「――……っ!」


 なのに、頬をひと筋の涙が流れた。


 過去の出来ごとは変えられないのだから、メイシアが何を思っても仕方ない。だから、考えないようにしていた。醜い嫉妬心を封じて、未来だけを見るようにしていた。


 その未来の中で、スーリンにはルイフォンの大切な恩人でいてほしいと願った――。


「すまん……」


 まさか、泣くとは思っていなかったのだろう。必死に嗚咽を殺そうとしているメイシアの頭に、ルイフォンがおずおずと手を伸ばす。


 彼らしくない遠慮がちな仕草で、不器用に優しく彼女の髪を撫でる。「抱きしめてもいいか?」と尋ねながらも、返事を待たずに彼女を強く引き寄せた。


「スーリンの世話になったことは認める。事実だからな。そういうのを、お前が気持ち悪いって責めるなら、俺は甘んじて受け入れる。でも、今の俺にあいつが必要ないのは、本当なんだ。分かってくれ」


 耳元で囁かれる声は、すっかり弱りきっていた。いつもの過剰なまでの自信は、見る影もない。


 ルイフォンの言いたいことは分かる。彼は誠実なのだ。メイシアのために、スーリンを切り捨てると言っている。


 押し黙ったメイシアの頭上から、ルイフォンが静かに声を落とした。


「お前の言っていることは、ただの自己満足だ。お前はすっきりするかもしれないが、周りは振り回されるだけだ」


 温かな吐息が、頭皮を撫でる。


 声の調子から、怒っているわけではないのは分かる。ただ、諭しているだけだ。


「お前はやっぱり、貴族シャトーアの箱入り娘なんだと思うよ。俺とは全然、違う。でも俺は、お前の純粋すぎる強さに惹かれたんだから、それを悪いとは思わない。――けど、今回は駄目だ」


「どうして……?」


 メイシアの口から、嗚咽混じりの声が漏れた。ルイフォンを見上げる瞳は涙で潤み、濡れた睫毛が光を弾く。


 ルイフォンは、大きな溜め息をついた。


「俺を、情けない男にするなよ……」


「え?」


「なんでもない」


 ふいっと視線を外し、彼はそう呟く。そして、そのまま目を合わさずに、「それならさ」と続けた。


「シャオリエの店は繁華街にある。あのへんは治安が悪い。メイシアも行ったことがあるから分かるだろう? だから、俺はお前を行かせたくないと思う」


「そのことなら、『貴族シャトーアがお忍びで遊びに来るときに使う、安全な車の道から来れば大丈夫』と、シャオリエさんに言われている……の」


 口答えするようで嫌だと思いながら、メイシアは言われていた通りに答える。ルイフォンが治安を気にするだろうと、シャオリエは予測していたのだ。


「っ! シャオリエの奴!」


 ルイフォンは舌打ちをした。


「――けどな! 今、鷹刀どういう状況かを考えれば、車ごと襲われたっておかしくないんだぞ!」


「どういう、って……?」


「〈ムスカ〉に狙われている!」


「それはイーレオ様や、ミンウェイさんです。私は一族ではありませんし……」


 不思議そうに首をかしげるメイシアに、ルイフォンは頭を抱えた。


「〈ムスカ〉にしてみれば、お前だって一族と同じだ! だいたい、お前は〈ムスカ〉を怒らせたことがあるだろう!」


「そ、それは……」


「ともかく、お前みたいな世間知らずが、繁華街なんて危険なんだ!」


 ルイフォンが、ぴしゃりと言い放った。


 正論だった。


 けれど、メイシアには自分を否定されたように感じた。


 彼女は、喉の奥が熱くなるのを必死に押さえ込んだ。そして、声を揺らさないようにして、反論の言葉を紡ぎ出す。


「リュイセンかチャオラウさんに、一緒に来ていただくよう、お願いします」


「そうことじゃねぇ! ――というか、なんで俺以外の男と出掛けようとするんだ!」


「す、すみませんっ!」


 反射的に謝っていた。言葉遣いが、すっかり敬語になっていた。


「それに! お前がシャオリエの店に出入りするところを、人に見られるのも駄目だ!」


「えっ!?」


 唐突な発言に、メイシアはきょとんとする。


 ルイフォンは、両手で頭を掻きむしり「分かってくれよ……」と呟いたが、娼館に出入りするメイシアに、卑猥な視線が向けられることを恐れているだなんて、彼女が理解できるはずもなかった。


「とにかく、俺の言うことを聞け!」


 ルイフォンが全身を使って叫ぶと、一本に編まれた髪が鞭のようにしなった。毛先を飾る鈴が、彼の強い思いと共鳴したかのように、まばゆく光を反射させる。


 メイシアは、びくりと体を震わせた。


「ルイフォン……。……っ、わた、私、は……、ルイフォンの許可なし、では、……何も、してはいけない……の?」


 彼女の頬を、涙が伝う。


 その瞬間……、ルイフォンの顔が歪んだ。


 愕然としたような、すがるような――あるいは、彼もまた泣いているような……。


「……勝手にしろ!」


 吐き捨てるように彼は言い、くるりと背を向けた。


 そして、肩をいからせながら、精彩を欠いたテノールで続ける。


「俺は別に……、お前のことを縛りつけたいわけじゃないから、な……!」


 彼の背中は、いつもよりも猫背で、どことなく淋しげだった――。


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