di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~

『記憶の保存』と『肉体の再生』で死者は蘇り、仕組まれた出逢いが運命の輪環を廻す
月ノ瀬 静流
月ノ瀬 静流

3.怨恨の幽鬼-3

公開日時: 2020年9月21日(月) 22:22
更新日時: 2020年11月10日(火) 13:54
文字数:5,792

 風が、荒廃した街中を吹き抜ける。


 乾いた青さの空に向かい、砂塵が舞う。


 倒れかけの電柱から垂れ下がった電線が、悲しげな呻きを上げた。


ムスカ〉の無情な刀身は、ルイフォンを冷酷に見下ろしていた。それは、サングラスに隠された主の視線に代わり、鋭く狙いをつけているかのようだった。


「遠くで人の気配がしますね。面倒が起こらないうちに終わらせましょう」


 事務的にすら聞こえる声で〈ムスカ〉が言う。事実、この男にとって、ルイフォンの首をはねることなど、作業のひとつに過ぎないのだろう。


 ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。


 メイシアは、どのくらい遠くまで逃げられただろうか。賢いあの少女のことだから、あるいは、どこかに身を隠しているかもしれない。迎えが来るまで、どうか無事でいてほしい――。


 彼女を逃がすため、そして自分自身のため、ルイフォンはこのまま潔くやられるつもりなど、毛頭なかった。


 師匠のチャオラウは、ルイフォンに戦うことよりも守ること、逃げることを教えこんだ。身の軽さなら、兄弟子で年上の甥のリュイセンにも引けは取らない。体が思い通りに動く状態なら、〈ムスカ〉の一刀を避ける自信はある。だが……。


 ――ルイフォンの目が、すぅっと細まり、獲物を狙う猫のように、静かにじっと〈ムスカ〉の様子を窺う。


「ほぅ、悪巧みをしている目ですね。その有様で、なお……。面白い」


ムスカ〉の頬が、ふっと歪んだ。そして、何を思ったのか、掲げていた刀をくるりと円を描くようにして下ろす。小花をあしらった鍔飾りが、鞘口にかちりと抱きとめられた。


「〈ムスカ〉……!?」


「提案があります」


ムスカ〉は意味ありげに、腰に手をやった。地に伏したルイフォンへの威圧感を計算し、胸を張り、軽く顎を上げる。


 ルイフォンは、〈ムスカ〉のサングラスの下の表情を読み取るべく、目を眇めた。


 情報の収集と分析――それが彼がもっとも得意とする武器であり、〈ムスカ〉が直接的な攻撃を仕掛けてこないのなら、こちらにも動きようがある。息を殺すようにして、次の言葉を待った。


「私と手を組みませんか?」


「な……!?」


 先程、食らった一撃以上に、息が止まる思いがした。一体、どういうつもりで〈ムスカ〉がそう言うのか、ルイフォンには皆目見当もつかない。


「何を驚いているんですか。私たちの対立の原因はあの小娘。けれど、小娘はあなたを見捨て、助ける気もない。ならば、あなたが義理立てする理由はないでしょう」


 あまりの提案に、思考が停止しそうになるのをこらえ、ルイフォンは冷静に〈ムスカ〉を見やる。この男は斑目一族の食客で……。


「お前は鷹刀に恨みがあるはずだ」


「ええ、憎いですよ」


ムスカ〉の声が一段、低くなる。幽鬼の闇が濃くなり、気配を感じさせない彼が存在感をあらわにする。


「鷹刀の俺と、鷹刀を憎むお前が、仲良く手を組むなんてあり得ないと思うんだが……?」


「何をおっしゃるんですか。あなたに拒否権があるとでも?」


ムスカ〉が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。彼の腰で細身の刀が揺れた。


「なるほど……」


『手を組む』というのは口先だけで、命が惜しければ従えということだ。


 活路を見いだせるかと期待しただけに、落胆しかけたルイフォンだったが、ふと気づいた。


 殺さずに活かすというのなら、つまり〈ムスカ〉は、憎き鷹刀の名を持つルイフォンに、なんらかの価値を見出しているということになる。それは、相当に酔狂なことのはずだ。


 ルイフォンの情報屋としての本能が、そこに探るべき何かがあると訴える。


「あなたを捨て駒にした小娘のために無駄死にするよりは、私について私の寝首を掻く機会でも窺ったほうが、よほど建設的だと思いますよ?」


ムスカ〉が、悪魔の囁きで甘く誘う。


 その手を取ることなど、まっぴらごめんであるが、今はまだ振り払うべき時ではない。圧倒的な優位に立つ〈ムスカ〉が気を変えれば、即座にルイフォンの頭と体は泣き別れするのだ。


 ルイフォンは、慎重に言葉を選んだ。


「……一応、筋は通っているな。俺にとっても悪い話じゃない」


「物分かりのよい敗者は清々しいですね」


 さげすみきった、挑発的な物言いだったが、反応すれば〈ムスカ〉を喜ばせるだけなのは分かっていた。それに、本来、前線に立つのが仕事ではないルイフォンが、戦闘での負けを悔しがる必要もない。大切なのは、守りたいものを守り抜けること。そう考えられるだけの余裕が、彼には戻ってきていた。


「で? 俺は何をすればいい? 内通者にでもなればいいのか?」


ムスカ〉は肩をすくめ、白髪頭を左右に振った。


「まさか。あなたのような悪戯な子猫を手元から放したら、帰ってこないに決まっているじゃありませんか」


 嫌らしい笑みを漏らす〈ムスカ〉に、ルイフォンは息を呑んだ。


 まただ――。


ムスカ〉がこの路地に現れたときも、彼はルイフォンのことを『子猫』と呼んだ。確かにルイフォンは、〈フェレース〉の名を持つクラッカーだ。だが、〈フェレース〉の正体は一般には知られていない。鷹刀一族の中でも、ごく一部の者のみが知る極秘事項なのだ。


 これは偶然か…………否。


「……そうか。お前の『ムスカ』という名は、ラテン語の……確か、『蝿』」


フェレース〉と同じ規則の暗号名。つまり――。


「〈七つの大罪〉の関係者だな」


ムスカ〉は、ただ口の端を上げた。是とも非とも言わずとも、それだけで充分な答えだった。


 ルイフォンの脳裏に、かつて〈フェレース〉を名乗っていた母の姿が浮かび上がる。




「〈七つの大罪〉の〈悪魔〉が、あんたの前に現れることがあったら……逃げなさい」




「〈フェレース〉の血を引くあなたを、刀の錆にするのは惜しいんですよ」


ムスカ〉は懐から小瓶を出した。透明な瓶の中で、透明な液体が揺れている。陽光を浴びて〈ムスカ〉の掌に透明な影を作るそれは、蓋を開けなくても危険な香りがした。


「少しの間、眠るだけです」


 ――ここで拒否をすれば、それまでだろう。


 ルイフォンは視線を下げた。うつむきがちの頭から癖のある前髪が流れ、目元の表情を隠す。


 この流れのままで時間を稼ぐのも、そろそろ限界のようだ。猫のような目が、すぅっと細まる。〈ムスカ〉の言う『悪巧み』の目だ。


「分かった。今の俺の立場からすれば、そのくらい仕方ないだろう」


 そこでルイフォンは一度言葉を切り、顔を上げた。


「ひとつ、教えてほしい」


「おや? あなたは質問できるような身分でしたっけ?」


 そういう〈ムスカ〉の揶揄も無視して、ルイフォンは続ける。


「お前たちは、藤咲メイシアに何をさせたかったんだ? お前の仲間のホンシュアが彼女を鷹刀に送り込んだくせに、今は彼女の死体を欲しがっている。訳が分からない」


ムスカ〉は、無言でサングラスの目をルイフォンに向けた。切り出し方を誤ったかと、ルイフォンの背を汗が流れる。


 彼は慌てて、負けん気の強そうな十六歳の少年の瞳を作り、〈ムスカ〉を睨むように見上げた。


「……それとも、これはすべて演技なのか? 彼女は俺たちを掻き回す役割を持った、斑目の手の者だったのか? 彼女が俺に向けた顔はすべて嘘だったのか?」


「ほう、なるほど。憐れな思慕の念を昇華するためには、小娘を悪者にしたいわけですね」


 唇を噛んで押し黙るルイフォンに、〈ムスカ〉は優越感に満ちた愉快げな声を上げた。


「愚かなる道化師に免じて、教えてさしあげましょう」


 まるで悪魔のような、美しく優しく残忍な微笑みを見せ、〈ムスカ〉がゆらりとルイフォンの顔を覗き込んだ。


「あの娘は何も知りませんよ。ただ踊らされているだけです。流石に貴族シャトーアですから、当初の筋書きでは、殺害などという面倒ごとにはせずに、無事に実家に戻されるはずでした。その約束で、藤咲家を納得させましたしね。――それを、他ならぬ、あなたが計画を崩してくれたんですよ」


「な……!?」


「あの駒は、鷹刀の屋敷に置いておく必要がありました。けれど、そこから動かされてしまったのなら、無理にでも運ぶしかないでしょう?」


ムスカ〉が声を立てて嗤う。


 それが呪いの言葉でもあるかのように、ルイフォンの耳から入って脳を侵食し、彼の神経を揺さぶった。ルイフォンの顔から、血の気が引いていく。


「……さて、お喋りもこのくらいにしてください」


ムスカ〉が、音もなく一歩近寄った。砂地に座り込んだままのルイフォンに、黒い影が落ちる。


 彼は、透明な小瓶を手に、ゆっくりとしゃがみ込むと、すっとルイフォンに差し出した。促されるままに受け取ったルイフォンの掌の中で、陽光を乱反射させる硝子の輝きが、ルイフォンの思考を拡散させる。


 この事態は、俺が招いたのか――?


「少し、時間を取り過ぎましたね。いくら小娘といえど、それなりの距離を行っているはず……応援を呼びましょう」


「応援?」 


 サングラスの奥で、〈ムスカ〉の眼球が人知れず動いた。混乱するルイフォンの様子を、冷徹に観察する。


「斑目の若い衆ですよ。色欲に眩んだ彼らなら、きっと鼻が利くでしょう」


ムスカ〉は、充分に含みをもたせ、口の端を上げた。


 タオロンの部下たち――メイシアを前に涎を滴らせていた、あの獣のような男たちのぎらつく眼光が、ルイフォンの記憶に蘇る。


「メイ、シア……」


 ルイフォンの喉から、普段のテノールより遥かに低い音階が漏れる。


ムスカ〉が懐から携帯端末を取り出す。


 そのバックライトが光った瞬間、ルイフォンは、自身の血液が沸騰するような錯覚を覚えた。


 気づけば、小瓶を投げ捨て、地を蹴っていた。


 カランビットナイフを振りかぶり、肉をえぐろうと、〈ムスカ〉の懐に入る。


ムスカ〉を止める!


 何者も、メイシアを追わせはしない――!


 追い込まれた獣の、無謀としか言いようのない一撃。


 自分を守ることを完全に放棄した、他人を守るための衝動。


 向かってくる刃に対し、〈ムスカ〉は涼しい顔で、体を大きく弓なりに反らせた。ルイフォンの刃は胸元をかすめ、上着の繊維を虚しく斬り裂く。


ムスカ〉は、まるで児戯だと鼻先で笑い、そのまま流れるような一連の動作の中で抜刀し、細い刃を宙に滑らせた。


「……っ!」


 凶刃の煌めきに、ルイフォンの防衛本能が警鐘を鳴らす。彼は反射的に、思い切り猫背になって飛びすさった。刹那の差で、〈ムスカ〉の刀が、わずかに空いた虚空を薙ぐ。


「……ほぉ? 思いのほか、器用ですね。本物の猫のようですよ」


 肩で息をするルイフォンに、〈ムスカ〉が嘲りまみれの賞賛を贈る。


 しかし彼は、ルイフォンに安堵の暇など与えはしなかった。


「ぐはっ……!?」


 胃への強い毀傷の感触。〈ムスカ〉の足先が腹部にめり込み、ルイフォンの細身の体躯が空を舞った。


 ……そして、それを危険と認識する余裕すらなく、背中から地面へと叩きつけられる。衝撃の反動に、彼の体は数度、砂地を跳ね返った。


 ルイフォンは脳髄が揺さぶられるような、強烈な目眩を覚えた。


「交渉決裂ですね。あんな小娘に目の色を変えて……。愚かなことです」


 地を転げ、もがき苦しむ彼に、〈ムスカ〉の嘲笑が落ちる。揺れる肩に合わせ、悦に入る白髪頭もまた、小刻みに揺れる。




 ――その動きが、途中で止まった。




 一転して、〈ムスカ〉の様相が変わる。


「……一体なんの真似ですか……?」


ムスカ〉の疑問は、ルイフォンに投げかけられているわけではなかった。まだ姿を現していない人物に向けられていて――勿論、小さな呟きは遠くにいる相手に聞こえるわけもなく、だから、それはただの独り言に過ぎなかった。


 転がっているルイフォンには目もくれず、〈ムスカ〉は、その人物を迎えるべく踵を返す。彼らがこの路地に入ってきた方向――ルイフォンがタオロンから身を隠すために曲がってきた、その角に、〈ムスカ〉は不気味な薄ら笑いを向けた。


 やがて、苦痛にあえぐルイフォンにも、その気配を感じることができた。


 はあはあと、荒い呼吸。


 同時に聞こえてきた足音は、途切れそうなほどに、おぼつかない。


 もしや、と思った瞬間に、その影が路地の口に現れ、ルイフォンは目を見開いた。激痛に声を出せない彼の、心が叫ぶ。


 メイシア――!


 今にも倒れそうな――否、既に途中で転んでいたのか、膝は擦り剥き、肘には血が滲んでいる。


 長い黒髪は風を受けて乱れ舞い、前髪は汗で額に張り付いている。彼女が全力で駆けてきたことは、遠目にも明らかであった。


 彼女が逃げたのは、ルイフォンから見て後方の道。だが、今、彼女がいるのはルイフォンの前方――逃げたと見せかけて、一本隣の通りから回りこんだのだ。


 メイシア、来るな――!!


 ルイフォンの思いを裏切るように、彼女の姿が近づいてくる。一刻を争うように、一心に走る。


 そして、彼女は速度を落とさずに体を屈め、地面に落ちていた『それ』に、飛びつかんばかりに手を伸ばした。白魚のような手にまったく不釣り合いな、無骨な『それ』を、しっかりと握りしめる。


ムスカ〉が、「ほぅ?」と、眉を上げた。


「あなたが、それで戦うおつもりですか?」


 ――『それ』は、タオロンの大刀だった。筋弛緩剤でタオロンを封じたあと、彼の刀は離れた位置に放置したのだ。小型ナイフならともかく、大刀ではルイフォンが持ち歩くには不向きな武器であったためだ。


 メイシアは、大刀の柄をしっかりと握りしめ、そのまま走り続けようとし……よろめいた。彼女が手にするには重すぎるのだ。


 それでも、メイシアは前に進んだ。


 大刀の切っ先は地面から浮くことはなく、彼女に引きずられるたびに地を削り、小石を弾いた。


 もし〈ムスカ〉がその気になれば、一瞬とは言わないまでも、数瞬のうちにメイシアの首をはねることが可能だったろう。だが、鬼気迫る彼女の様子に興を覚えたのか、〈ムスカ〉は動かなかった。ただ、嗤いながら揶揄する。


「その細腕で、何ができると言うのですか?」


 そんな問いかけにも、メイシアは耳を傾けない。


 彼女が向かう先――。


 そこに、後ろ手に縛られ、転がされているタオロンがいた。


 ルイフォンは息を呑んだ。彼は彼女の意図を察したのであるが、それでも、まさかとの思いが拭い切れない。


 ついに、メイシアはタオロンの元へと辿り着いた。彼女の美しい顔は汗にまみれ、肩で息をしていた。


 メイシアは、足元に横たわるタオロンを見下ろし、ゆっくりと息を吐いた。そして、次に思い切り大きく息を吸うと、両手で大刀の柄を握りしめ、信じられぬことにそれを持ち上げた。


 ルイフォンと〈ムスカ〉が目を疑う。


 メイシアが、力強く〈ムスカ〉を睨みつけた。そして、叫ぶ――。


「〈ムスカ〉! ルイフォンの傍から離れてください! さもなくば、斑目タオロンの命は保証しません!」


 メイシアの凛とした声が、荒涼とした通りに響いた。


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