di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~

『記憶の保存』と『肉体の再生』で死者は蘇り、仕組まれた出逢いが運命の輪環を廻す
月ノ瀬 静流
月ノ瀬 静流

5.創痍からの策動-1

公開日時: 2021年9月10日(金) 22:22
文字数:5,961

 初夏の風を頬に感じた。


 爽やかな気配に撫でられ、ルイフォンは、自分の意識がふっと浮上していくのを感じた。


 どうやら、また、うとうとしていたらしい。薄目を開けると、真上に、ふわりと揺れるカーテンが見える。窓際に置かれたベッドからの、いつもの風景だ。


 ゆらりゆらりと、白いレース地が風に乗る。その穏やかな動きを見ていると、朦朧とした心地よさが襲ってきて、ルイフォンのまぶたは再び重くなる。


 まどろみに身を委ねたい。そんな誘惑が、彼を眠りの世界へといざなう……。


「――じゃねぇよ!」


 ルイフォンは、鋭いテノールで自分に突っ込んだ。


 のんびりと寝ている場合ではない。メイシアだ。メイシアがさらわれた。一刻も早く、取り戻すのだ。


 猫の目をかっと見開き、彼は勢いよく毛布を跳ね上げる。


「――っ!」


 飛び起きはしたものの、今度は腹を押さえてうずくまる羽目になった。


 リュイセンに斬られた傷が痛む。全身が熱を持っているのを感じる。すぐに眠くなるのも、体が休息を必要としているためだ。――そんなことは分かっている。


 枕元に置いていた携帯端末を手に取り、彼は唇を噛んだ。


 メイシアがさらわれてから、二日後の日付けだった。〈ベロ〉との対面のあと、熱を出して寝込んだ。それからの記憶は、ほとんどない。


「糞……っ!」


 癖の強い前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げ、彼は布団に拳を打ち付ける。


〈ベロ〉が言うには、メイシアがセレイエに乗っ取られる心配はないという。しかし、〈ムスカ〉が彼女にどんな危害を加えるのかと思うと、気が狂いそうだった。


「メイシア……!」


 落ち着くのだ。――ルイフォンは、自分に言い聞かせる。


 焦ったところで、何も解決しない。それよりも考えるのだ。この窮地を脱するための方策を――!


 そうしてしばらく、おのれの中の感情と理性とを戦わせているうちに、ルイフォンはふと、サイドテーブルの上の書き置きに気づいた。『診察をしたいから、目が覚めたら連絡して』との、ミンウェイからの伝言だった。


 ルイフォンは溜め息をひとつ落とし、携帯端末に指を滑らせた。






「まだ熱があるわね。傷のほうは順調だけど、当分は安静よ」


 白衣姿のミンウェイは、てきぱきと包帯を取り替えたあと、柳眉をひそめてそう言った。


『安静』の部分が、心なしか強調されていたのは、きっと気のせいではないだろう。彼女が口を酸っぱくして、おとなしくしているように言っていたのに、人目を忍んで〈ベロ〉のところに行ったことを咎めているのだ。


 あれは、エルファンに無理やり連れて行かれただけだ。


 ルイフォンは顔をしかめたが、口答えはしなかった。結果として、〈ベロ〉から有益な情報を得られたのだから、エルファンに対して文句はないし、ミンウェイの小言も甘んじて受け入れる。


 もとより、ミンウェイが療養生活を言い渡すことは分かりきっていた。だから彼は、彼女が来るまでの間ずっと、身構えて待っていた。


「……ミンウェイが、医者として必要なことを言っているのは分かる。でも、俺はメイシアを助けに行かないといけない。だから、寝ているわけにはいかない」


 声を荒らげるわけではなく、静かな声で告げた。


 これは、ただの事実の羅列だ。


 ルイフォンがすべきことは、安静ではなく、行動を起こすことだという――。


 端正で無機質な〈フェレース〉の顔で、彼はミンウェイと向き合った。


「ミンウェイには、迷惑をかけて悪いと思っている。心配してくれて、感謝もしている。ありがとう、そして、すまない。……あ、いや、……っと、……申し訳ございません」


 慣れない言葉遣いに、尻がむずがゆくなる。


「ルイフォン……?」


 ミンウェイにしてみれば、寝耳に水だろう。ぎこちなくも、かしこまった面持ちの彼を、彼女はまじまじと見つめ返す。


 その視線をまっすぐに受け止め、ルイフォンは意を決して切り出した。


「ミンウェイ……、お願いがあるんだ」


「え……?」


「まだ、メイシアを助ける算段は立っていない。けど、すぐに考える。――そしたら、解熱剤でも鎮痛薬でも、なんでも使って、俺の体を動けるようにしてほしい。頼む」


 ミンウェイの切れ長の瞳が、弾かれたようにまたたいた。


 しかし、ルイフォンは構わずに、畳み掛けるように言う。


「今後はミンウェイの目を盗んで、こそこそ動き回ったりしない。約束する。だから、お願いします。――俺は、一刻も早く、メイシアを取り戻したいんだ……!」


 ルイフォンは頭を下げた。寝ている間も編まれたままだった髪が背中を転がり、毛先を飾る金の鈴が彼の脇からちょこんと顔を覗かせる。まるで、持ち主と一緒に頼み込むかのようだった。


「ちょっ、ちょっと待って……」


 頭上に感じる、ミンウェイの戸惑いの息遣い。これから、『何を馬鹿なことを言っているのよ!?』と、ぴしゃりとくるのだと、ルイフォンは首をすくめる。


 怒られるのは覚悟の上だ。


 それでも、どうしても譲れない。


「無茶なことを……、勝手なことを言っているのは分かっている。でも、メイシアを取り戻すために――! ……頼む、ミンウェイ!」


 メイシアのことを考えると、心が騒ぐ。暴走しそうになる気持ちを必死に抑え、ルイフォンは訴える。


 きつく奥歯を噛み締め、じっとしていると、やがて音もなく草の香が近づいてきた。


 ミンウェイの気配だ。――と思った、瞬間。


「痛ぇっ!」


 うつむいた彼の眉間に、痛烈な一撃が見舞われた。ミンウェイの人差し指が、彼の額を弾いたのだ。


「お腹を圧迫して――こんな、体に負担がかかる格好をしちゃ駄目でしょ! 傷口に悪いわ」


 彼女の指の威力に、ルイフォンは、のけ反るように強制的に上を向かされた。


 額がひりひりする。


 安静は嫌だと突っぱね、更に動けるようにしてくれだなんて、虫のいいことを言っているのは分かっている。しかし、いきなり手を出してくるのは酷くないだろうか。


 鼻に皺を寄せてミンウェイを見やり……、ルイフォンは狼狽した。彼女の眼差しは柔らかで、優しく彼を包み込むかのようだった。


「いくら鎮痛剤を使っても、無茶なことばかりしていたら、途中で動けなくなっちゃうわよ」


 綺麗に紅の引かれた唇をきゅっと上げ、彼女は、いたずらめいた笑みを浮かべる。


「だから、あなた自身も、ちゃんと治す努力をするのよ。その上でなら、私にできる限りの協力をするわ」


「……えっ!?」


「私のほうこそ、ルイフォンに言おうと思っていたの。……さすがに、もう少し回復してからのつもりだったけどね」


 困惑するルイフォンの目の前で、ミンウェイの雰囲気が、にわかに変わっていく。


 彼女は、診察の邪魔にならないよう、背中でまとめていた髪を解いた。波打つ黒髪が豪奢に広がり、爽やかな草の香が流れてくる。


「これを言ったら、医者としては失格。でも私は、鷹刀の人間だから……」


 ミンウェイは、ぱっと白衣を脱ぎ捨てた。


 中から現れたのは、彼女を象徴する、鮮やかな緋色の衣服。彼女が誇らしげな顔で胸を張ると、あでやかな華やぎが広がっていく。


「多少の無茶など、構わない。それより今は、動き出すべきとき――だわ」


「ミンウェイ……?」


 予想外の彼女の言動に、ルイフォンは絶句する。あまりの驚きに、喜ぶよりも、ただただ彼女を凝視した。


「ルイフォン、現状は間違っているわ」


 切れ長の瞳に挑むような光を載せ、ミンウェイは静かに告げる。


「メイシアは、あなたのそばに居るべきだし、リュイセンは、あなたを裏切るべきじゃない」


「――っ!」


 刹那、ルイフォンのまなじりが吊り上がった。


 浮き立ち始めていた心が一転して、深い地の底に落とされる。


「――リュイセン、あいつは……!」


 押し殺した声を漏らし、ぐっと拳を握りしめた。自然と腹にも力が入り、激痛が走る。


 痛みの表情は、とっさに隠した。――そのつもりだったが、当然の如くミンウェイには見抜かれており、絶世の美貌による無言の迫力よって、ルイフォンはベッドに沈められる。


 横になった彼は、彼女にどう言ったらよいのか迷いながら、ぽつりと呟いた。


「……あいつは――リュイセンは、俺とはたもとを分かったんだ」


 苦しげなテノールが虚空に溶けた。


 自分で発した言葉が、自分に重くのしかかった。


「ルイフォン、聞いて」


 ミンウェイは、彼を追いかけるようにかがみ込み、ベッドの上の彼と目線を合わせる。


「緋扇さんが教えてくれたの。リュイセンは、私に関する『何か』を材料に、〈ムスカ〉に脅迫されているだけだろう、って」


「――!」


「リュイセンは、〈ムスカ〉に脅されているだけ。やむを得ず、メイシアをさらっただけ。――あなたを裏切ってなんかいないの」


 ミンウェイの言葉を聞いた瞬間、ルイフォンの全身の血が湧いた。


「ふざけんな!」


 片手を支えに体を起こし、ぐいと顎を上げた。そのまま、ミンウェイに喰らいつかんばかりに、牙をむく。


「リュイセンは、ミンウェイ絡みで〈ムスカ〉に脅された。――そんなことくらい、『俺も気づいていた』さ! だって、あいつが俺を裏切るなんて、それしかないだろ?」


「ルイフォン……、知っていた……?」


 うろたえるミンウェイを、ルイフォンは一瞥した。彼女には黙っていようと思っていたのに、シュアンのせいで台無しだった。ハオリュウの代理で屋敷に来ることは聞いていたが、余計なことをしてくれたものだ。


「ああ。エルファンが、それとなく教えてくれた」


 この二日間、夢うつつをさまよっているうちに、エルファンの真意に気づいた。


 リュイセンは〈七つの大罪〉の怪しい技術で操られていたわけではない。意識は、はっきりしていたと、エルファンはまず初めに告げた。


 その言葉の裏には『それにも関わらず、あの生真面目なリュイセンが彼らしくないことをしたのなら、それは彼が一番大切にしている、ミンウェイのためでしかあり得ない』――そういう意味が隠されていた。


 リュイセンの苦渋の思いを理解したエルファンは、リュイセンの選択を認めたのだ。だから、ルイフォンに対して『たもとを分かった』という聞こえのよい言葉で押し切った。


 そして、ルイフォンの中でくすぶっていた『メイシアへの焦燥』と『リュイセンへの憤怒』という、ふたつの感情を昇華させ、『メイシアの救出』に向かって邁進すべく、ルイフォンを〈ベロ〉のもとへと連れて行ったのだ。


「けどな! リュイセンは、俺に相談すべきだった! メイシアや、ミンウェイには黙っていてもいい。でも、俺だけには言うべきだった! 違うか!?」


 ミンウェイが、びくりと肩を上げるが、ルイフォンは構わず続ける。


「リュイセンが、どんなネタで脅されたのかは分からない。でも、俺に相談することを選ばずに、俺のメイシアを奪った! ならば、あいつは俺の敵だ!」


 癖のある前髪の隙間から、鋭い猫の目が光る。逆毛を立て、今にも飛びかかりそうな形相で、ミンウェイを睨みつける。


 ミンウェイは短く息を呑み、ひるんだように、わずかに身を引いた。


 だが、それは一瞬のことだった。すぐに鮮やかな緋色を翻し、ルイフォンにずいと迫る。


「ルイフォン! あなたが、そうやってリュイセンを憎んでいるのも、間違っているわ! こんな事態、誰も望んでいないはずよ!」


「間違ってなんかねぇよ!」


「いいえ! 間違いよ!」


 ルイフォンの反論を、ミンウェイが高い声をかぶせて打ち消す。泥沼の水掛け論になりつつあるのが分かっていても、どちらも引くことはできない。


「メイシアも、リュイセンも取り戻す。それから、お父様と――〈ムスカ〉と決着をつける。これが、私たちが今すべきことではないの?」


「そんな、おめでたい綺麗ごとなんか、あり得ねぇよ!」


 ルイフォンがそう言い返したときだった。


 不意に、がちゃりと。


 ドアノブをひねる音が響いた。


「――!?」


 常に鍵のかかっていない、ルイフォンの自室。いつでも、誰でも、拒むことのない部屋。――しかし、廊下まで聞こえているであろう口論のさなか、わざわざ乗り込んでくる物好きとは、いったい……。


 ルイフォンは勿論、普段は気配に敏感なはずのミンウェイさえも、驚きの顔で音の発生源に注目する。彼らの視線の先で、その扉は、ためらいの欠片も感じぬ滑らかさで、すっと開いた。


 最初にひょこりと覗いたのは、手入れを知らぬ、ぼさぼさ頭だった。


「おいおい。死にそうな怪我人だと聞いていたんだが、随分と元気そうじゃねぇか」


 見るからに凶悪な三白眼が、にやりと歪む。その姿を見た瞬間、ミンウェイが叫んだ。


「緋扇さん!?」


「ミンウェイ、そいつのどこが重傷なんだ? あんた、藪医者ヤブなのか?」


 へらへらと笑いながら、警察隊の緋扇シュアンが部屋に入ってきた。


 ルイフォンは、むっと眉根を寄せた。


 確かにシュアンなら、話の途中に断りもなく、それどころか、さも当然と平気で割り込むだろう。何故なら彼は、ミンウェイの加勢に来たのだろうから。


 見た目に反して、シュアンが案外いい奴だということは知っている。


 だが、はっきりいって、今は単なる邪魔者。


 ――否、迷惑な妨害者だ!


「よう、ルイフォン。ハオリュウの代わりに見舞いに来てやったのに、なかなか手厚い歓迎だな」


 ルイフォンの渋面を楽しげに皮肉りながら、シュアンはテーブルから椅子を引きずり、ベッドサイドにやってきた。


 ルイフォンとしては、すぐにも追い出したい。しかし、何かと世話になっていることもあり、とりあえず『帰れ』のひとことだけは、かろうじて呑み込んだ。


「まぁ、有り体に言えば、俺は立ち聞きしていたわけだけどさ」


「……」


 堂々とした態度に、ルイフォンは、もはや何も言う気になれなかった。故に、片腕で起こしていた体を倒し、要望通りの怪我人らしさを演出する。――無言の『帰れ』だ。


 だがそれは、シュアンを見くびる行為だったと、すぐに気づくことになる。


 沈黙のルイフォンに、シュアンは調子に乗ったように続けた。


「ルイフォン。あんた、さっき、『リュイセンが、どんなネタで脅されたのかは分からない』って言っていたよな? それって、『〈フェレース〉』としてどうなのさ? 凄腕の情報屋だと聞いているんだけどよ。さすがの〈フェレース〉も分からねぇ、ってか?」


 妙に甲高い、挑発的な声が耳朶を打った。


 情報屋〈フェレース〉をなじられ、ルイフォンは反射的にベッドを飛び起きる。


「てめぇっ」


「メイシア嬢を奪われて、あんたが気が立っているのは分かるさ。だがそれで、視野が狭くなったら阿呆だぜ?」


 反応を見せたルイフォンを、シュアンがせせら笑う。


 こちらを見つめる眼光が、有無を言わせぬ凄みをまとった。口角を上げた悪相に、ルイフォンは不覚にも一瞬、たじろぐ。


「脅されたネタさえあばいちまえば、リュイセンは味方に戻る。――そしたら奴は、『難攻不落の敵地に、先だって潜入成功している、頼もしい仲間』になるんだぜ?」


 血色の悪い凶相が、からかうように、にたりと緩んだ。


 軽口を叩いているようでいて、しかし、シュアンの抜け目のない三白眼は笑ってなどいなかった。



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