di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~

『記憶の保存』と『肉体の再生』で死者は蘇り、仕組まれた出逢いが運命の輪環を廻す
月ノ瀬 静流
月ノ瀬 静流

2.猫の系譜-3

公開日時: 2020年12月3日(木) 22:22
文字数:3,286

 ふつりと糸の切れた操り人形のように、ルイフォンはソファーに倒れ込んだ。


「ルイフォン!」


 執務室に、メイシアの悲鳴が響く。


「――そうだ。お前の母キリファは、〈天使〉だった」


 遅れて、イーレオの低い声がかぶさる。


 崩れ落ちたルイフォンは、魂が抜けたかのように無表情だった。背もたれに身を預けることで、やっと体を起こしている……。


 ――自分から訊いた。確信を持って尋ねた。


 なのに彼は、心臓が凍りついていくような衝撃を受けていた。推測することと、それが正しいと断言されることの間には、大きな隔たりがあることに初めて気づいた。


 隣では、青ざめたメイシアが、今にも泣き出しそうな顔で彼を見つめている。


「黙っていて悪かった――と言うべきか?」


 肘掛けに肘をついたまま、イーレオは肩を落とした。


「だがな……。別に、隠していたわけじゃない。キリファ自身が言わなかったことを、俺が勝手に言うのも違うだろう?」


 寂寥を帯びた目で、イーレオが溜め息をつく。


 その目がちらりと、同じく昔を知る長子エルファンを見た。彼ら父子は、そっくり同じ顔をしていた。


「それでも、お前には言っておくべきだったかもしれんな……。――部屋に帰って少し休め。今日はこれで解散とする」


「……っ」


 ルイフォンは口を開けた。けれど、声が出なかった。


 困惑を見せながらも、一同が腰を浮かせ始める。その光景を、彼の目はただ虚しく映す。


 ――このまま部屋に戻って休めだと? 納得できない。


 親父はまだ、何かを知っている。どんな些細なことでもいいから、知っていることをすべて吐き出してもらうまで、解散なんて認められない。


 心は強く、そう訴えているのに、体が動かない。


 そのとき――。


「お待ちください!」


 凛とした高い声が、皆の足を縫い止めた。


「ルイフォンの質問は、まだ終わっていません」


 メイシアが綺麗に足を揃えて背筋を正し、その場に留まり続けるべきだと示す。膝に載せた手は、小刻みに震えている。けれど彼女は、それを握りしめることで必死に動きを抑えていた。


「立場もわきまえず、申し訳ございません。でも、まだ、ルイフォンが……」


「メイシア……」


 ルイフォンは呟いた。


 その名前は、凍った体を溶かす呪文だったのだろうか。


 動かなくなっていたはずの腕が、すっと動いた。彼女の肩を抱いて、胸元に引き寄せる。彼女の瞳からこぼれかけた涙を、そっとシャツで拭く。


わりい、俺としたことが取り乱した。……さすがにショックだったからな。すまん」


 いつもの調子に戻ったルイフォンに、皆がほっと胸をなでおろした。


 そうして一同が席に戻る。


 ミンウェイとメイシアが、ワゴンに用意してあった冷たい茶のおかわりを配り、仕切り直しとなった。






 ルイフォンは喉を湿らせてから、再び口を開いた。


「親父……。〈天使〉って、いったいなんだ?」


 声は引きつり、かすれていたが、瞳はしっかりとイーレオを捕らえていた。


「〈天使〉とは、脳という記憶装置に、記憶データ命令コードを書き込むオペレーター。いわば、人間に侵入クラッキングして相手を乗っ取るクラッカーだと――キリファが言っていた」


「あぁ……」


 すとん、と。ルイフォンの胸の中に、何かが落ちた。


 母がクラッカーだったことには、ちゃんと意味があったのだ。


 無機物のコンピュータと、有機物の人体と、勿論、違いはあるだろう。けれど、どこかで同じ理屈を使っている。そういうことだろう。


「〈七つの大罪〉は古くから、人間の脳内介入という技術――〈天使〉の研究をしていた。人間の体に『羽』を取り込ませることによって〈天使〉となるらしい」


 イーレオの低音に、ぴんと空気が張り詰める。


 誰かがごくりと唾を呑んだ。その音が、妙に大きく聞こえる。


「羽は、〈天使〉と侵入クラッキング対象の人間を繋ぐ接続装置インターフェースであり、限度を超えて酷使すれば熱暴走を起こす」


 イーレオの声が、寄せては返す。


 それは、さらさらとした砂地の足元を、すくっては崩していく波のようだった。


「たいていの〈天使〉は、ほんの数回の介入を行うだけで限界を迎えて死に至るそうだ。……〈天使〉とは、そんな儚い存在だ」


「じゃあ、母さんは……? 母さんは死にかけていたのか? そんな馬鹿な」


 母の、あの息子を小馬鹿にしたような顔の下で、実は苦しんでいたなんて思えない。彼女は我慢なんてちっともしない。自由で奔放で、まさに猫のような人だった。


 ルイフォンの感情は、顔に出ていたのだろう。イーレオがわずかに笑んだ。


「キリファは『特別』だ。並外れて、羽と相性が良かったらしい。だから、〈悪魔〉でもある〈天使〉という意味合いで〈堕天使〉と呼ばれ、〈七つの大罪〉から名を貰った」


「それが、『〈フェレース〉』……」


「そうだ」


「……なら、どうして母さんは〈七つの大罪〉を出たんだ? 決して待遇は悪くなかったはずだろう!?」


 それは、ずっと疑問に思っていたことだ。


「キリファを実験体とした〈悪魔〉――〈スコリピウス〉が、〈堕天使〉の秘密を解明するために、キリファを解剖しようとしたらしい」


「なっ……!」


 驚くと共に、納得もする。それならば、逃げ出して当然だろう。


 そのとき、ぱりん、と不可解な音が響いた。


 何が起きたのか、ルイフォンは即座には理解できなかった。


 だが、一瞬遅れて、ミンウェイの「エルファン伯父様!?」という鋭い悲鳴が聞こえ、はっとする。


 エルファンが、手にしていた硝子のグラスを握りつぶしていた。掌の中でグラスが半分ほどの大きさになり、溶け残っていた氷と硝子の破片が、血の混じった茶の中で仲良く揺れていた。


「ああ、失礼」


 皆の注目を浴びていることに気づいたエルファンは、こともなげにグラスをテーブルに置き、そばにあった手ふきで掌を拭う。


 そして、実につまらなそうに吐き捨てた。


「キリファは、あの男を――〈スコリピウス〉を愛していた」


「エルファン!?」


 ルイフォンは叫ぶ。


 迂闊だった。


 母のキリファは、エルファンのもと愛人だ。母の話に何も感じないわけがないのだ。


「『愛していた』と言っても、はたから見れば、ただの思いこみだ」


 無表情にも、この上なく冷酷にも見える顔で、エルファンが言う。


「〈スコリピウス〉は、キリファをごみ溜めのような生活から拾い上げ、〈天使〉の能力を与え、学をつけてやった。そして『愛している』と囁き続けた。――当時のキリファは、娼館の外の世界を知らない、十五かそこらの小娘だ。〈スコリピウス〉に精神を支配されて当然だろう」


 エルファンの低い声には深い憎悪が含まれていた。


 このときになって初めて、決して動じないと思っていた異母兄が感情に揺り動かされていることに、ルイフォンは気づいた。


「〈スコリピウス〉はキリファが怖くなったのさ。彼女が本気になって〈天使〉の能力を使えば、自分のほうが支配されることに、今更のように気づいた。だから、研究のためと称し、解剖という形で彼女を殺そうとした。……酷い裏切りだな」


「エルファン……」


「私が迎えに行ったんだよ。――助けを求めてきた〈フェレース〉をな」


 呆然と呟くルイフォンに、エルファンが言う。まるで、心に溜まっていたものを吐き出すかのように、脈絡もなく。


「〈スコリピウス〉の研究室で、私は彼女の〈天使〉の能力を見た。圧倒的だった。彼女は無敵だった。――逃げるだけなら、鷹刀の助けなど彼女には必要なかった」


「なら、どうして母さんは……?」


「〈七つの大罪〉を捨て、〈天使〉の能力を使わずに生きたいと思ったんだろう。だから、自分を保護する相手に鷹刀を選んだ。外の世界を知らない足の不自由な小娘が、普通に生きていくのは難しい。けれど、〈七つの大罪〉を敵視している鷹刀なら、クラッカー〈フェレース〉として重宝されることが期待できた。実際、そうだったしな」


 エルファンは視線を落とした。


 その仕草は、彼らしくもなく、余計なことをいろいろと喋ってしまったことを悔いているかのようだった。


 けれど最後に、ぽつりと言う。


「私が彼女の〈天使〉の能力を見たのは、助けに行ったときの一度きりだ。だから、彼女は〈天使〉などではない……」


 その低い声からは、感情の色が綺麗に抜け落ちていた。無色透明であるが故に、彼の心が透けて見えた……。


 やがてイーレオが解散の号令をかけ、この場はお開きとなった。


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