di;vine+sin;fonia ~デヴァイン・シンフォニア~

『記憶の保存』と『肉体の再生』で死者は蘇り、仕組まれた出逢いが運命の輪環を廻す
月ノ瀬 静流
月ノ瀬 静流

5.夢幻泡影の序曲-2

公開日時: 2020年11月18日(水) 22:22
文字数:3,785

 ハオリュウの意識は朦朧としていた。


 かすかに開いた目が、悪鬼と化した父の顔を映す。それを恐ろしいとは思わなかった。ただ、せめて道連れにしなければ、と焦っていた。


 けれど、懸命に腕を振り上げても力は乗らず、殴りつけたところで、まるで効果がない。


 絞めつけられた喉が気持ち悪かった。嘔吐感がこみ上げる。 


「お父様、やめて!」


 近くで、異母姉メイシアの叫びが聞こえた。


 いつの間に、こんな近くまで来ていたのだろう? ハオリュウはそう思い、はっとした。


 ――姉様、危ない! 来るな!


 失いかけた意識が、急にはっきりとした。


 異母姉の唇は震えていた。突然、異母弟が父に銃を向け、父が異母弟の首を絞めていたら、混乱するのは当然だろう。


「だ、誰か……!」


「待て! これには、わけが……」


 メイシアが助けを呼ぶ。その声に動揺したコウレンの手が緩む。


「ねぇさ……、にげ、てっ……」


 ハオリュウは咳き込みながら、懸命に声を出した。


「とぅさ……、かげ……」


 その瞬間、どす黒い顔をしたコウレンが信じられないほどに素早く動き、ハオリュウの手から拳銃を奪った。そして、ひと呼吸する間もなく、引き金を引いた。


「駄目――――!」


 メイシアの絶叫――!


 銃声よりも、衝撃が、激痛が、ハオリュウの五感を覆い尽くした。


 耳の中が、轟音に満たされている気がするのに、何も聞こえず。


 目の前が、何かの色で埋め尽くされている気がするのに、何も見えず。


 ……漂っているはずの硝煙の臭いさえも、感じ取れない。


「この、こいつ――っ!」


 コウレンが悪罵あくばした相手は、ハオリュウではなかった。


 ――メイシアだった。


 彼女は咄嗟にコウレンの腕にしがみつき、銃口をそらした。心臓を貫くはずだった弾丸は狙いを外し、しかしハオリュウの太腿を撃ち抜いたのだった。


 どくどくと、物凄い勢いで血が流れ出るのを、ハオリュウは感じた。


「ハオリュウ! しっかりして!」


 叱責のようなメイシアの叫びが、ハオリュウの耳朶を打つ。


 撃たれたのは足だ。……致命傷にならないはずだ。…………異母姉が守ってくれたのだ。……だから大丈夫。…………それよりも、早くこの場から彼女を逃さないと……。


 そんな思いが、彼の頭をぐるぐると駆け巡る。


「ハオリュウ!」


「邪魔するな!」


 コウレンがメイシアを振り払った。華奢な彼女は、小さな悲鳴を上げて突き飛ばされる。


「ハオリュウは、もはやハオリュウではない! 斑目一族に囚えられている間に、おかしな洗脳をされたのだ!」


 ハオリュウは耳を疑った。


「そいつはハオリュウの姿をしているが、わしを殺しに来た暗殺者だ! わしを殺そうとしているところを、お前も見ただろう?」


「な……に、をっ……!」


 そんなハオリュウの呟きは、コウレンの大声に掻き消される。


「斑目一族にはそういう恐ろしい技術があるのだ! わしは囚えられているときに、それを盗み聞きした!」


 コウレンは――コウレンの中にいる厳月家の当主は、ずる賢さにおいては決して侮れない人物だった。だから、ハオリュウと自分の境遇をすり替え、もっともらしい説明をすることで、メイシアを味方につけようとしている。


〈影〉が狡猾な笑みを浮かべ、ハオリュウを見下ろす。


 優しい父の顔が、卑劣な悪巧者あくこうしゃの顔に染め替えられていく……。


「ふざけ……る、な!」


 腹の底から、怒りが湧いてきた。純粋な嫌悪に、肌がぴりぴりする。殴り殺してやりたい――!


 ハオリュウは、両腕で上半身を起こす。撃たれた足が床をこすり、赤い筋を描く。


 美しい文様を持つ絨毯に、酸鼻な装飾が施された。けれど、そんなのは今更だった。絨毯の滑らかな毛足は、撒き散らされた花瓶の水と、無残に踏みつけられた花の残骸に、とっくに犯されている。


 足の痛みで遠のきそうになる意識を叱咤し、両手で這うようにコウレンへと向かう。飛散した花瓶の欠片が掌に食い込み、皮膚を裂いた。


 許せなかった。こんな男が父を穢すことなど、断じて許せなかった。


 ――と、ハオリュウ阻むように、メイシアが割り込んだ。


「お父様は、〈影〉のことをご存知なのですか?」


 メイシアは緊張気味の、けれど冷静な声で尋ねた。


「お前も、知っているのか?」


「はい。イーレオ様を狙って送り込まれた〈影〉について、先ほど緊急の報告会が行われ、詳しい説明を受けました」


「どい、て……!」


 かすれたハスキーボイスに苛立ちが混じる。


 異母姉は、〈影〉である父に、〈影〉の話をしている。何故だ!? そいつこそが、〈影〉であるのに――!


 けれどハオリュウの声は、異母姉に聞こえなかったのか。彼女はまったく動かなかった。


「お父様の部屋に来る前、お茶をいただこうと思って厨房に行ったんです。そしたら、メイドに言われたんです。『お父様はハーブティーがお好きなんですってね。異母弟さんが教えてくれましたよ』と」


 ハオリュウとコウレンが、同時に息を呑んだ。ハーブティーは、父が〈影〉なのか否かを見極めるために、ハオリュウが使った手段だった。


「お父様はハーブティーが苦手なのに――ハオリュウがそれを知らないはずがないのに。おかしいと思ったんです」


「そうだ! そうなのだ! このハオリュウは〈影〉なのだ!」


 コウレンが高笑いでもしそうな勢いで、声を張り上げる。


 まさかとの思いが、ハオリュウを貫いた。まさか、異母姉に疑われるなんて……。惨めな床の上から、ハオリュウは愕然と彼女を見上げる。


 そのとき。


 自然に下ろされていたメイシアの両手が、少しだけ横に広げられた。まるで異母弟を隠すかのように……。


 ハオリュウは、その後ろ姿を知っていた。子供のとき彼を庇った背中だった。まだ彼の背が彼女よりもずっと低くて、ちょうど今みたいに見上げていたころの――。


 メイシアは、コウレンと向き合ったまま話を続ける。


「それから、ハオリュウのところに野蛮な警察隊員が尋ねてきた、とも聞きました。斑目は警察隊を抱き込んでいましたから、何か悪い相談をしていたのではないかと」


「それだ! だから、こいつはわしの命を狙ったんだ!」


 メイシアの話を強引に都合よく結びつけ、コウレンが自身を正当化する。喜色を浮かべるさまは、とても元厳月家の当主とは思えないような小者の様相をしていた。


 そんな醜い嗤いを聞きながら、ハオリュウは異母姉の意図を正確に受け止めていた。


 彼女は、ハオリュウの行く手を遮ったのではなく、無謀に立ち向かおうとした異母弟を守ったのだ。銃を持った相手を刺激しないよう、細心の注意を払いながら。状況は理解していると異母弟に伝えながら。


 異母姉の、無言の声が聞こえる……。




 ――〈影〉という技術は報告で聞いたから知っているわ。


 警察隊員の緋扇シュアンさんと会ったのなら、ハオリュウも知っているのよね?


 ハーブティーをお父様にお出ししたのなら、あなたもお父様が〈影〉ではないかと疑ったんでしょう?


 そして、今、あなたとお父様が敵対しているということは……お父様は、やはり〈影〉にされてしまった、ということなのね……。




 ……異母姉も、気づいてしまった。


 ハオリュウは、目の前が真っ暗になるのを感じた。


 聡明な異母姉が〈影〉という技術を聞けば、すぐに感づくのは分かっていた。だから、急いでいた。


 なのに危機に陥り、大切な異母姉に守られるなんて……。


「ともかく、わしを殺そうとする〈影〉は、始末しないとならんだろう」


 コウレンが、ひときわ声を張り上げた。愉悦すら含んだ嗤いが頬を吊り上げる。


「メイシア、危ないからどいていなさい」


「……っ」


 メイシアは小さく声を漏らした。


「メイシア?」


「……どけません」


「? どうした?」


 彼女の体は震えていた。長い黒髪がさらさらと揺れていた。


「〈影〉は、『あなた』でしょう……?」


 異母姉の顎から、光る雫が落ちてくるのを、ハオリュウは見た。それは、床に散らばる硝子が放つ、無機質な光とは対極の輝きをしていた。


「もう乱暴なことはやめてください。先ほどの銃声を聞きつけた人が、こちらに向かっているはずです。ここは凶賊ダリジィンの屋敷。戦闘のプロです。父の体を持った『あなた』が敵う相手ではありません」


「こ、この……!」


 コウレンが真っ赤になって叫ぶ。


「ええい! ともかく、わしの命を狙ったこいつは殺す!」


 コウレンが癇癪を起こしたように言い捨てた。銃を握りしめ、メイシアを押しのける。


 ――その銃口をメイシアが掴んだ。


 そして強引に引き寄せ、自分の胸に押し当てた。


「な……っ!?」


 コウレンが目を見開く。


 床に倒れているハオリュウは、一瞬遅れて異母姉の行動に気づいた。だが、その真意は理解できない。


「あなたが銃を向けるべき相手は、私です」


 メイシアが凛とした声を放つ。


 美しくも、おそろしい戦乙女の姿が、そこにあった。


「生き残りたければ、ハオリュウを殺すのではなく、私を人質に取りなさい」


「どういうことだ?」


 コウレンの濁った目に疑問が浮かぶ。


「言ったでしょう? ここは鷹刀の屋敷です。ここでは『あなた』には、なんの権力もありません」


 黒曜石の瞳がコウレンを捕らえ、その視線だけで、彼の体の自由を奪う。


「ハオリュウに危害を加えたら、私は鷹刀の力を借りて『あなた』を殺します。――私のことも殺したら、ルイフォンが『あなた』を許すはずがないでしょう。地獄の果てまで追っていくはずです」


「……あ、……ああ!」


 コウレンは――コウレンの皮を借りただけの〈影〉は、初めて、ここが敵地の真っ只中であることに気づいたのだった。


読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート