アスターはその光景を目の当たりにした時、自身の目を疑った。
長く続いていた小きざみな振動がぴたりと止み、心配になって駆け出したその矢先のことだ。
たどり着いた階層はそこら中傷だらけで、戦闘の激しさを思わせるものだった。だが、彼が目を奪われたのはそんなどうでもいい被害状況なんかじゃない。
「リリィさんっ……!」
割れたガラスの向こうのさらに向こう側。今いる部屋から廊下を隔てて隣の部屋。窓越しに見えたその光景は、まさにリリィが襲撃者の少女に首を掴まれ、壁に打ち付けられる瞬間だった。
今すぐにでも駆け寄って助けたい。溢れる気持ちのまま後先考えずに一歩踏み出そうとして、しかしアスターはすぐに冷静になった。
理性が勝ったわけじゃない。見えたからだ。追い詰められて殺されそうになっているこの状況下で、前だけを見据え続けている彼女の瞳が。じっと耐えながら勝機を掴む瞬間を逃すまいとする、力強い眼光が見えたからだ。
(まだ負けてないんだ……)
アスターは信じた。彼女の意思と、決意を。
そして、一瞬の攻防の後――。
(勝っ……た……?)
最後に立っていたのはリリィだけだった。彼女が一体何をしたのかわからなかったが、襲撃者はもうこれ以上何もできないように見えた。
(勝った……勝ったんだ……!)
嬉しくなって、アスターは駆け出す。部屋を出て、廊下を横切り、彼女の待つ部屋へ。
出入口へのわずかな距離すら遠く感じる。早く姿を見せて、勝利の喜びを分かち合いたい。きちんとこの世界で出会って、これからのことを話したい。
高鳴る鼓動を原動力にして駆け抜けながら、ちらりと横目で様子を盗み見た。それは何気ない仕草でしかなかった。
だが、その何気ない行動が明暗を分けた。
「危ない……っ!!」
咄嗟に叫ぶアスター。視線の先では、リリィが少女に触れようとしているところだった。
「……!?」
声に気づくリリィ。伸ばしかけた腕を止め、一瞬の判断で体をわずかに捻る。
ニタァ、とおぞましい笑みが見えた気がした。だらりと脱力していた少女の背中から、どす黒いオーラのようなものが吹き出す。おそらくそれは錯覚だ。けれど無垢なる少年には、その後ろ姿が悪魔にしか見えなかったのだ。
そして、響いたのは鈍い音。
赤黒い何かがリリィの体を貫き、生えていた。
「え……」
ぽかんと、間抜けな声がこぼれた。
「くっくっくっ……」
小刻みに肩を揺らし、少女が笑い出す。
「まだ終わってないわよ……ねェ?」
リリィは何も言わない。無言で、何かに肉体を貫かれた姿勢のまま、じっと止まっている。時の流れから置き去りにされたように。死してなお、立ち続けることを諦めないとでも言うかのように。
「そんな……嘘だ……?」
呆然とするアスターの目の前で、悪魔の少女がばたりと落下する。リリィの戒めから解き放たれたのだ。
「痛いじゃないの……急に落としちゃ、だめよ……?」
むくりと立ち上がりながら、肝が冷えあがるほどの呪詛を吐く。
――どうしよう、どうすれば、どうすればいいんだ。
目覚めたばかりの少年アスターは無力だった。彼女に追いついて助けになろう、なんて考えは甘かった。彼はただの人間なのだから。
たとえ天才の血を引いていようと、力こそが正義となるこの戦場で。力無き少年は立ち尽くすことしかできないのだ。
「……そ、れ、は……失礼、しました、ね……」
だが。
ぽつり、ぽつりと。赤黒く燃え盛る炎を沈めるが如く、弱々しくも大地に染み渡る声が聞こえた。
リリィだ。彼女は、まだ生きていたのだ。
「アスター、さん……ありがとうございます。おかげでなんとか、致命傷は回避、でき、ました」
ゆらり、彫像となっていたリリィが動き出す。
完全に止まっていたのは、傷の修復に全てのリソースを割いていたからだった。
「リリィ! だ、大丈夫なの!? その、怪我は……!」
「ええ、ご心配には及びませんよ……カタナで貫かれた程度の傷……機械人形たるネーヴァにとっては……」
言いながら、ゆっくりと腕を動かし、背中に生えている物体に手を伸ばす。彼女の体を貫いていたのは、悪魔の少女が操ったカタナだった。
刃の部分をがしりと掴み、一捻り。そして、一気に引き抜く。血は吹き出さなかった。だがそれゆえに、あまりにも痛々しい光景だった。
「はぁっ……はぁ……まったく、私としたことが……クストゥスを操るのに腕など不要……油断しました」
カラン、とカタナを投げ捨てる。
徐々に回復していくリリィの姿を見つめながら、少女がニヤニヤと笑っていた。その笑みに引き寄せられるように、放り投げられたカタナが自らの意思で彼女の元へとかえっていく。
「さあ、第二ラウンドといきましょう、ねェ? 観客もついたことだし」
悠然と立ち、カタナの切っ先を真っ直ぐリリィに向ける少女。
その時、アスターは不思議な感覚に陥っていた。
(なんだろう……今一瞬、彼女から凄く澄んだ雰囲気を感じた……あんなに濁った瞳をしているのに)
その直感は、決して間違ったものじゃなかった。
「いいえ……その必要はありません。あなたには、目覚めて、もらいます」
「目覚める? なんのことかしら?」
「やはり、ご自分ではお気づきになられていないご様子」
「ふん、戯言ね……いいから始めま……しょウッ!!」
リリィが続きを言う前に、少女が襲いかかる。
なんという瞬発力だ。目にも留まらぬ速さで少女は肉薄し、一閃する。横薙ぎの一撃。リリィは慌てて屈み、それをなんとか回避する。
「まだ、まだァ!!」
「く……っ」
次々に繰り出される斬撃。わずかでも触れれば両断されかねないほどの鋭さ。風を切る音が遅れて聞こえてくるほどに、残像が無数の軌跡として光り輝くほどに、彼女の攻撃は苛烈だった。
だがリリィも負けてはいない。あの傷だらけの体で、最小限の動きで攻撃を躱し、同時に糸を手繰り致命の一撃を逸らしていく。
目にも留まらぬ攻防、とはまさにこのことだった。
観戦者となったアスターもこの攻防の行き着く先を忘れ、ただただ彼女たちの美しい剣舞に見惚れてしまっていた。
だが。
始まりがあるものには全て、終わりがやってくる。
永遠に続くかに思われた超高速の戦闘は、あっけない幕切れを迎えた。
ひゅん! と一際鋭い一撃が放たれる。当然、リリィはそれを糸の操作でいなすつもりだった。
けれど。
「……っ!」
わずかに歪む顔。蓄積したダメージが、彼女の演算速度を鈍らせたのだ。
遅れる動作。それはほんの刹那に満たない遅延。だがネーヴァたちの戦いにとって、刹那という時間はあまりにも長すぎる。
一閃が、リリィの体を捉えた。
「リリィ!!」
戦闘が止まった。あれほどうるさかった部屋は無音に支配され、誰一人として笑っていない。
勝者たる悪魔の子でさえ、ただ無表情で、じっと見つめていた。
「……終わりね」
憑物が落ちたように、少女がぽつり呟いた。
終わり。
……終わり?
アスターはまだ、信じたかった。仮想空間で見せたあの逆転劇を、絶望的な運命を覆す一手を彼女が持っていると、信じたかった。
だが、全ての物語がそう都合よく進むわけじゃない。
それがどんな結末だろうと、終わるときには終わってしまうのだ。
崩れ落ちかけるリリィの体を、少女のカタナが再び貫く。無造作な一撃。ただゆっくりと突き刺すだけの、なんの飾り気もない動作。
今度こそ、終わりだ――。
「ええ、終わり、ですとも。私も、あなたも……」
死んだはずのリリィが呟いた。
「悪あがきね」
少女が返した。
「ええ、悪あがきです。機械人形に命はありませんから」
「そうね」
淡々とした会話だった。
死にゆくものと、命なき生者。敵同士だったはずの二人は命のやり取りを経て、奇妙に通じ合っていた。
ぱちり。
静謐で厳粛な二人の時間を邪魔するように、壊れた機械が弾けた。
それが合図だった。
「最後に、私の能力をお見せしましょう……ただのネーヴァではない。私の能力を」
「やっぱり、あなたもエンシスなのね」
「ええ。今や不完全なものとなった、私のエンシス能力――」
そう言って、リリィはじっとアスターを見つめた。自然と二人の視線が交差し、何かが繋がった感覚が走る。同時に、少年の中に何かが流れ込む……。
(そっか、そうだったんだ)
とても落ち着いた気持ちで、アスターは自身の為すべきことを理解した。
その表情は、とても悲しく、苦しげだった。
「大丈夫です、アスターさん。あなたもよく知っているように、私たちネーヴァはただの機械人形……痛みも苦しみも、感じません」
「何を言って……ッ!!」
「もう、逃がしま、せん、よ……?」
自身を貫くカタナを掴み、糸を操りカタナと少女を固定する。リリィが最後にしたのは、たったそれだけの行動だった。
たったそれだけの行動で、少女の動きの全てが封じられた。
「こんなやり方間違ってる……もっとうまくやる方法はあったはずなんだ……」
ゆっくりと歩み寄りながら、アスターは嘆く。
彼女を犠牲にしてしか得られない未来なんて、望んでいなかった。
「でも……それがリリィ、君の望みなら……産み落とされた者の使命は果たさなきゃいけない。そうだよね」
遠く離れていた二人との距離が、ゼロになる。
彼女たちの目の前で立ち止まったアスターはおもむろに腕を伸ばし、そっと触れる。
「ええ……約束、果たせなくてごめんなさい」
触れたのは、悪魔に取り憑かれた少女の体だった。
「な、に、を……ッッ!!」
少女の顔が、恐怖に歪む。本能的に、直感的に、彼女は、いや、彼女の中に潜む何かが、恐れを抱いているのだ。
「大丈夫、キミは助かるよ。それが僕の……リリィがくれた僕の力だから」
「戯言……を……ァ……ァアアアアア!!!」
アスターは目を閉じ、そっと念じた。途端、少女が苦しげに叫びだす。同時に、体が光に包まれる。
「さあ、本当のキミに戻るんだ。名前を思い出して」
「ナ、マ、エ……ワタシの、ナマ……エ……」
「そうだよ。奪われたキミの名前を。口にするんだ」
「ナマエ……私の……名前は……」
不意に、苦しげな彼女の表情が和らいだ。
アスターはそれで、全てが終わったことを悟った。
「思い、出した……そうだ……私の名前は……エリカ……最初の子供たちの一人……剣の担い手……エリカ・ヴィーア……!!」
変化は一瞬だった。
赤黒く濁りきっていた瞳が、澄みきった輝きに満ちていく。その様は、さながら宵闇に月光が差し込むかのようで。
アスターはその瞳の向こう側に、強い希望の光を見た。美しい銀色の光。この色こそが、エリカの持つ本来の輝きだった。
こうして――長いようで短い、全ての幕開けとなる戦いは終わった。
◇
「もういいの?」
施設の出口となるエレベーターシャフトの前で、エリカが尋ねた。
「うん、これ以上ここにいても、約束を守れるわけじゃないから」
その問いかけに、アスターは振り返らずに答える。
あの戦いから、一晩が過ぎた。
エリカが名前を取り戻した後、リリィはすぐ眠りについた。同じネーヴァであるエリカ曰く、彼女は決して死んだわけではないという。
「力を使い果たして休止状態に入っただけ……まあ、あの状態じゃまた起きる保証はどこにもないのだけど」
然るべき設備で然るべき修理を行えば動けるくらいにはなるだろう、とも彼女は教えてくれたが、しかしアスターは首をふった。
「多分、彼女はそれを望んでいないと思う」
あのとき、アスターがリリィから受け取ったのは「力」に関する記憶と、わずかに漏れ出た想いだった。
それは必ずしも彼にとって嬉しいものではなかった。だが、その想いを蔑ろにしてまで、自分の願いを叶えたいとは思わなかった。
「そう。原因を作ってしまった私が言うのもなんだけど……本当に、いいのね?」
エリカは少しだけ、申し訳なく思っているようだった。
無理もない、何者かに取り憑かれ記憶を改竄されていたとはいえ、リリィに致命傷を負わせたのは他ならない彼女自身なのだから。
「何度も言わせないでよ。もう決めたんだ」
「そう……ならこれ以上は何も言わないわ」
「うん、それがいいよ」
正直に言ってしまえば、アスターも完全に折り合いがつけられたわけじゃない。ふとした瞬間に、なぜこの少女は元気に生きているのだろう、と恨みごとが漏れ出てしまいそうになることもある。
けれど、とアスターは考える。
(きっと……まだ何も終わってなんかいないから)
別に、アストロの遺した使命を果たそうなんて気になったわけじゃない。そこは決して変わっていない。
ただ一つ、アスターの中で変わったことがあるとすれば。
(リリィが……母さんが遺してくれたモノのためにも……前を向いていきたいんだ)
それはありふれた親と子の、決してありふれてなんかいない、遠い遠い過去から続く約束。
『いつか一緒に旅をしよう』
どんなに可能性が小さくとも、追い求め続ける限り、そこに続く道は決してゼロじゃないから。
だから、アスターは振り返り、手を差し出す。
「ねえ、エリカさん」
後ろに立ち自分を見つめる、その少女に向かって。
「旅をしようよ。その……僕一人じゃ、多分できないことも多いから、さ。きっと、僕たちはそのために出会ったんだ」
一瞬だけ躊躇した彼女は腰に下げたカタナに触れる。自身の存在意義を、力を振るうべき場所を探すように。
そして、噛みしめるように瞑目して――。
「ええ、そうね」
二人は歩き出した。
命なき人形と、作られた命の少年。
その旅の果に、何が待っているとも知らずに。
――第一章 楽園喪失 了
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