長い長い箱庭世界への意識投影から抜け出すと、リリィはすぐさま部屋を飛び出した。
自身のコンディションを確かめる暇すら惜しんで向かう先は、最も厳重なセキュリティに守られた部屋。パスコードを一瞬で入力し、生体認証をクリアし、最後に物理キーを差し込んで分厚い扉を解錠する。
部屋の中央には、巨大な培養カプセルがあった。暗緑色の液体に満たされたカプセルの中。彼女が確認したかったそこには、未だに人影が浮かび続けていた。
どうやら彼はまだ、目を覚ましていないようだ。
「バイタルに異常なし……よかった。これならもう少しすれば……」
またすぐに会える。そう思うだけで、リリィは自身の中に熱のようなものが湧き上がってくるのを実感した。
(ネーヴァの癖にこんなに舞い上がってしまって……まったく。はしたない人形ですね、私は。千年近く稼働して、故障でもしてしまったのでしょうか)
自嘲気味に笑ってみる。それでも、喜びという初めての感情を隠し切ることはできなかった。
生まれてくる息子の名を呼ぶ瞬間が、待ち遠しくて仕方なかったのだ。
「あと三十分、といったところでしょうか」
生命維持装置はすでにその役目を終え、培養カプセルは彼の覚醒に備えて排出プロセスの準備に入っている。リリィに出来ることはもう、待ち続けることだけだった。
「衣服の準備も、回復食の準備もバッチリです」
それにしても――。リリィは思う。まさか自分が、アスターと旅をすることになるなんて。役割を果たした後は、ただ眠りにつくだけだと思っていた。アストロにも、そのつもりでいるようにと念を押されていたくらいだ。
もちろん、ネーヴァである彼女にとって死そのものは全く恐怖の対象になりえないが……。
(あの方が取り戻したかった風景を見られないと思うと寂しくはありましたからね)
だからこそ、とリリィは決心する。
約束を果たす為、今一度立ち上がらなければならない。やらなければならないことが、あと一つだけ残っているのだ。
「待っていてくださいね」
彼女の視線の先。施設内を監視し続けるモニターに映し出されたもう一つの人影。挑戦的な眼差しでカメラを見つめる少女の元へ、リリィは歩き出す。
◇
アスター・ルードベックが目を覚ましてまずはじめに感じたのは、浮遊感だった。
地に足のつかない、夢の続きにいるような曖昧な朝。おぼつかない思考と、溶ける視界。何かを疑問に思うことすら空を飛ぶほどに困難で――彼はただ一言、あぁ……と吐き出すことしかできなかった。
惰眠を貪り続けようとする彼を、けれどこの世界は許さなかった。装置は仕様通りに動作をなぞり、予定通りに役目を果たす。カプセルを満たしていた培養液が廃棄され、保存していた中身をにゅるんと排出する。
「がはっ……、ごほ……っ!」
無機質な揺りかごから放り出されたアスターは反射的に呼吸しようとして、たまらずむせ返った。肺を満たしていた暗緑色の溶液が溢れ出て、やっとのことで正常な働きを取り戻す。
夢見心地だった少年は、それでようやく現実感を手に入れた。
「こ、こ、は……?」
視界はまだふらついていた。しかし吸い込んだ酸素が肺を満たし、血流に乗って全身を巡るにつれ、徐々に思考がクリアになっていく。
「いっ……た」
途端、万力で締め付けるような鈍い痛みが走る。思わず抱えた頭。けれどその痛みも、ほんの数秒で和らいでいく。
「そうだ……僕は……って、うわ!」
何かを思い出そうと自身の体を見下ろしたアスターは思わず悲鳴をあげる。慌てて周囲を見回し、両手を必死にクロスさせて下腹部をおさえながら、誰にも見られていないことを確認する。
(よ、よかった〜〜……なんで僕裸なんだろう……)
アスターは全裸だった。全身肌色のすっぽんぽん。まさしく、生まれたままの姿。赤ん坊という表現がお似合いなくらいに、顔を真っ赤に染め上げた。
(えっと、何か着られるものは……)
恥ずかしさのあまり心の中で呟きながら、周囲を探索する。幸いなことに、それはすぐに見つかった。部屋の端に据え付けられた簡素な金属製のテーブル。その上に、綺麗に折りたたまれた衣服一式が置いてあった。
(誰のものか分からないけど、借りていいよね……)
もしも駄目だったらあとで持ち主に謝ろう。そう言い訳しながら、手をのばす。恐る恐る通した袖は、品質の割に着心地がよく感じられた。
「あれ? サイズがぴったりだ……たまたま、かな?」
隠すべきものを隠せたことで、心に余裕が生まれたのだろう。疑問を口に出しながら、状況を確認していく。
「知らない場所……だよね」
今いる場所に、心当たりがない。眠りにつく前の記憶もおぼろげだ。
おぼろげ? いや、それどころか――記憶の一切が見つからない。
「一体何がどうなって……うっ」
考えようとしたところで、再び頭痛に襲われる。思い出せ、思い出せと言わんばかりの刺激が走り、脳が活性化していく。
在りし日の風景。風の吹く丘。歪に発展した都市。鉄の匂い。ガス灯のささやかな明かり。笑い声。悲鳴。揺れる世界。誰かの嗚咽。そして――。
「そうだ、僕は……!」
吹き飛んでいた記憶がフラッシュバックし、アスターは過去を追想する。
待っている人がいる。そうだ。ここには僕を待っている人がいるはずなんだ――。
改めて部屋の中を見渡す。しかしどんなに探しても彼女の姿はそこにはなく。
アスターは、やがて自身の記憶を疑い始めた。
(全部……夢、だった?)
そんなはずはない。こんなにハッキリと覚えているのに。
けれど、けれど――。
記憶にある世界と今目の前に広がる世界。そのギャップが、どうしても彼を不安にさせてしまった。知らない技術で満たされた部屋が、この世界こそ夢なんじゃないかと、そう思わせて他ならないのだ。
ふと、気落ちした心に引きずられるように視線が落ちる。無機質なテーブル。衣服が置かれていたその場所には、もう一つだけ何かが置かれていた。
金属製のトレイと、手のひら大の密封容器。手にとって見るとそれは僅かに柔らかく、中には液体が入っているようだった。
「これは……キャップ、かな。ひねると開けられるのか……」
容器の上端には円形の突起がついていた。物は試しにと、捻ってみる。はじめにほんの少しだけ抵抗があったものの、それはすんなりと取り外せた。
「匂いは……ちょっと甘い? 飲み物……食べ物?」
好奇心に駆られるままに、そっと口をつける。上向きに持ち上げ、滑り落ちてくるのを待つ。まだ舌に触れない。じれったく思い、アスターは意を決してすっと吸い込む――。
「!!」
瞬間、目を見開く。吸い込むのを一時中断し、舌を転がる感触にこころ奪われる。
――美味しい。
風味は人工的だ。しかし複数のフルーツフレーバーを絶妙な塩梅で調整したこの風味は、初めて知る、衝撃的な旨さだった。
思わず、二度三度と吸引する。咀嚼する必要すら感じない柔らかさも相まって、アスターはあっという間にそれを飲み干してしまった。
「美味しかった……」
それにしても、と考える。
一体これは、誰がここに置いたのだろう。偶然にしては出来すぎている。この流動食に限った話じゃない。服にしたって、丁度いいサイズが用意されているなんて都合が良すぎるではないか。まるで誰かが、自分の目覚めを待っていたような……。
「あ……」
そうだ、そうだったんだ。
これは夢じゃないし、この記憶も全部本物なんだ。
あの部屋で約束をしたあの人は、ここにいるんだ……!!
(だとしたら)
部屋を横断し、機械の前に立つ。壁には、モニターがあった。しかしそこには何も映し出されていない。ただ砂嵐が舞っているだけだ。
その意味を、アスターは直感する。
「リリィさん……」
きっとこれは、彼女の優しさ。
だからこそ、彼は向かわなければならないと思った。
「待っていてくださいね」
状況は分からない。それでも、アスター・ルードベックは進み出す。
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