首都クランエ。通称――蒸気都市。その都市は、アスターたちの住む郊外の街から二時間程度の位置にあった。
からくり馬車に揺られながら眺める牧歌的な風景。草をはむ動物たちの健やかな営みに安らぎを感じつつ、なだらかな山々の連なる平原を通り過ぎると、鬱蒼と生い茂る小さな黒柩の森が見えてくる。少しだけ冷んやりとした空気を肺に送り込み、期待と不安に胸を膨らませながらこの森を通り抜けると――鋼鉄の巨人が、不意に顔を覗かせる。
それこそが、クランエを守る外壁。
昼夜を問わず上がり続ける蒸気機関の煙。高さ十メートルはあろうかという巨大な外壁の、さらにその上に鎮座するクレーンや鉄塔。ゴテゴテとした得体の知れない機巧の数々……。
アスター少年が初めてこの姿を目の当たりにしたとき、彼は並々ならぬ興奮を得たものだった。
過去に思いを馳せながら、さして厳重でもない門の警備を馬車ごと通り抜けると、少しだけ慌しげに行き交う人々の喧騒が出迎えてくれる。
この活気は少年の住む街には無いものだ。人々の前へ前へと進み続けようとするエネルギー。感情よりも合理性を重視する雰囲気。幼少期にはこのどこかおどろおどろしい空気に呑まれかけ、ちょっとした恐れのようなものすら感じていたものである。
「まだ予約の時間まで少し余裕があるね。どこか寄っていくかい?」
馬車を降りると、懐中時計を取り出した父がそう言った。母の方はお任せしますよと微笑んでいる。
それじゃあと、アスターは少しだけ考え込んでから、口を開いた。
「実は時間があったら顔を出そうかなと思っていた場所があるのですが……少し行ってきてもいいですか?」
「また何か仕事を頼まれているのかい?」
「ええ。と言っても実際にお手伝いするのは来週からなんですが……どんな様子かだけでも先に見ておこうかなって」
アスターはまだ子供だったが、幼い頃からその才能を人々に認められ、今ではからくり機巧工房のご意見番、のようなことをしていた。お手伝いというのはもちろん、その件だ。
「ふむ。せっかくの休日だし一緒に過ごしたかったが……アスター君にはそっちの方が良いだろうね」
「えと……」
「なに、気にすることはないよ。それなら父さんたちは夫婦水入らずでデートでも楽しませてもらうよ」
「そう言っていただけると助かります」
「ははは、誰にだって畏ってしまうのはアスター君の良い所でもあり悪い所でもあるな」
どことなくきまりの悪さを感じつつ、理解のある両親に感謝した。そして、まだまだこの二人には教わるべき、本からでは決して学べないようなことが沢山あるなあと強く実感した。
待ち合わせ場所と時間だけ確認して目的地に向かい始めたアスターは、しかしその途中で足を止めることになる。
(ん、なんだろうあれ……光ってる?)
視界の端に映る小さな光。ガス灯のおぼろげな明かりとも、蒸気機関で石炭が放つ熱っぽい光とも違う。もっと鮮烈で、その実シンプルで……。
気づけば、アスターは誘蛾灯に導かれるかのように行き先を変えていた。
(移動してる……)
ちらちらと見え隠れする光は人混みの中を移動していた。誰かが持ち歩いている、ということだろうか。とにかく、見失わないようにとアスターはその光に意識を集中しながら歩き続けることにした。おかげで彼の頭からはもう、時間という概念は失われてしまっていた。
(……路地裏に曲がった?)
慎重な追いかけっこがしばらく続いた後。光は小さな路地に入ると、その姿をアスターの視界から完全に隠してしまった。慌てて、駆け足で近寄る。そして、充分な確認もせずに飛び込もうとして――。
「おっと」「わっ」
路地から出てきた人影と、アスターはあわや衝突しかけてしまった。突然の出来事にお互い半歩ずつ下がって、立ち止まる。
「君、危ないじゃないの。きちんと前を見て歩きなさい」
「す、すみません」
ぶつかりそうになったのは、アスターと同じくらいの身長の女性……いや、少女だろうか。彼の身長が160センチメートル半ばだから、彼女は女性にしてはやや身長が高いらしい。すらりとした体つきで、この辺りでは珍しい黒曜の髪。その髪色によく映えるジャケットとショートパンツを身に纏う少女を見て、他の都市からきた人なのかな、と彼はなんとなく思った。
「ま、いいわ。気づけなかった私にも非があることだし。……ったく、やっぱりここじゃだいぶ制限があるみたいね……ぶつぶつ」
「……何か言いましたか?」
「なんでもないわ。じゃ、私は急ぐから」
そう言って立ち去ろうとする少女の後ろ髪を見送ろうとして、アスターは慌てて声をあげた。
「あっ! あの!」
「まだ何か?」
呼び止められた少女は僅かに苛立たしげに、しかし律儀に立ち止まって振り返る。
「……っ!」
その瞳を見た瞬間、アスターは言いようのない寒気を背筋に感じた。髪の毛と同じく真っ黒な瞳。しかしその真奥に、揺らめく濁った炎を垣間見た気がしたのだ。
「なに?」
すぐに用件を言わないアスターに、少女は語気を強める。それでようやく彼も一瞬の金縛りから解放されて、咳払いをした。
「あの、僕の他にこの路地に入ってくる人はいませんでしたか? ほんの数十秒前くらいに」
「あなた以外に? ……記録にはないわね」
「そう、ですか。引き止めてしまってすみません。ありがとうございました」
「もういい? ならいくわね」
あっという間に人混みに紛れ消えていく背中。少女はどうやら、よっぽど急いでいたようだ。
「しかし変わった人、だったなあ……」
その後少し路地を進んでみたものの、アスターが追いかけていた奇妙な光は見つからなかった。
代わりにとでもいうように、とぼとぼと表通りに出てきてから、先ほど出会ったばかりの少女のことをふと思い返す。
刺すナイフのような口調。立ち居振る舞いは鋭くまるで剣のようで、こんな平和な都市よりも戦場で散歩をしている方がよっぽど彼女にはお似合いな気がした。
(……戦場? なんだろう)
ふと自身の思考に違和感を覚える。一体そんな言葉をどこでどうやって覚えたのだろう。意識の隙間に勝手に知識を差し込まれるような、そんな感覚……。
――ゴーン、ゴーン……。
「あっ、時間!」
不意に鳴り響いた鐘の音。時を告げるその響きにアスターは我にかえった。いつの間にか、約束の時間を過ぎてしまっていたのだ。あまりにビックリして叫んだものだから、近くにいた紳士に怪訝な目で見られてしまった。
「あはは……」
とにかく、急がなければ。気恥ずかしげに笑って誤魔化しながら、アスターは慌てて駆け出した。
多分、その騒動にすぐ気が付けなかったのは、彼が時間ばかり気にしていたせいだろう。賑やかな街並みはしかし普段よりも少しばかり騒々しく、悲鳴に近い叫び声すらあがっていた。
「おい! 医者はいないのか!!」
待ち合わせ場所がようやく見えてきてアスターが息を整えるために足を止めると、ふとそんな声が彼の耳に入ってきた。落ち着いて見渡せば、蒸気とは異なる煙が方々からあがっている。血相を変えて走る人々の姿がある。鉄の匂いに混じって、ほんのりと腐臭が漂ってくる。
「一体……?」
何があったのか。近くでおろおろしながら様子を見ているおじさんを捕まえて、アスターは事情を尋ねた。
「変な人が暴れてるみたいなんだ。爆発も起きてるみたいだし、それに人が刺されて……あぁ、ちょうどあの店の前だよ……一体何がどうなってるのやら……」
おじさんが指し示した店。それはまさに、アスターが待ち合わせをしていた場所に他ならなかった。
「まさか……?」
最悪の予感が脳裏を過ぎる。とにかく、確かめなければ。急がないと。でも、もし本当にそうだったら。
いくつもの思考が次々に去来して、その場所に駆け寄ることができなかった。ゆっくりと石橋を叩いて渡るように、人ごみを慎重にかき分けて、騒動の中心へと近づいていく。
そこで目にしたのは――。
「父、さん……? 母、さん……?」
折り重なるように倒れる二つの物体。血溜まりに身を沈めていたのは、ほんの十分前まではアスターの両親だったはずのものだった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!