「そんな、この部屋に辿りつけるだなんて……ありえません」
起き上がりながら、リリィが少女を睨みつける。
「ありえなくはないわよ。現にこうして私がいるんだから」
「一体どうやって……?」
「私の演算能力を舐めて貰っちゃこまるわね。ま、あんだけ大きな綻びがあったら私じゃなくても侵入はできたでしょうけど」
遅れて立ち上がりながら、アスターも会話に参加しようとする。
「綻び……?」
「ええ、そうよ。あなたが生み出したこの世界の歪み、とでも言い換えた方がいいかしら?」
少女から返ってきた言葉は、アスターにとって看過できないものだった。
一体どういうことなのかと、リリィに視線で問いかける。
彼女は申し訳なさそうに、わずかに目を逸らしながらこう答えた。
「この世界を管理しているのは私ですが……この世界を形作っているのは私とアスターさんとの意識共有によるもの。つまり……アスターさんが私の想定していない思考に至れば至るほど、防壁が弱くなっていくのです」
では、なにか? 自分のせいで両親が死んだと、自分のせいで平和な世界が燃え落ちていくのだと。彼女らはそう言いたいのだろうか?
あまりに馬鹿馬鹿しくて、笑いがこみ上げてくる。
アスターはもう、いっそ全部なくなってしまえばいいとすら思い始めていた。
「ん……地震かしら。ここは断絶された空間だと思っていたのだけど」
不意に部屋が大きな振動に襲われる。少女は特に意に介していないようだったが、リリィは表情をわずかに歪めた。
「なるほどねぇ。彼がこの世界をより正しく認識したことで、感情の影響力が強くなっているのかしら」
「……」
少女の推測は正しかった。だからこそ、これ以上事態を悪化させるわけにはいくまいと、リリィはひたすらに黙りこくることにした。
それが余計に、まずかった。
「やっぱり――やっぱりそうなんだ……ははは……あーっはっはっは!!」
立ち尽くし、とうとうアスターは壊れてしまう。理性によって抑え込まれていた感情が、賢くあろうとし続けた彼の中に溜まっていた情動が、彼の繊細な心をガラクタへと変えてしまった。
アスターの笑い声が反響する。
その響きに連動するようにしてさらに大きな揺れが襲いかかり、壁面にひびが入る。ガン! と大きな音がして、天井から瓦礫が降り注ぐ。
「おっと。これは少しまずそうね。本当はここで始末するつもりだったけど……このままじゃ私まで巻き込まれちゃうわね」
「待ちなさい……っ!」
「悪いけど、あなたの相手は現実ですることにするわ。目的はまあ……なんとかなるでしょうし。ならなくっても、その子の肉体さえあればあの人がなんとかするでしょう」
それじゃあね、とおもむろに自身の背後の空間を斬り裂いた。そして、少女は手のひらを振りながら、空間の中へ体を滑り込ませていく。
リリィが止めようと手を伸ばしたがそれが間に合うことはなく、襲撃者は来た時と同様にあっという間に消え去ってしまった。
「くっ……追いかけないとアスターさんの身体が……でも、このままアスターさんを放っておいたら……!!」
崩壊はまだ続いていた。人形のように笑い声を上げ続けるアスター。世界はもう、彼と一体化していた。
「アスターさん……っ! アスターさん……っ! しっかりしてください……!!」
懸命に呼びかけるリリィ。どうしてもっとうまくやれなかったのかと、彼女も自身を責め続ける。
千年、この時をずっと待ち続けていたというのに……。何度も生み、何度も失敗し、ようやく成功した唯一の子だというのに……!
もうこの際だから、世界なんて救わなくてもいい。たとえ私に課せられた使命がただそれだけだったとしても……千年積もり積もったこの想いは……生みの親であるアストロに対するそれよりも、ずっとずっと大きい……!
「聞いて……お願いだから最後に私の言葉を聞いてほしいです……アスターさん……」
縋るようにアスターにしがみつくリリィ。
彼女の祈りが届いたのか、あるいはただ抱きつかれたのが鬱陶しかっただけなのか。焦点を失いつつあった彼の瞳がわずかに動き、リリィに向けられた。笑い声が一時的に止み、耳を傾けているような気さえした。
――今しかない……!
リリィは決心し、秘めていようと思っていた言葉を、想いを一斉に紡ぎ出す。
「本当に、こんなことになってしまってごめんなさい……。でもどうか、心を失わないでほしいのです。全ては罪深い、私のせいなのですから……あなたを生み出してしまった、この私こそが罰せられるべきなのです……!」
彼女の叫びに呼応するように、揺れがわずかに弱くなる。アスターもまた、じっと耳を傾け続けていた。
「先ほどはアスターさんがアストロの子孫だと伝えましたが……正確には違うのです。あなたこそ、アストロ・ルードベックその人なのです」
さらに揺れが弱くなる。ぼんやりと佇むアスターが、不思議そうに首を傾げていた。
「アストロの遺伝子情報をもとに生み出した人造生命……クローン人間とでもいうべき存在が、あなた、アスター・ルードベック。千年間の試行錯誤の末、やっとのことで完全な適合率を達成した最初で最後の成功事例が、あなたなのです」
それは、リリィとアストロの罪。目的のために手段を選ばなかった、二人の後悔の形だった。
「アストロはこう言いました。『この世界を滅ぼした罪を背負うのは自分だけでいい。だから、未来に世界を救うのは自分自身のクローン以外にありえないんだ』と。それは確かに正しい判断だと、当時の私は……いえ、数年前までの私は信じて疑いませんでした」
彼女は懺悔し続ける。
「けれど、それは決して正しい答えじゃなかった。私はこの箱庭であなたを観察するうち、気づいてしまったのです。あなたは決して、アストロなんかじゃない。たとえ遺伝子が全く同じだったとしても、あなたはあなた自身なのだと……」
一体この告白が何になるというのか。
彼が飲み込まれた、怒りと悲しみの感情に燃料を注ぐだけなんじゃないのか。
ああ、確かに、そうかもしれない。結局のところこれはリリィの言い訳に過ぎないのだから。
けれど、けれど――。
「私にとって、アスターさん。あなたは愛しい我が息子なのです。十六年間、いえ……千年間ずっと見守り続けた、愛すべき子供なのです。たとえ育ての親が私とは違う形の存在だったとしても……彼と彼女があなたに注いだ想いは、彼と彼女があなたと過ごした十六年は、私のものでもあるのですから……!!」
そう、そうだ。
リリィはこの世界の管理者だ。それはつまり、この世界に住う仮想の住人たちの記憶は、想いは、全て彼女が抱いているものに他ならない。
ようやく、気づけたのだ。両親はまだ死んでなんかいない――。
揺れが、ピタリと止まった。
「リリィさん、顔をあげて」
気づけば、少年は優しい笑顔で見下ろしていた。自身の生みの親であり、育ての親であり、そして、運命をもたらした女性を。彼はじっと、見つめていた。
「取り乱しちゃったみたいで、その……ごめんなさい。僕もまだまだ、子供みたいだ」
その目は真っ赤に腫れていた。溢れた感情が涙となって、彼を癒したのだ。
もう彼は、覚悟できていた。
「正直言ってもいいですか」
「えと……はい」
悪びれた子供のような言い方で、アスターはリリィに優しく問いかける。
地面にぺたりと座り込んでいた母親の目線に合わせるように、彼もしゃがみ込んだ。
「世界を救うとかどうとか……は、やっぱりまだピンときてません。だから、アストロの意志を継ぐかどうかは、まだわからない。けど……」
「けど?」
地震の影響でヒビだらけになったモニターを見上げる。そこには、かつて彼が住んでいた街並みが映っていた。人はもう一人も歩いていなかったが、この世界に自分が生きていたこと。それだけは揺るぎない事実なのだと彼はすっかり確信していた。
「こんな美しい風景を生み出せるリリィさんが生きていた世界を、僕はもう一度見てみたい。それがいまどんなに荒れているか、本当に救うべき世界なのか。それが知りたい。そう……思えたんだ」
「アスターさん……」
悲痛な表情のまま見上げる母親に、アスターは再び微笑みかける。もう涙は流していなかった。その目には、紛れもなく星のような煌めきが宿っていた。
決意を秘めた少年は、ゆっくり立ち上がる。
「行くよ、外の世界に。本当に現実ってところに。それでそれから、旅をしようよ。その……僕一人じゃ、多分できないことも多いから、さ。えと……か……ううん。リリィさん」
母さん――そう呼びかけようとして、アスターは失敗した。まだそこまでの勇気はなかったのだ。
けれど、それでもリリィにとっては、それで充分だった。愛した子供の優しい覚悟を受け止め、瞑目し、そしてもう一度顔をあげて……笑いかける。
「ええ、約束です……よ!」
こうして、楽園は失われた――。
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