(あ、ダメだこれ)
間近に広がる死の予感を目にした時、脳裏に浮かんだ言葉はそれだけだった。
身を引いても、かがんでも、左右に避けても。この距離から完全に回避することは不可能だと、身体が叫んでいた。足腰は固まって思い通りに動かないし、借り物の経験値は打開策をなにも教えてくれない。
アスターは今、完全に詰んでいた。
死を待つ間は時の牢獄に囚われているかのようだった。
戦闘時に感じたあのスローモーションの世界とは全く違う。ただ無力で、静かで、空っぽで……。ああ、死ぬんだなぁ……と、諦め以外の何も浮かんでこない。
永遠とはまさに、このことだった。
ふと、アスターは考える――他人とはいえ、人が死ぬ瞬間を幼いミーシャに見せることになるのは嫌だな――と。
けれど次の瞬間にはこう思い返すのだ――まあ、あの子もすぐ死ぬことになっちゃうから……気にかけたって仕方ないか――と。
(ははは……エリカさんの忠告を聞かなかった罰なのかな)
今になって、冷静さを取り戻す。命の重み。選択の重要性。感情だけで突っ走った自分自身の愚かさを。合理性というものを軽んじた自分の愚かさを、アスターは思い知る。
(せめて……僕にも戦う力があればな)
もしもの時のためにと用意したあの武器も、結局大して役には立たなかった。付け焼き刃の力なんて、結局なんの意味もないのだと思い知らされた。
仕方ないといえば、仕方ないのかもしれない。しかしそれでもやはり、悔しさを感じずにはいられなかったのだ。
(もう、諦め……)
諦めよう――そう心の中で呟こうとした。死の恐怖から逃れようと、目を閉じようとした。その時だった。
わずかに脱力して姿勢が崩れる。その拍子に、何かが服の隙間から飛び出すのがちらりと見えた。視線が自然とその影を追いかける。
(あれは……)
それは、小さな金属片。手のひらにすっぽり入ってしまうほどの小ささの、ナイフを模した金属細工。――エリカがくれた、お守りだった。
『あなたをきっと守ってくれるわ』
不意に彼女の言葉がフラッシュバックする。あの言葉をくれた時、彼女は一体どんな顔をしていただろう。果たして彼女は、不安そうな表情を一度でも見せただろうか。
監視小屋で一人で行くと叫んだ時もそうだ。エリカは一度だって、無理だから諦めなさいとは言わなかった。
それは信頼の裏返しなのではないか? あなたなら出来ると、そういう気持ちを込めてこのお守りを渡してくれたのではないか?
消えかかっていた燈に、再び炎が宿る。色あせて止まりかけていた時間が、ほのかに光を取り戻す。
まだ、終わってない。まだ、負けてない。まだ――。
「死んで……ない……っ!!」
失ったはずの活力が蘇る。倒れかけた身体を無理やり起こし、がむしゃらに体をひねる。完璧な回避なんて考えない。とにかく、命さえ繋げばいい。その一心で、アスターは腕を大きく突き出した。
直後、走り出した時間が一気に本来の速度を取り戻し、ミレスの巨大な顎門が閉じられる。そして――。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁっ!!」
苦悶の叫びが空気を震わせた。
同時に、舞い上がる鮮血。灰色の空を塗りつぶすように、鮮やかな赤が舞う。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――!!
常軌を逸した激痛。心の中がたった一つの単語で埋め尽くされ、アスターはほとんどパニック状態に陥る。
なんだこれは訳がわからない熱い苦しい痛い死ぬしぬシヌしぬ? 死んだ方がマシだ死んだ方がマシだ死んだ方がマシだ早く殺してくれ殺してくれ――!!
しかしどんなに叫んでも。どんなに涙で瞳を滲ませ、全身を脂汗で濡らしても。死という救いは訪れなかった。
彼がそう望んだように。彼がそう叫んだように――彼はまだ、死んでいなかった。
アスターは今この瞬間、確かに生きていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
数秒の拷問ののち、アスターはいくらか落ち着きを取り戻していた。過剰な痛みが極度の興奮状態を生み出し、感覚を麻痺させ始めたのだ。
呼吸を荒げながら、彼は前方を見据える。汗や涙で視界はぐちゃぐちゃだったが、あの赤黒く揺らめく影だけは決して見逃すまいと必死だった。
アスターの右腕を食いちぎった獣は機械的にそれを数度咀嚼すると、大して美味しくなかったとでも言うかのように、べちゃっと肉塊を吐き出した。それから、何度か首を捻る動作を繰り返す。獲物を捉えたはずなのに本懐を遂げられなかったことを不思議に思っているような、愛嬌のある仕草だった。
「はは……不思議か……僕が生きてるのが……不思議なのか……?」
いつ死んだっておかしくない状態だった。腕の代わりに血を吹き出しつづける右肩を左手で抑えながら、ふらふらの足で体を支える。
「僕は死なないぞ……だって……立ち続ける限り……勝機は必ずあるんだから……」
それは、ただの強がりだった。リリィと違って、アスターに勝機はない。決定的に欠けているものがあるのだ。だがそれでも、エリカが信じてくれたから――エリカが信じてくれていると信じることができたから――彼はまだ、虚勢を張ることが出来ていた。
絶対に最後まで諦めないと、心の底から叫ぶことが出来ていた。
「さあ……どうした……また頭を狙うのか……? それなら……こんどは左腕を……くれてやる……!!」
そして。
アスターの挑発が果たして効いたのか、あるいは単にタイミングが重なっただけなのか。再び、戦いの火蓋が切って落とされる。
地を蹴るミレス。またしても単純な飛びかかり攻撃。アスターはそれを冷静に見極め、最小限の動きで横に回避する。当然、敵もそんな行動はすでに織り込み済みだ。空中ですぐさま体を反転させ、着地の衝撃を踏み込む力へと変換。アスターの振り向く前に再度鋭い爪で襲い掛かる。
「ッッ!!」
直感に従い、咄嗟に身を屈めるアスター。一拍遅れて通り過ぎた影が空気を引き裂き、はらりと髪の毛が数本舞い落ちる。釣られて視線がゆっくりと下へ落ちていく。冷や汗が頬をつたい、血溜まりと合流してぴちゃりと緊張感のない音を鳴らした。
(避けてるだけじゃ……死ぬ……!!)
考えている余裕はなかった。視線の先にあったそれを拾い上げながら、斜め前方に飛び込み前転。ギュッと握りしめた感触を確かめながら、狙うべき場所を必死で探す。
(どこだ……やつの弱点は……!)
――胴体はダメだ。崩壊弾の一撃すらすぐにリカバーされてしまった。
上方で再びミレスがすれ違うのを感じる。
――頭は? 狙うにしても危険すぎる。それに、あの手の装置で頭部に重要なパーツを積むなんて設計考えられない。
横っ飛びに跳躍。さらに追いかけてきたブレード状の尻尾を後方に飛び退き回避。
――とにかくこの機動力をなんとかしないと。それなら……脚部、いや、関節部分?
さらに間髪入れずダメ押しの追撃。
(う、や、ばっ……!!)
アスターは観察に気を取られすぎていた。その一撃を回避しようともう一歩後ろへ下がろうとして、足がもつれてしまう。崩れかける体勢を咄嗟に立て直そうとするアスター。だが、それをしていたのでは攻撃を避けるのが間に合わない。
一瞬の思考。直感的な――本能的な判断。
「こん、のぉぉぉぉっ!!」
もはや破れかぶれであった。効果なんて期待してない。ただ取れる手段をとっただけ。それだけだ。
アスターは大声で自身を鼓舞しながら、まだ地面についたままの片足を遮二無二蹴り上げた。
「っ痛ぅ!」
反転する世界。背中から伝わる衝撃。もはや痛みなんて感じてはいなかったが、アスターは思わずそう叫びながら息を吐き出した。
そして、そんな生者らしい行動が今もなお続いているということは……。
(効い……た……?)
起き上がりながら、思い返す。倒れきる直前。ちょうど蹴り上げた砂つぶがミレスに降りかかろうとするちょうどその瞬間。ただの礫を浴びただけにしては妙なほど、あの猟犬は大きく仰け反っていた。まるで内臓に直接ナイフを突き立てられたかのように、痛がっていた。
(まさか、あれは……)
天啓が舞い降りる。これならいける。いけるかもしれない。そう思わせる閃きが、アスターを奮い立たせた。
(チャンスは一回……一度防がれたら、警戒させてしまう……!)
呼吸を整え、精神を集中させる。右腕の血は、いつの間にか止まっていた。少しだけ、その場で足に力を入れてみる。大丈夫、体はまだ動く。それに、思考がとてもクリアだ。これなら……!
そして、ミレスが再び飛びかかろうとするモーションに入ったその瞬間。妙に軽い体に身を任せ、アスターは地面を蹴った。向かう先は、猟犬の側部後方。彼の虚をついた行動により猟犬の動きが僅かに遅れる。
「ああああああぁぁぁぁぁっっ!!!」
咆哮一閃。その様は、目の前の敵よりもはるかに獣じみていた。限界まで低くした姿勢。燃え上がるほど強く握りしめた左腕。獲物を絶対に捕らえて逃さない大鷲の如き眼光。
少年の限界を超えた刺突の一撃が、装甲の剥げた左後ろ脚を狙い撃つ……!
『――――!!!!!!!!」
瞬間。猟犬がとうとう、悲鳴をあげた。
アスターはついにやったのだ。薄氷を渡る方が簡単なこの試練を、乗り越えたのだ。たった一人で、暴力の塊たるこのミレスに一矢報いたのだ。
(やった……?)
そう認識した瞬間、アスターの中で何かがぷつりと切れた。
同時に、体を支えていた力のバランスが崩れ、その不足した方向へと倒れようとする。
(あ……しまっ……)
思った時にはもう遅かった。
ぐらりと地に落ちる身体。痛みはなかったが、全身に力が入らない。彼は血を失いすぎたのだ。
お疲れ様――もしも労う人がいるのなら、彼にそんな言葉を投げかけただろう。
ゆっくり眠るといい――守ってくれる背中がそこにあったなら、そんな言葉をくれたかもしれない。そして彼もまた小さく笑って、安心して目を閉じられたかもしれない。
だが、だが――。
この場で倒れたのは彼だけではなかった。
ぐらついた機体がそのままアスターに折り重なるように、落ちてくる――。
(はは……さすがにこりゃ今度こそ……もうダメだ……)
それでも――。戦った意味はあった。
アスターは、そう確信していた。
(だって、倒せたんだ……ミーシャちゃんを、守れたんだ……)
それならここで死んでしまうことにも、意味がある。
アスターはそう自分に言い聞かせ、今度こそ本当に、死にゆく運命を受け入れた。
「ああ、よかった……」
だから最後に、アスターは静かにそう呟いて……弱々しく、笑った。
その瞬間、彼の頑張りを労い讃えるような優しい風が吹いた気がした。
「よく……戦ったわね。偉いわ……アスター」
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