「これで……よし、と。ほら、直ったよ」
アスター・ルードベックがからくり機巧のおもちゃを返してやると、不安げな目で見つめていた少女がぱっと口元を綻ばせた。
「ありがと! やっぱりアスターお兄ちゃんはすごいなぁ」
「これくらい大したことないって。また困ったことがあったらいつでも言ってね」
「うん、そうする!」
元気よく手を振って駆け出す少女。その背中を穏やかな笑顔で見送ってから、アスターはぐっと伸びをする。
「んん……風が気持ちいいや。今日もこの街は平和だなあ」
初夏を感じさせる爽やかな風。あたり一面に広がる緑。丘の上に立つ大きな一本杉に背を預けながら、眼下の街並みを堪能する。
彩とりどりの屋根。煙突から立ち上がる芳ばしい香り。耳をすませば、石畳を子供達が駆け回る心地よい音色が聞こえてきた。
アスターはこの牧歌的な街並みがとても好きだった。もちろん、都心部の先鋭的な都市デザインも彼の知的好奇心を大いに刺激するものではある。しかしそれ以上に、この幸福をそのまま絵に描いたような光景が、彼にはとても尊いものに感じられたのだ。
「さて……息抜きはこれくらいにして。研究の続きでもしようかな」
そう言って地べたに積み上げてあった本の中から一冊抜き取ると、ハラハラとページをめくっていく。まるでどこに何が書いてあるか全て把握しているかのように、彼は迷うことなくお目当てのページを引き当てた。
「ええっと……超常物質オープから力を引き出す際に放出される熱量は……ぶつぶつ……多次元相互作用におけるシクラミー方程式がこうだから……」
ペン先を咥えながら、アスターは研究に没頭する。
書物を熱心に読み耽っているかと思いきや、ふと思い立って無造作に広げたメモ用紙に何かを書き殴る。ぶつぶつとうわ言のように呟いては、ハッと目を見開いて別の書物を引っ張り出す。
彼は実に、研究の虫だった。
「相変わらず熱心ですね」
不意に、柔らかな声音が彼に語りかけた。熱中していたはずの意識はあっという間に冷静さを取り戻し、アスターに顔を上げることを思い出させた。気づけば、辺りは朱に染まっていた。
「そんなに夢中で何をなさっているのですか?」
声に導かれて視線を向けると、美しい女性が夕陽を背負い、少しだけ屈みながらアスターの方をじっと覗き込んでいた。
腰ほどまである長いブロンドの髪。夕陽を受けてキラキラと光る美しいそれは、触れれば零れてしまいそうなほど細くしなやかに揺らめいていて――いったいアレは、どんな素材で出来ているのだろう? と見当違いな考えを彼に呼び起こすほどだった。
「え、と……」
アスター少年が咄嗟の言葉を詰まったのも無理のないことだ。なにせ彼女の瞳はどんな宝石よりも美しい輝きに満ち、なめらかな肌は真雪のように白く、身に纏ったシンプルなドレスは大人の色香漂うものだったのだから。
「あら、ごめんなさい。急なことでビックリしちゃいましたよね」
「い、いえ……」
気を遣われたことでアスターはますますおどおどしてしまうが、それもほんの数秒のこと。なんとか気を取り直すと、本を閉じて女性に向き直った。
「えっと、今は研究をしていて……世界中をひっくり返すくらい、画期的なアイデアがあるんです……オープの電子制御モジュールって言って要するに今からくり機巧が抱えている物理的な大きさという問題を解決する技術でつまり――」
「それは……まあ」
女性はアスターの言葉で目を見開いた。その反応を見て彼は、「ああ、またやっちゃったかな」と頬をかく。
「っと、いきなり言われてもよく分からないですよね!」
「……いえ、よく分かりますよ」
「ですよねですよね、すみません僕いつもこうなんです専門分野の話になるとつい早口になっちゃって相手を困らせちゃって――って」
慌てて誤魔化すように謝罪するアスターだったが、その言葉すら狂った蓄音器のようになっていて。彼はすっかり、女性の言葉を聞き逃してしまっていた。
「え? 今、なんて?」
だから、我が耳を疑って聞き返した時。女性が浮かべていた笑顔に違和感を覚えたのは多分、間違いじゃなかったのだろう。
代わりに女性はなんでもないと微笑みながら、なんの脈略もない別の質問を投げかけてきた。
「この街は好きですか? 今のこの世界は、あなたの生き方は――」
それは本当になんの脈略もない、極めて不可思議で――アスターには理解のできない問いかけだった。
「え……え?」
当然の如く、彼は答えに窮する。初対面のはずの目の前の女性に、自分はいったいなにを問われているのだろう。
この街は好きか? それは当然イエスだ。でも、そんなのこの街の誰に聞いたって、同じ答えが返ってくるに決まってる。
この世界は? そんなスケールで物事を考える人がいるだろうか。この世界以外に世界なんてあり得ないんだから、好きも嫌いもないだろう。
自分の生き方は? それはもちろん。だけどどうして――。
「どうしてそんなことを聞くんですか? そもそもあなたは一体……」
瞬間、強い風が吹き抜ける。反射的に目を閉じたアスターがハッとして再び目を開くと、そこには――。
「いない……?」
女性はまるで始めからそこに居なかったかのように、忽然と消え去っていた。立っていたはずの場所の草は踏まれた様子もなく、弱くなった風にゆらゆらと揺れている。
「なんだったんだろう」
結局その女性は再び現れることもなく、空腹に気がついたアスターは自宅へと帰ることにした。
夕陽はまだ、明るく街並みを照らしていた。
◇
「今日も研究をしていたのかい、アスター君」
「はい、父さん。もう理論はほとんど完成していて、あとは試作をしてみようかなというところで――」
その日の夜。温かな食卓を囲みながらアスターは両親と歓談にふけっていた。今日も母親が作った手料理はみな美味しく、ガスランプに照らされた一家の表情はいずれも笑顔に満ちていた。
「そういえば聞きましたよ、アスターさん。オーウェルさんのところの娘さんの頼みを聞いてあげたんですって? 奥さんが先ほど嬉しそうな顔でお礼にきていましたよ」
「あぁ、おもちゃを直してあげた件かな? そんな、いつものことなのに」
「そのいつものことが、凄いんじゃないか。アスター君は機巧技術の方でも社会貢献しているのに、近所の子供達にも優しいときたもんだ。街の誇りだってみんな言っているよ」
両親がベタ褒めすれば、流石のアスターだって満更でもない様子だ。小恥ずかしそうに頬をかいてから、笑みを隠すようにスープを口にする。そんな彼の様子を見て、両親もまた嬉しそうに微笑んでいた。
「あ、そういえば」
食事も済み、一息ついて落ち着いたところで、アスターはふと両親に聞きたいことがあったのを思い出した。夕方であった謎の女性についてである。自分よりもよっぽど顔の広い二人なら何か知っているのでは、と淡い期待を抱いて早速尋ねてみると――。
「うーん、知らないなあ。母さんは心当たりあるかい?」
「いいえ、私も思い当たりませんね」
と、二人して顔を見合わせていた。そうなってくると、いよいよますますあの人物の謎が深まってくる。もちろん、両親だってこの街の住人全員と面識があるわけじゃない。しかし、あの美しい女性が――本の虫であるアスターが見惚れてしまうほど美しい女性が――目立たないとも思えず、彼は思わずその場で考え込み始めてしまった。
「話は変わるが、アスター君」
「……はい? なんでしょう、父さん」
顔を上げると、父親がこちら見つめていた。もうすっかり、さっきまでの話は忘れていそうな笑顔だった。
「もうすぐアスター君の十六の誕生日だろう? それで週末にだな、お祝いを兼ねて都市の方まで出て食事にでも行こうと思うのだが」
「誕生日……すっかり失念していました」
「ははは、アスター君は研究のことばっかりだからな。で、どうかな。何か予定は入ってたりするかい?」
問われて、頭の中でスケジュールを確認する。今来ている依頼は来週からという話だったし、個人的な研究の方も週末にはひと段落しているだろう。
「ええ、問題なさそうです」
「良かった。それじゃ、席を予約しておくよ」
「はい、楽しみにしています」
この時のアスターは、まだこんな幸福な日常がいつまでも続くと信じ切っていた。
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