朝の陽光に促されて目を覚まし、僕はゆっくりとガラス戸に近づいた。
ただし、外からは絶対に姿が見えないように細心の注意を払って。
遠くの方で幾筋か黒い煙が上がっているが、昨日と比べればだいぶ落ち着いてきたようだった。
どのぐらいの規模と数の火災があったかなんてことはわからないが、僕がいるこのマンションまで延焼するおそれはなさそうだ。
陰に隠れながら、そっと階下の通りを見るとやはりウロウロと蠢いている連中が何匹かいた。
生きた獲物を探しているのだろう。
耳を傾けるためにやや頭を斜めにしたり、鼻のあたりをピクピクさせているところは妙にユーモラスだが、獲物である僕たちからしてみれば怖気を催す仕草でしかない。
あいつらは少しでも不規則な音を聞き取ったら、わらわらと群がってくる。
『40ヘルツ以下の低周波も感知できるようになっているが、これだけの距離がありゃあ、よほど大きな音を立てなければ気づかれやしねえぜ』
「じゃあ、なんでそこをうろちょろしているんだい?」
『臭いだよ』
「……臭い? ゾンビなのに臭いを嗅ぎとれるの?」
『ああ、そうさ。生きている人間の肉に含まれるアミノ酸とか、大便や小便にあるアミン、脂肪酸、ヘモグロビンなんかに惹きつけられるようになっているらしい。だから、まずは空気中のそういう臭いを頼りにしてやってくるそうだぜ』
僕は頭の中にいるやつに向けて質問を発した。
もう慣れてしまったが、姿かたちのない相手と会話をするというのは非常に気持ち悪い。
せめて、スマホでも耳に当てて通話するふりでもすれば、まだ気分的にマシになるのかもしれないけど。
「……僕の知っている空想上のゾンビとは違うんだけど」
『そりゃあ、そうだ。なんたって、あいつらは地球産じゃねえからな。こっちの運営が特別にバランス調整した〈ゲーム〉用の特産品なんだぜ? おまえらんところの弱っちいゾンビとは一味違うってもんだ』
「まったく、いい迷惑なんだけど」
『うるせえよ、それが〈ゲーム〉のデザインなんだから文句言うんじゃねえ、クソが』
頭の中に寄生しているこいつは、とても口が悪くてすぐにイライラする。
間違ったことと、知らなかったことがあっても謝ることもできないし、他人への批判は人一倍だ。
そのうえ、自分自身にはかなり甘くてずるい。
はっきりいって長い間一緒にいたい相手じゃない。
でも、そういう訳にもいかなかった。
なんといっても、こいつは僕の頭を乗っ取っているんだから。
『おい、そろそろゲームスタートしろよ。おめえがオープニングでさっさと怪我しちまったせいで、俺はスタートがだいぶ遅れているんだぜ。このまま行くと、他の〈プレイヤー〉どもに負けちまう。早いやつはもう幾つか〈ミッション〉だってこなしているだろうしよ』
「しかたないでしょ、そんなのは。怪我して唸っていた僕を〈キャラクター〉セレクトした君が悪いんだからさ」
『うっせえ、ボケ! 俺だってできたらもうちぃとだけ潜在力がありそうなキャラにしたかったわ! おめえみてえなガリじゃなくてよ!』
「だから、頭の中で騒がないでくれないかな」
実際に声帯を震わせて声を出している僕と違い、頭の中のこいつは頭蓋骨に反響するテレパシーのようなもので会話してくる。
傍から見ると、独り言の多い変な子供だ。
それか僕自身も考えている通りに二重人格者の変貌みたいな様子に思われることだろう。
もっとも、口に出さないと話が通じないというのは面倒だけど、僕としては助かっている面もある。
少なくとも内心で考えていることだけは、こいつには読み取れないということなのだ。
つまり、声に出しさえしなければ、僕がこいつをどう思おうが勝手という訳さ。
思想・良心の自由ぐらいは内心にとどまっている限り保障されているということ。
『じゃあ、さっさと動けよ。いつまでもこんな小部屋で隠れていたって、ゲームクリアはできねえんだぜ』
「……別に僕にはクリアしたって、何のメリットもないんだけど。それにゼルパァールはさあ、僕に指示を出すくらいしかできないんだからあまり偉そうにしないで」
『なんだと、〈キャラクター〉のくせに、〈プレイヤー〉に逆らうのかよ!』
「君ら、〈プレイヤー〉は僕たちの頭の中で情報を提供したり、指示をだすことしかできないんでしょ? 僕らがきちんと働いて仕事をしないとゲームが進められないってんだから、もうちょっとぐらい大人しくしていたらどうかな。この調子だと、クリアなんて絶対にできないよ」
『てめえ……!』
「まったく、精神寄生体のくせに」
僕が文句を言うと、頭の中のこいつ―――ゼルパァールは静かになった。
当たり前といえば当たり前なのだ。
ゼルパァールは僕の頭の中にしか存在できない。
こいつにできることは僕に指図を出すことしかないのだ。
ただ、僕はゼルパァールに基本的に反逆することはできず、いたずらに従うことしかできない。
なぜなら、僕がこの世界で生き残るため、そしてこの世界がかつての平穏を取り戻すためにはどうしてもゼルパァールの助けがいるからだ。
こんな壊れてしまった世界で。
「テレビはまだ放送しているかな?」
リモコンを押してみてもうんともすんともいわない。
もう電気の供給は完全に断たれているようだ。
ギリギリまで充電しておいたスマホのバッテリーもいつまでもつかはわからないが、まだインターネットは使えるようだった。
多分、ネットには精確な情報を得ようと人が殺到しているだろうし、下手したらいくつものサーバーがパンクしている。
だから、確実な情報を得る手段はない。
僕は室内を見渡してみた。
落ち着いたシックな色合いの1Kのマンションだった。
元女子大生の部屋なので、色々と可愛らしいところがある。
ここにいざという時に備えての避難キットなんかがあるとは思えない。
電池式のラジオとかもね。
傷が恢復するまでの間に消費してしまった食べ物、飲み物だってもうなくなりかけていた。
蛇口をひねっても水道は止まっているし、タンクに水が溜められないのでトイレさえも使えない状況が続くのはさすがにヤバいだろう。
ゼルパァールに言われるまでもなく、そろそろ僕はこの部屋から出なければならない。
真純(ますみ)さんの思い出の残ったこの部屋から。
「……これぐらいはもらっておいてもいいかな」
僕はテーブルの上に置かれていたラッピングされた小さな包みをつまんだ。
手紙が添えてある。
〈塁場キョウくんへ〉
真純さんらしい丁寧で可愛い字だった。
三日前、何事もなければ僕はこの部屋で年上の彼女からこのプレゼントをもらって、誕生日を祝うはずだった。
同じコンビニで何か月も一緒にアルバイトをしていて、ようやく想いが叶った彼女とともに過ごす予定だった。
でも、それはもう終わってしまったこと。
僕は真純さんのことを想っても涙が出ない。
〈去勢〉されているのだ。
罪悪感とか躊躇いとか哀しみといったものに振り回されないように。
それが〈キャラクター〉として選択された人間へのある意味では救いなのだという。
そこまでしないと、僕ら〈キャラクター〉は感情に支配されて理性的な行動が取れずに死んでしまうからだそうだ。
(ふざけるな、おまえらが原因のくせに!)
頭の中にいるゼルパァールだけでなく、こいつと同じ〈プレイヤー〉、そして〈ゲーム〉とやらを運営しているすべてのクソどもを怒鳴りつけたかった。
自分たちの娯楽のために、他人の惑星すべてを阿鼻叫喚の地獄へと変えた最悪の連中。
僕はもう一度外を見た。
薄汚れて破れたセーターの胸元には乾いた血の黒い滲みがつき、虚ろな双眸と半開きの口、ぼさぼさになってしまった髪を振り乱して生きているものを求めて徘徊する、元・人間たち。
あの若い女性は、服装からすると若い人妻だろう。
そして、きっと小さい子供がいた。
彼女の胸元の血がその子のものでないことを願わずにはいられない。
電柱の陰にもいた。
お爺さんだった。
もう動けなくなっているのか、ただ立ち上がろうとする動作を繰り返し続けているだけの。
手の甲のあたりに噛まれたあとがあるので、もしかしたら誰かを助けようとして手を差し伸べたらガブリとやられたのかもしれない。
人を救おうとしたものがまず犠牲になる。
なんて理不尽なことだろう。
人が持つ最高の美徳である優しさが仇になるのだから。
『なーに、見てんだよ。いい加減に外にでようぜ。早くしねえと〈ミッション〉がなくなっちまう』
ムカつくゼルパァールがぼやいた。
何が〈ミッション〉だ。
おまえたちがやっているこの〈ゲーム〉とやらのせいで、あの人たちはあんな姿になってしまったんだぞ。
突然、なんの罪もなく襲い掛かられ、殺され、死んでからも生きている同胞を貪り続ける怪物―――ゾンビに。
「―――君たちの〈ゲーム〉が終了したら地球上のゾンビはすべて消えるってのは、本当なんだろうね」
『さあな。俺のところの取説にはそう書いてあるってだけだ。実際どうなるかはわからねえ。まあ、注釈として「〈キャラクター〉たちを動かすための方便なんてことも?」なんて書いてあるけどな。……でもよ、おまえらは俺らの言うことを信じるしかないんだろ? 死にたくなければ』
「……そうだよ」
僕は奥歯を噛みしめた。
この地球という僕らの星のすべてを使って、こんな〈ゲーム〉を始めた連中への憎しみをかみ殺すために。
もしも僕たちがコンピューターゲームの登場人物ならば、なんの苦しみもない。
発達したCGとAIでまるで本物のように振舞う人間なら。
でも、僕たちは違う。
本物の生きている人間だ。
玩具にされてすり潰されるのなんて我慢がならない人間だ。
その僕たちを操って〈ゲーム〉を愉しもうとする連中への憎しみはとどまるところをしらなかった。
いつか、こいつらに眼にもの見せてやる。
僕は路上を苦しそうに狂いつつ徘徊し、這いずり回るゾンビたちを痛ましげに見つめながら、言葉を呑み込んだ。
口に出さない限り、ゼルパァールは僕のこんな考えを知ることはない。
だから、我慢する。
いつか、ゼルパァールたちに一矢報いてやる。
だけど、その前に僕はなんとしてでもこのゾンビの蠢くセカイで生き残らなければならない。
例え、わけのわからない奴らの操り人形になったとしても。
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