ジュースの自動販売機のオペレーション業務をしているというだけあって、高校の体育館の三分の二程度の広さの天井の高い建物のほとんどが飲料水のつまったダンボールでいっぱいになっていた。
鉄筋造りで、壁もコンクリートで作られ、シャッターを開けなければ唯一の出入り口であるドアも泥棒除けのためか頑丈そうだ。
ドアの前に薙原が置いたというブロックはそのままだったので、中にゾンビがいないことはわかっていたが、とりあえず用心して積み上げられたペットボトルや缶入りの飲料が入った箱の裏を丁寧に確認する。
千箱以上はあるだろう倉庫の中には充電中のフォークリフトと、一台のトラックが置かれていた。
ここを使っていた従業員の人たちは、おそらく自宅で〈異変〉にぶつかったのだろう。
誰かが戻ってきた気配はない。
僕はそのまま隅にある長い階段を昇って二階にあがった。
金属製なので油断していると足音が鳴り響くという厄介な階段だった。
もっとも、これがあれば罠を仕掛けなくてもゾンビの侵入を把握できるかな。
「お邪魔しまーす」
もう暗くなっていたので、懐中電灯を手にして二階にある事務室に入る。
十個ほどの机が並んでいて、意外と整頓されたオフィスになっていた。
隅の方に毛布が転がっていて、飲みかけのペットボトルもある。
薙原が寝起きしていたのだろう。
それ以外は特に怪しいところはなかった。
しかし、これだけ水が手に入る環境というのは良かった。
水道が止まったせいで使用できる水がなくなることは、のどを潤せなくなるだけではなく、生活・衛生面でも問題になるからだ。
炊事洗濯などの全般にも影響がでるし、何よりトイレが困る。
ゼルパァールが言うには、ゾンビは臭いに敏感らしく、しかも屎尿の臭いを嗅ぎつけてくるらしい。
そうなると、雨でも降らない限り、トイレのあとを流してしまうためにも相応の水分が必要となるだろう。
「まあ、あれだけあれば十分だよね」
まさに山積みになったジュースやコーヒー、ミネラルウォーターは僕らにとっては天の恵みになるかもしれない。
それから、薙原を迎えに行き、通りすがったゾンビを撒きつつ二人で倉庫に戻った。
マカロフでとどめをさしても良かったのだが、もう暗くなったこの時間帯に銃声をだして下手にゾンビどもを刺激したくないので逃げるだけにしたのだ。
「……センパイ」
「なに?」
「いつから、あんなに身軽になったんですか? センパイってあたしの知っている限り、運動神経はゼロでしたよね。文芸部だし」
運動神経と運動能力は違うよとか、文芸部だからといってスポーツができないわけじゃないよとか、色々と煙に巻く余地はあったが、僕は一番手っ取り早い方法を選んだ。
「宇宙人がね、僕をちょっとしたスーパーマンに変えたんだ」
うん、嘘ではない。
僕の頭に寄生しているやつと、その同類に変化させられたのだ。
おかげで文芸部所属のどんくさい僕は今や普通の高校生ではなくなってしまっていた。
「そういう冗談は笑えません。バカですか、センパイは」
一刀両断された。
「さっきのセンパイって、おうちの屋根の上をお猿さんのように飛んだり跳ねたりしていて、ちょっとジェイソン・ボーンみたいでしたけど」
「渋いところあげるね」
「確かにあの……ゾンビたちから逃げるのに屋根の上を伝わるってのはいいとは思います。でも、あたしの知っているセンパイがあんなことできるなんて想像もできません。―――ホントにセンパイなんですか?」
さすが文芸部だけあって、想像力が豊富だ。
見た目そのまま受け入れるつもりはないらしい。
とはいえ、今現在の僕が普通の人間ではないのは揺るぎのない事実であり、そのことについて疑問をもたれたら返す答えがない。
でも、仕方がない。
僕はすべてを嘘偽りなくつまびらかにしたとしても、信じてもらえる保証はないんだ。
過去の僕を知っている後輩に疑惑の視線を向けられたとしてもなにもできやしない。
「……正直に言うと、少しだけ秘密がある」
「やっぱり」
「だけど、今、それを君に教える訳にはいかない。だから聞かないでほしい。その代わりといってはなんだけど、僕はこの異変に満ちた世界で君を助けるよ。僕を信じてもらう、そのために身体を張る。……どう、ギブ&テイクだ」
すると、薙原は思いっきり頬を膨らませた。
何の変顔と思ったら、ただ文字通りに膨れているだけのようだった。
「センパイのバカ」
「なんだよ……」
「いつ、あたしが先輩を信じないなんて言いましたか! このスカポンタン!」
「ん!!」
薙原は僕の胸に右ストレートをあてる仕草をして、
「さっき命を助けてくれた恩人を疑うなんて罰が当たっちゃいますよ! 絶体絶命のピンチを救ってくれた人を信じないバカはいません。だから、あたしはセンパイを誰よりも信頼しています!」
「あ、ありがとう」
「でも、だからといってあたしがセンパイにぞっこんLOVEだとかとは思わないでくださいね! あたし、彼女持ちに興味ないし、センパイはオタクっぽくって、凛々しさとかがないんだから」
高校二年の男子で凛々しいのなんか滅多にいないよと抗議したかったが、最初の数行の台詞は嬉しかったので流すことにした。
「まあ、信じてくれるんならいいさ。……そういえば、君はここに来てから何か食べてた?」
「倉庫の隅にチョコレートバーがあったので、それを何箱か」
「自販機にはそういうの入っているからか。でも、そればっかりじゃ飽きるだろ。ほら、さっきのコンビニから適当に缶詰とかもらって来たから食べようぜ」
僕はバッグの中から缶詰なんかを取り出して、それから二人で床に座り込んだ。
月の光が窓越しに差し込んでくるだけの寂しい時間だった。
それでも、ここ三日間とは違い、知り合いと共にいる。
一人じゃないというだけで気持ちが安らぐこともあるんだ。
脳みそに寄生しているゼルパァールなんかとは比べ物にならない安心感。
ああ、僕もまだ人間なんだ。
「センパイ、このシーチキン美味しいです」
「電気がないから温かいものが食べられないのが残念だね」
「大丈夫ですって。センパイがいてくれるおかげでだいぶあったかいです」
「人間が多いと気温も上昇するから」
ただ、僕は缶詰の中身を口に入れるたびに、さっきのコンビニで遭遇したもう一人の〈キャラクター〉のことを思い出してしまう。
この手にかけてしまった僕と同じ〈人間〉。
暴力団の組長の屋敷でゾンビを斃した時とは全く違う、粘つく泥に塗れたような罪悪感。
例えゼルパァールに騙された結果と言っても、僕の指が引き金を引き、僕のマカロフが命を奪ったのは紛れもない事実なのだ。
重傷を負っていたとはいえ、同じ〈キャラクター〉ならば一般人よりも早く治癒して生きながらえたに違いない人を殺してしまった。
そして、何よりも嫌なのは人殺しになったことよりも、そのことを大して気に病んでいない僕の精神の変わりようだった。
これがゼルパァールのいう〈去勢〉か。
ついさっき人間だと思っていたものが、少しずつヤスリで削ぎ落とされていくような焦燥感があった。
不気味な黒い犬が僕にまとわりつく。
僕を噛み殺そうと狙う犬が。
雑なだけの食事を終えて、僕たちは寝ることにした。
オフィスにあった仮眠用の毛布を薙原に渡し、僕はゴミになっていたダンボールを敷いて古いスポーツ新聞を被る。
一つ屋根の下で女の子と寝ることになったというのに、あまり緊張しないのはきっと僕に性欲とかが薄いからなんだろうなあ。
あと、薙原は色気がない。
「じゃあ、センパイおやすみなさい」
僕から少し離れた、でも遠すぎはしない場所で薙原は毛布を頭からかぶっていた。
なんだか震えているのは寒いからだろうか。
一度目を閉じてみたけど、瞼に浮かんでくるのはさっきの人殺しのシーンだけだった。
「―――ナギスケ、起きてるかい?」
「いちおー」
「頼みがあるんだけど」
「……なんですかあ」
僕は思いついたことを口に出した。
「抱かせてくれないか」
「なっ!」
「僕さ、抱き枕がないと安心できないんだよね」
こんな知らないところで安眠するためには、それしか思いつかなかった。
真純さんの部屋では傷の痛みのせいでほとんど意識が朦朧としていたからか、わりと何も考えずに寝られたが、回復した今となってはそれが逆効果となっていた。
とにかく疲れているのに眠れないのだ。
特にさっきのシーンが繰り返しリフレインされる状況は最悪だった。
だから、僕はいつものように眠りにつきたいがために、抱き枕を欲していた。
それで思いついたのが薙原だった。
抱きしめて寝るに丁度いいサイズだし。
「な、な、なにをいってやがるんですか! バカですか!」
「ん、誤解しないで。別に性的にどうにかしようとは思っていないから。だから、ちょっとこっちおいで」
「性的って!! 最悪だ!!」
「だから、アレだよ。あすなろ抱きみたいな感じでだっこさせてくれればいいから。あ、そうすれば毛布も一枚でいいしね」
こういうのはかなり酷い言い草だとは自覚しているけど、薙原には別に女の子を感じないから別にいいか。
ぬいぐるみっぽいテイストでお願いするぞ。
「そういう風に床をポンポン叩かないでください!」
「大きい声を出すなよ。ほら、おいでったら」
「……行・き・ま・せ・ん! そんな見え見えの手に乗るもんですか! このスケベ!」
「冤罪だ。僕は別に君にエッチなことをするつもりはなくってだなあ」
「とにかく、お断りです! 一昨日来やがってください、エッチ、スケベ、この変態!」
「そのエッチというのは、変態の頭文字のHだから意味が被っているぞ」
「ツッコミどころを間違えてます! 絶対に行きません! あたしはセンパイの女じゃないんですから!」
凄い拒絶の仕方だ。
まったく若い女の子―――年下限定かな―――真純さんはあんなじゃなかったし―――は扱いづらいよ。
「最低! もうおやすみなさい! 朝まで話しかけないでください! 近寄ってもダメですからね!」
それだけ捲し立てると薙原はあっちを向いてしまった。
別に下心なんてないのに、誤解されてしまったみたいだ。
まったくついてないよ。
そう思ってしょうがなく一人で目を瞑ると、どういう訳か今度は簡単に眠気がやってきた。
薙原とバカな話をしたからだろうか。
これも他人と一緒にいることによる結果なのかも。
「じゃあオヤスミ……」
僕はそのまま深い眠りの暗黒に沈んでいった……。
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