とりあえず悲鳴のした場所に向かうことにして、僕は薙原の手を取った。
ついでにちょっと力を入れて、伊野波を突き飛ばしておく。
だって、邪魔だからね。
「セ、センパイ!?」
「何かあったみたいだ。もしかしたら、ゾンビが入り込んできたのかもしれない。ちょっとあり得ない話だけど、可能性はある。注意して」
「……あ、あの、伊野波くんとは……」
「まずは生き残るための行動だ。でないと、未来も過去もあったもんじゃない」
「―――はい」
僕たちは要塞ビルの中央にある階段についた。
今の悲鳴の出どころは上か下か?
少なくともこの三階からのものではない。
耳を澄ますと、下の方から騒がしい物音が聞こえてくる。
聞きつけて誰かがやってくるとしたら、声の方向は逆側、つまり上だ。
「よし、行こう。ナギスケ、僕から二歩離れて周辺視野の代わりをして」
「はい」
つまり、僕の見えない場所を少し遠くから確認してくれという意味だ。
二人でくっついているといざという時に対処できない。
「行くぞ」
僕は階段を慎重に登った。
銃を持った僕は土田と毎日見廻っている場所なので、何があるかは完全に把握している。
隠れられそうな場所なども、いざという時に備えてチェック済みだ。
このビルの中には最低二人の敵がいるんだから当然だよね。
四階はおかしなところはない。
人数がいれば、この階を完全に進路クリアしてから行きたいところだけど、そういう訳にもいかない。
僕らは用心しつつも、五階に上がった。
五階にくると、右手の奥にある部屋から人の気配がする。
ひぃひぃ言っている。
想像もしていない脅威にさらされたときの人間によくある呼吸もまともにできない興奮状態で発する吐息だ。
僕はそれがさっきの悲鳴の主だと見当をつけた。
それから、マカロフを持って音をたてて近づく。
こういう時にスニーキングなんか使っても警戒を強くするだけだ。
よくホラー映画とかで音もたてずに近づく仲間がいるが、あれは心臓に悪いだけでいいことは何もない。
「……誰!?」
誰何の声が聞こえた。
確か、女子大生三人組の加地という眼鏡のクール・ビューティーだ。
あんな声を出しそうなタイプには思えなかったけど……。
「僕です。塁場です」
「……あなたか? どうしてここに?」
「悲鳴が聞こえたから」
「そっちに化け物が出なかった!?」
化け物?
ゾンビのことかな。
薙原と眼を合わせても否定されるだけだ。
僕にも覚えはない。
「いえ、何も。ここにナギスケもいますが、見ていないといっています」
「イスキちゃんもいるの? ……じゃあ、あなただけちょっとこっちに来て。イスキちゃんは廊下を見張っていて」
「だ、そうだ。意味がわからなくても言う通りにして。人が来たら呼ぶこと。あと、床だけでなくて天井とかにもできる限り気を配ってね」
「はい」
薙原を廊下に見張りにおいて、僕は室内に入った。
見る限り、机がいくつか並んでいて、よくある平均的なオフィスだ。
その隅の方で、加地がもう一人の女の人を抱いて震えていた。
いや、震えているのはもう一人だけで、加地の方はずっと小さく囁きかけて慰めているようだ。
「どうしました?」
僕の記憶ではここはHARAコーポレーションの総務部だったはずだ。
どうして、こんなところにこの二人がいるのだろう。
「……そこの開いているドアの中よ」
「ん?」
加地が顎をしゃくった先には、頑丈そうな扉があった。
以前見た時は厳重に鍵をかけられていたはずなのに、今は不用心に開けっ放しになっている。
土田の話では、役員用の資料などを保管しておく小部屋で、鍵はここの支部の統括支部長と総務部長だけしか持っていないということだったはず。
だから、何故開いているかはわからない。
加地―――というよりも彼女にしがみついている女性がそちらの方をやたらと避けようとしていので、内部に何かがいるのかもしれない。
近づいた段階で、それは女子大生三人組の今野だとわかった。
さらにこんなところにいる理由がわからなくなる。
「一応、警戒はしたほうがいいわね」
「そりゃしますけど……」
冷たい眼で見られた。
なんだろう、僕よりも別のものを遠くから観察しているような眼だ。
この人の性格もまたよくわからないな。
「じゃあ、お邪魔して」
マカロフを向けつつ、資料室の中を覗き込む。
黄色い電灯がついていた。
なんて言ったっけ、この豆電球なんてことを考える暇もなく、僕は硬直した。
床に血まみれの男の死体が転がっていたからだ。
うつ伏せなので顔は見えないが、服装で誰だか判別できる。
社員グループの久保だった。
着替えがないということで他人から剥ぎ取ったブカブカの背広をきていたことからわかる。
資料室の中はかなり酷い血飛沫で汚れていた。
床どころか天井も壁も真っ赤だ。
人間の身体に入っている血液を限界まで噴きださせないとこんな血の部屋にはならないだろう。
セント・ヘレンズ山が大噴火したかのごとき有様だ。
ただ、推測できるのは少なくとも自殺では無理だということだ。
これだけの血飛沫を自分で上げながら死ぬなんて器用な真似は絶対にできない。
となると、これは殺人事件なんだけど……。
「ん?」
奥の方に巨大な骨組みに囲まれた金庫らしきものがある。
そして、その骨組みから伸びる三本の無骨な鎖。
反対側の先端には、化学繊維で編まれた輪っかがぶら下がっている。
死体を跨いでいくのも嫌だったので、のけ反って様子を見てみると、なんと犬の首輪のようなものだった。
それが合計で三本。
三セットというべきか。
ただ、それでなんとなくわかった気がした。
「加地さん、今野さん、大丈夫ですか?」
資料室から出て深呼吸をする。
あまりに空気が悪すぎて反吐がでそうだ。
もう見たくないということもあり、さっさと戸も閉めてしまう。
「ええ。……死んでいたのはやっぱり久保さん?」
「みたいですね。顔を確認した訳でもないですけど。服装は彼のものですし」
「そうか……」
「で、どうして加地さんたちはここに?」
すると、加地は胡散臭いものを見るように、
「あなた、本当にちょっとおかしいわね。そんなに長い付き合いでもないけど、知り合いが死んでいるのにもう事情聴取をするの?」
「驚いてはいますよ。悼んでも」
「いい、はっきり言っておくけど、私たち、あなたのことを警戒しているわ。危険人物としてね」
「どうしてですか? 銃を持っているから?」
「それもあるけど、全体としてみるとそんなのは些細なものよ。私たちが気にしているのは、あなたのその人間性よ」
人格否定かあ。
結構きつい事いうね。
「勘違いしないで。あなたが、イスキちゃんやナナンちゃんに優しいということはわかっているわ。ビルの前で私たちを助けてくれたことにも感謝している。ただ、私たちからするとあなたのその異常なまでに落ち着いた態度は不気味なのよ」
不気味とまで言われた。
少しは傷つく―――こともないか。
そうしたら、ゼルパァールがムカつくことを頭の中でほざく。
『うんうん、確かにてめえは気味悪いところがあるな。なんか人形みたいだし』
(そうなるように仕向けたのはおまえたちだろ)
ツッコミたくもなったけど、堪えた。
ただでさえ危険人物扱いなのにさらに独り言が多いと思われたら取り返しがつかない。
「まあ、仕方ないです。そういう性格なんです。それがこんなゾンビのうろつく世界になっちゃったことで顕著になっただけだと思ってください。で、この話はおしまいにして、さっさと久保さんの事件についてとりかかりましょう」
加地さんはかなり僕に不信を抱いているようだ。
別にいいけどさ。
「―――敦子が」
加地の腕の中の今野敦子を指し、
「久保さんがおかしいといいだしたのよ。なんか、昼間に何度も五階に行くのを見かけたとか言って」
「五階に?」
「ええ。でも、さりげなく社員さんたちに聞いても五階はオフィスでも事務中心で、サバイバルするのには役に立つものは少ないから使ってないと言われたわ」
「で、そこに足しげく通う久保さんを怪しく思った」
加地は頷き、
「最初は……帰って来た時にすっきりしたような顔をしている気がして、もしかしたら、その―――アレをしているのかと思って」
「アレ? ……なんのことです?」
「あ、アレっていうか、その、ほら、性欲解消のための……」
「マスターベーション?」
すると、加地は赤面した。
そのぐらいで恥ずかしくなるなんて。
もしかしたら、意外と経験が足りないのか。
あんなセックスアピールの塊のような松下と友達関係なのに。
「加地さんたちは、要するに久保が適当な場所で性欲発散をしていると思ったわけだ。確かにここのルールでは女性と性交渉をするのはだいぶ難しい。避妊具もないですからね。万が一ということもある。で、独りで慰めていたと考えた、と」
「ええ。ただ、それにしてはちょっと……おかしい気がして……」
だから、後をつけてみたというわけか。
でも、そんなことをして発散できない性欲に塗れた男に襲われたら、どうする気だったんだろう。
いや、そもそも何もできないと久保を甘く見ていたのかもしれないか。
「それであの死体を発見したんですか」
「ええ、そうよ。あと、あの鎖もね」
「なるほど、そこで僕と同じ結論を抱いたわけだ。……了解しました」
そこまで会話を終えると薙原が、
「センパイ、藤山さんたちが着ました」
「いいよ。一緒に入って来て」
「……いいの?」
彼女が薙原を廊下に見張りにしたのは、あの死体を見せたくなかったからだろう。
だが、それは余計な配慮だ。
もう薙原だってこの世界の理不尽さに慣れなくてはならない立場だ。
女の子だからって蝶よ花よと育てさせてはもらえない。
「いったい、なにがあったんだ?」
入ってきた藤山たちに、僕たちはかいつまんで事情を報告した。
扉を開けて中を覗き込んで、死体を見た連中は吐きそうな顔になっている。
まあ、外から来た水沼と違って元社員同士の団結もあるのだろう。
明らかに仲間の死に対して動揺していた。
「……誰が久保を?」
藤山が俯きつつ聞いてきた。
「今のところは……仮説ぐらいしか」
正直なところを言う。
ただ、仮説があるというだけで食いつきが違うものだ。
「仮説ってなんだよ。塁場くん」
「……部屋の金具に鎖が巻きつけてありました。しかも三本。僕にはあれは何かを拘束するには十分なものだと推理しました」
「何かを……拘束する?」
川口がきょとんとした。
言葉の意味がわからないのではなく、想像できないのだろう。
冷静に脳が働いていないのだ。
たぶん、ショックのために。
僕のように〈去勢〉された人外とは回転も違う。
だから、僕ははっきりと言った。
「おそらく久保さんはこの資料室でゾンビを飼っていたんです。そして、そいつに食い殺された―――いや、それならもう感染して動いているはずか。そうじゃない以上、噛まれる以外の手段で殺されたんでしょう」
「ちょっと待って」
薙原が僕の話を止めた。
「センパイの言うのが事実だとしたら、もしかして……」
「そうだね。この要塞ビルの内部にゾンビが野放しになっている可能性があるということさ」
全員の顔色が一気に蒼くなった。
安住の地に異物が入り込んでいたのだから。
『面白れぇ。ダンジョンでのゾンビ狩りというわけかよ』
ゼルパァールだけは高みの見物ということで楽しそうだったけれど。
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