僕とナナンは、2階の吹き抜けから1階の出入り口を覗き込んだ。
要塞ビルの玄関を護っていたシャッターが下から50センチメートルぐらい開いていた。
そこを這いずりながら蠢く黒いものたち。
数はそれほど多くない。
だが、確実に腹ばいになってこちら側に侵入しようとしている。
わずかだが耳に例の唸り声が聞こえてきた。
あれは、もう間違いなく。
「ゾンビが入ってくる!」
「はい!」
僕はマカロフの弾倉を確認した。
ちっ、チェンバーに入っているものを含めてもあと2発。
無駄に使ってしまっている。
「ナナン、ビルの中には何体が侵入している!?」
「えっと……」
ナナンは眼を閉じて集中する。
〈レーダー〉を使っているのだ。
すぐに開眼し、
「1階に五人、ゾンビさんがいます。階段を一人が昇ってきています。あと、外に、いち、に―――たくさん!!」
「わかった」
僕は振り向いて、階段の踊り場に達していた一体の頭を撃った。
さっきの藤山と同じ個所に穴が空く。
脳漿を撒き散らしているので、確実に仕留められただろう。
「ナナン、急いでナギスケたちのところへ戻れ! で、上の階へ、できたら屋上まで逃げ延びるように言え!」
「はい。お兄さんはどうするんですか?」
「僕はあの連中のケツを叩いて後を追わせる。あと、伊野波の様子も見てくる」
「わかりました」
ナナンは余計なことを聞かずに、僕の指示通りに動き出した。
同じ〈キャラクター〉といっても彼女は戦闘を中心にするタイプではない。
元が女子小学生だしね。
だから、避難誘導役を頼むのが一番だ。
「お兄さんなら絶対に無事だと信じています!」
「任せておいてよ」
「ご、ごぶーんを!」
えっと、ごぶーんじゃなくて「ご武運」だと思うぞ。
まあ、気持ちだけはありがたく受け取っておこう。
上の階へとトタタタと登っていくナナンを見送る時間も惜しんで、僕は談話スペースに飛び込んだ。
傷ついた(やったのは僕だけど)三人組が各々の傷を押さえながら座り込んでいる。
意気消沈という感じだ。
普段ならば再起動できるまで放っておいてあげたいところだけど、今はそんなことを言っていられない。
僕たちの足元にはゾンビがもう迫ってきているのだ。
「ゾンビがビルの中に入って来ています!!」
さっきの僕とナナンの会話を聞いていなかったのか、
「何を言っているんだ」
というきょとんとした顔だ。
痛みに気をとられ過ぎていて、自分たちの状況を把握できていなかったのだ。
だから、僕の言葉をすぐには受け入れられなかったようだ。
加えて、彼らを傷つけたのはほぼ100%、僕の仕業だしね。
「急いで3階まで逃げて!」
「ま、まさか……」
「どうしてゾンビが……このビルに……」
安住の地が終焉を迎えたことを三人はすぐには理解できないようだった。
僕が藤山に言ったことは、彼らにとっても同じことなのだ。
世界がインベーダーの〈ゲーム〉のためにぐちゃぐちゃになって、多くの人たちが犠牲になっている時に、この安全な場所でぬくぬくと暮らしていたことによって、彼らはサバイバルのための鉄の精神を育むことができなかった。
あの高校時代は甘ったれだった薙原でさえ、今は不屈の意志を持っているというのに、この男たちは……。
痛みに負けて、俯いているだけだ。
「いいから、さっさと逃げださないと噛まれて死んでしまうよ」
「逃げろったって……俺の足が……」
北条は潰れた足を押さえていた。
一応、机の下敷きという運命からは逃れているので動けない訳ではなさそうだ。
「手を貸してあげて。……僕は手伝えないから」
「助けろよ!!」
「うーん、僕と一緒に1階まで伊野波を助けに行くんならいいけど」
「―――!」
これ見よがしにマカロフを弄りながら、僕は三人を脅した。
「今の状況を説明するとね。あなた方が舎弟にしていた伊野波が、ここからというか、僕たちから逃げ出そうとして1階に行った。パニックに陥ったあいつはシャッターを開けて外にまで出ようとした。そんなにも怖かったのかはわからないけどね」
……伊野波も同じだった。
外の苛酷な環境を知っていたにもかかわらず、この安息の世界で魂を油断させていた。
だから、撃たれただけであんなにパニックになってしまったのだろう。
まったく、どいつもこいつもすぐにおかしくなる。
非常事態の時ほど冷静になれないものなのだろうか。
「じゃあ、土田さんと川口さんは、この人を連れて上に逃げてね。アディオス」
僕はマカロフをもって、談話スペースを出た。
もう話は終わり。
これ以上、彼らにつきあってはいられらない。
なんといってもさっきの発砲によって、ゾンビは階段を上がろうとしているに違いないのだから。
下の様子を見るのならば急がないと。
だが、遅かった。
踊り場に降りた段階で、彼らがやってきた。
だんだんと大きくなる。
段差を一段一段踏みしめるように。
歯の折れた口の内側に、黒い液体が滴っていた。
ここ数週間で汚れきって堅くなった指先をつきつけながら、ゾンビどもは上がってくる。
「いやだ、いやだ、いやだあああ!!」
1階から伊野波が聞こえてくる。
視界の片隅にちらりと見えたのは、三体のゾンビにたかられている伊野波の姿だった。
仰向けになって必死に抵抗しているが、右足には中年のオバサン型のゾンビがしがみつき、汚らしい歯を剥きだした若い男が首筋を抱え込んでいた。
振りほどこうとしても別のゾンビがそれをさせてくれない。
伊野波の腕はもう力一杯に噛まれた傷で血に染まっていた。
どんなに力を入れても、ただの人間の腕力ではゾンビの怪力をほどけない。
しかも、痛みを感じることもない生きている死体などどれだけ殴っても平気の平左なのだ。
首っ玉にしがみついていたゾンビの犬歯が伊野波の首の頸動脈を噛みきった。
鮮やかな赤い血が噴き出る。
伊野波の眼が白目を剥いた。
呼吸音もしなくなっている。
このまま、あいつはゾンビの餌食になるだけだ。
その後方からは新手のゾンビが続々と這いずりながら侵入してくる。
伊野波が開けたシャッターからだということを考えると自業自得といえる。
そして、視界に入ってきた僕を見つけて、奴らはにじり寄ってきた。
「……ごめん、伊野波。間に合わなかった」
僕は伊野波の首筋にいつまでも噛みついているゾンビのこめかみあたりを撃ち抜くと、身を翻して階段を昇り始めた。
3階にまで辿り着いたあたりで、三人組に追いついた。
北条を両脇から担いでいるのでその程度のスピードしか出せないようだ。
「急いで!」
「これでもいっぱいなんだよ!」
「くそ、手より足を動かして!」
ゾンビは階段を上るのは遅い。
死亡直後の瑞々しいやつならばともかく、死んでからだいぶ経っているものは関節が硬化しているらしく段差を越えるのが難しいのだ。
このビルのように6階建てならば、かなりの余裕ができるはず。
だけど、屋上まで行ってどうなる?
屋上には一度だけ見に行ったが、何もなかった。
扉だけは鋼鉄製だから、立て籠もることはできるかもしれないけれど。
ただ、屋上にいるだけではジリ貧だ。
どうにもならない。
ゾンビに溢れたビルにいるよりはマシ程度だけど。
さて、どうする。
だけど、その時、僕の頭にファンファーレが鳴り響いた。
『よっしゃあああ!!』
ゼルパァールが叫んだ。
「うるさい! なにごと!?」
三人組がいることを承知で怒鳴りつけたのに、ゼルパァールはまた叫びやがった。
『今、メッセージが届いた! フィールドクリアーだ! てめえが七人の競合する〈キャラクター〉を排除したという認定が届いたんだぜ、ひゃっはああああ!! やったぜえええ!!』
僕が藤山を斃したことを運営が認めたってことか。
でも、そんなのは後にして欲しい。
今は立て込んでいる最中なんだから。
「はいはい、後にして! 僕は忙しいんだから!」
『いいから、聞けよ、バッカ! バッカ!』
「だからさ、何を!」
『フィールドをクリアーした〈キャラクター〉には、エリアでのミッションに挑戦する権利が与えられるってことだ。つまり……』
「つまり?」
『次のエリアへの脱出できる〈ミッション〉が始まるということなんだぜ!!』
……その時、もしかしたら空耳かもしれないけれど、僕の耳にはどこか聞き覚えのあるヘリコプターの羽音のようなものが聞こえてきたのであった。
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