男二人の間で、トントン拍子に話が纏まり、更に幾つかの世間話をしてから小笠原邸を辞去した真澄達は、一度清人のマンションに戻り、真澄が柏木邸に戻るまでの間を、二人で過ごす事にした。
「待たせたな、真澄。少し休んでから車で送って行くから」
手早く茶を淹れた清人が、リビングに戻って真澄の目の前に湯飲み茶碗を置くと、穏やかな笑顔の清人に対し、何とも言いようの無い微妙な顔で、ソファーに座っている真澄が夫を見上げる。そしてその口から唐突に、抑揚の無い声で言葉が発せられた。
「垂足野干人」
「はぁ?」
「一出無男」
「真澄?」
「原久呂作司」
「一体、何を言ってるんだ?」
怪訝な顔で向かい側のソファーに座った清人が尋ねると、真澄が小さく肩を竦めて理由を説明する。
「俗に『名は体を表す』と言うでしょう? だから清人を表現するのに相応しい名前を付ける事になったら、どんな名前になるのかしらと思って、ちょっと考えていたの」
そう言って湯飲み茶碗に手を伸ばし、一口優雅に茶を飲んだ真澄に対し、清人は小さく噴き出した。
「ははっ、いきなり何を言い出すのかと思えば……。俺がどんな人間かなんて、これまでの付き合いで、真澄はとっくに知り尽くしていると思っていたが?」
僅かに皮肉っぽく笑いながら尋ねた清人に、真澄が淡々と話を続ける。
「そのつもりだったけど、今日改めて呆れただけよ。……何よ、清香ちゃんの下宿の話をするとは聞いていたけど、あんな風に小笠原社長を丸め込むつもりだなんて、全然言って無かったじゃない」
「驚かせたのなら悪かった。どんな風に話を持って行くか、ギリギリまで迷っていたからな。どうせなら清香をより大事にして貰いたかったし。でも一般的に、父親にしてみれば『息子』より『娘』が可愛いと相場が決まってるから、話は進めやすかったが」
何故か妙にしみじみと述べた清人に、真澄が不思議そうに声をかけた。
「何? その妙に実感のこもった言い方。家でネチネチ嫌味を言われているのを根に持ってるの? 無理は無いと思うけど」
「いや、お父さんじゃなくて親父の事だ」
「清吾叔父様?」
結婚後、自分の父親に結構チクチクと文句を言われている事を実は気にしているのかと、不安に思いながら真澄が問い掛けたが、清人は真顔で言い返した。
「清香が生まれてから『やっぱり娘は可愛いな。何を着せても似合うし。息子は今一つ愛想が無くてつまらん』と堂々と言い放ってベタ可愛がりして、当時十一歳の俺は、盛大に拗ねてひがんだんだ」
「拗ねてひがまないでよ。第一、清人は清香ちゃんの事を『俺の天使』と公言して、叔父様以上に可愛がってたじゃない」
がっくりと肩を落として呻いた真澄だったが、清人は変わらず真剣な顔で続ける。
「勿論、清香は俺から見ても超絶に可愛かったから、親父とのあれこれとは別問題だ。……それと、心配するな。真澄は『俺の女神』だから、以前から清香以上に愛しているぞ?」
「だからお願いだから、そう言う事をサラッと公言しないでよ! 恥ずかしいんだから!」
「大丈夫だ。聞いているうちに慣れるから」
「あのね……」
会社で入籍の報告後、真澄は大学以来の友人である柏木会の面々から、真澄の知らない所での清人の言動についての詳細を聞かされ、(清香ちゃんの気持ちが良く分かったわ)と赤面した経緯があり、頭痛を覚えたが、清人は平然と、再び茶を一口飲んだ。それを見た真澄は同様に茶を一口飲んで気分を落ち着かせ、故意か偶然か逸れかけた話題を元に戻す。
「じゃあ、ちゃんと聞かせて貰いましょうか? どうして単に清香ちゃんの下宿をお願いするだけじゃなくて、娘扱いしてくれる様に頼んだのか」
怒ってはいないまでも、はぐらかすのは許さないとでも言いたげな真澄の表情に、清人は軽く目を見開いてから、観念した様に苦笑して茶托に茶碗を戻し、真顔で真澄と向かい合った。そして静かに口を開く。
「その……、俺も結婚して父親になるわけだから、改めて色々考えてみたんだ。あの人との事を」
「当然でしょうね。それで?」
予想した範疇内の台詞に真澄が小さく頷いて先を促すと、清人は幾分気まずそうに視線を下に向けながら続けた。
「三十を過ぎて大人気ないとは思うんだが……、やはりあの人を面と向かって母親と公言する事も、母親扱いする事も無理だと思う」
「無理する事は無いでしょう。別れて三十年以上経って今更だし。そんな事、向こうだって求めていないと思うわ」
素っ気なく同意した真澄に、清人はどこか傷付いた様に小さく笑ってから話を続ける。
「ああ。あの人にとって、俺は一番辛かった時の記憶と直結しているからな。顔を合わせる度に、嫌な思いをさせるのも」
「悪いけど、その意見には賛成できないわ」
「え?」
いきなり話を遮られた清人は顔を上げ、戸惑いながら真澄に視線を向けたが、当人は静かに茶を一口含んで喉を湿らせてから、穏やかな口調で語り出した。
「清人、結婚した事で私も色々考えたのよ? あなたの家族は私の家族になるんだし。勝手に自己完結しないで欲しいんだけど」
「ああ……、すまん」
「確かにあの人の一番辛い記憶とあなたは、直結してるかもしれないけど、あの人の一番幸せな記憶とも直結してるわよ。少なくともあなたを妊娠して誕生してからも一年近くの間、あなたの一番身近に居た人なんだから。他の誰が何を言おうと、それは私が断言してあげる」
「……そうか」
力強く請け負った真澄に、清人が僅かに照れくさそうに笑いながら小声で応じた。それに淡々と応じて真澄が話を続ける。
「そうよ。だけど、あなたが由紀子さんの事を、面と向かっては母親呼ばわり出来ないし、したく無いって事も分かってるわ。正直、一度も『お義母さん』と呼んであげなかった叔母様への義理立てとかだけだったら、気にするなって言いたい所だけど、他にも色々あるものね」
「そうだな」
半は呆れた口調で指摘してくる妻に清人が微笑んで頷くと、真澄は冷静に話を続けた。
「だけど水くさいわね。対外的に形式上でも母親だと認める位はしようと思ったのなら、私に一言あっても良いんじゃない?」
「何の事を言っているんだ?」
本気で当惑した声を出した清人を、真澄が鋭く追及する。
「結婚披露宴の席次表よ。夜中にこっそり、私がドアを開けて仕事部屋を覗いてるのに気が付かない程、机で悩みながら書いていたでしょう? 後からこっそり見せて貰ったら、小笠原一家の所の肩書きを『新郎母』と『新郎継父』と『新郎弟』にしていたわよね? 決定稿はまだだけど。さあ、弁解できるならしてみなさい。聞いてあげるから」
「それは……」
「何?」
とっさに反論しようとして口ごもった清人を真澄が軽く睨み付けると、清人は如何にもばつが悪そうに言いよどんだ。
「それは……、単に、真澄の方の招待客がそうそうたる顔ぶれになりそうだから、俺の方でも少しは箔を付けておこうかと思っただけで」
「取り敢えず、そう言う事にしておいてあげるわ」
全然信じていない口調で清人の主張を遮った真澄は、相手に構わずに話を続けた。
「だからそんな風にひねくれ捲っていて、表立って『息子』になれない自分の代わりに、清香ちゃんを『娘』にしてあげる事にしたんでしょう? これまでのあれこれで、小笠原夫妻が清香ちゃんを気に入ってるのは周知の事実だし、一人息子しか居ないから以前から娘を欲しがってたのも分かってた。加えて、清香ちゃんが一緒に住んでいれば、あなたが小笠原家を訪ねる口実を見つけやすいし、清香ちゃんも由紀子さんを誘いやすいもの」
「清香があの人を誘いやすいって……、どこにだ?」
「とぼけないで。柏木の家に決まってるでしょうが!」
「…………」
しらばっくれようとした清人だったが、真澄に軽く叱りつけられ、諦めて無言で小さく溜め息を吐いた。そんな夫に向かって、真澄がまだ全然目立たない自分の腹部に手をやりながら、話し始める。
「お腹の子供が、例えあなたが公言してなくても、あの人の初孫って事位、認識してるわよ? だから少しは顔を見せてあげたいって感情も、理解できるし。本当に胎教に悪いし、あまり怒らせないで欲しいんだけど」
「いや、悪い。謝る。俺が悪かった。……だが、真澄は間違っても、自分から進んで小笠原家に子供を見せに行ったりしないと思ったし」
「当たり前よ。清人が母親扱いしていない人を、どうして私が姑として敬わなければいけないわけ?」
「全くその通りだ。姑として接しなくて構わないから」
「加えて、あの人だって、息子扱いして来なかった人間の家に『孫の顔を見せてくれ』って、図々しく押し掛ける図太い神経は持ち合わせていないでしょう。それに普通の家ならまだしも、息子が婿入りした先なら尚更よ」
「そうだろうな」
「もし万が一堂々と出向いて来たら、その時はその無神経ぶりに拍手喝采してあげるわ」
「……いや、万が一にもそれは無いだろうから、安心してくれ」
次々に畳み掛けらた清人が、とうとう額を抑えて項垂れてしまうと、ちょっと可哀想に思った真澄は、幾分口調を和らげて清人に言い聞かせた。
「だから、清香ちゃんをあの人の家に下宿させる事にしたのが、納得できたと言っているのよ。あの子は優しい子だから、誰が何を言わなくても由紀子さんが孫の顔が見たがっていると察して、自分が私達の子供の顔を見に来る時は、彼女を誘って家に力ずくでも引きずって来るに決まってるわよ。どう? 私の推論は、どこか間違っているかしら?」
殆ど確信している表情で問われた清人は、観念した様に小さく笑って頷く。
「違わない」
「そんな風に小笠原夫妻に密かに恩を売る上に、結婚前から清香ちゃんを娘として可愛がって貰えば、結婚後も聡君より清香ちゃんの気持ちや立場を優先して貰えるだろうって考えたのは、これのついでだとは思うけど」
「その通りだ」
「……その煽りを受けて、聡君が小笠原家から叩き出される事までは、さすがに想像していなかったけどね」
「人生って物は、予測がつかない事があるから楽しいんじゃないか?」
「自分が楽しんでいられるうちはね」
漸く自分を取り戻したらしい清人が、笑いを堪える口調で真澄に同意を求めると、彼女は小さく肩を竦めた。そして再び茶碗に手を伸ばしてぬるくなったお茶を一口飲んでから、密かに気合いを入れて茶碗を戻す。
「それで、ね。清人」
「何だ?」
「あの人に関しては、私からもう一つ、言いたい事があるんだけど」
「分かった、この際だ。どんな事でも全部聞くから、遠慮なく話してくれて構わないぞ?」
瞬時に真顔になって居住まいを正した清人に、真澄は真剣な表情で口ごもりながら訴え始めた。
「その……、さっきもちょっと言ったんだけど、私、由紀子さんの事を全面的に許したわけじゃないし、以前程嫌いでは無いけど全面的に好きと言うわけでもないし……。要するに、今後も嫁姑の関係を築くつもりは一切無いの」
「良く分かってる。さっき真澄が俺に言った様に、無理をする事は無い。俺も押し付ける気は無いから、安心してくれ。真澄が気を遣う事は一切無いぞ?」
力強く頷いて言い聞かせた清人だったが、真澄は幾分困った様な顔をして、何を思ったか急に言葉を濁した。
「それは分かってるんだけど……。まあ、嫁姑の関係で無かったら良いかなぁって、思わないでもないから……」
「真澄? どうかしたのか? 何が言いたいんだ?」
不審に思った清人が、俯き加減になってしまった真澄の顔を覗き込む様にしながら声をかけると、真澄はそんな清人から視線を逸らしつつ、ボソボソとある事を口にした。
「その……、だから、由紀子さんと嫁姑として接する事は無理だけど……、ちょっと年の離れた友人同士とかの関係なら、なれない事も無いんじゃないかな、って思ったのよ」
「……真澄?」
想像もしていなかった事を言われ、驚いて軽く目を見開いて自分を凝視してくる清人から視線を逸らしつつ、真澄は更に続けた。
「清人は外見はあの人似だけど、あの人は清人程性格は悪く無さそうだし。性格極悪な清人と夫婦としてやっていけるなら、あの人との友人付き合い位、何でもないんじゃないかと思ったの。……ただそれだけで、別に深い意味は無いんだから」
静かにそう言ってプイと顔を背けた真澄を眺めた清人は、密かに既視感を覚えた。
(何か、以前にどこかで、同じ様な場面が無かったか?)
そして大して悩まずに、ある事を思い出す。
(ああ、そうか。総一郎さんが、親父と香澄さんの遺骨を纏めて持って来いと言った時の表情と、今の真澄の表情が似ているんだ)
それに思い至った清人は、自分とこれから生まれてくるであろう子供の心情と立場を考慮した上で、真澄が最大限に譲歩してくれた発言である事を理解した。そして何とも表現し難い微妙な顔付きをしている真澄を見やって、清人は思わず失笑する。
(本当に、色々陰で気を遣ったり心配するくせに、素直じゃ無いな)
最近、二人の結婚披露宴の招待客の名簿作りを始めた際、親戚会社関係を際限なく招きかねない勢いだった雄一郎と玲子に向かって、「こんな貧相な男と真澄が結婚したなど、恥ずかしくて披露する気にもならんわ」と総一郎が毒舌を放ち、真澄と一悶着あったのだが、これは総一郎なりに、縁戚が皆無で職場などの繋がりの無い清人の側の列席者が、新婦側の列席者と比べて極端に少なくなるであろうと思い至った上での憎まれ口で、裏を返せばあまり招待客を増やさずに済まそうと言う配慮だろうと察した清人は、気を悪くしたりはせず黙って話を聞いた上で、「取り敢えずこちらもこれだけの人数は呼びたいので、これ位の人数で合わせてお願いします」と余裕で頭を下げた経緯があった。
(本当に、率先して動きたがる割には自分の事は後回しで、肝心な所で結構不器用で素直じゃ無いからな。だから周りの人間に、なんだかんだ言われながらも、好かれるんだろうが。だからか? コソコソと清香の様子を窺っていた頃から、なんとなくお祖父さんの事を嫌え抜け無かったのは……)
そんな事を思い返しながら、しみじみとした口調で清人が言い出す。
「なあ、真澄……」
「何?」
「真澄はやっぱり良い女だな」
「当たり前でしょう? 今頃気が付いたわけ?」
些か皮肉っぽく笑い返した真澄に対し、清人は満面の笑みで断言した。
「いや、改めて惚れ直したんだ。そして真澄はツンデレで、お祖父さん似だ。たった今、そう確信した」
「は? 何よそれはっ!?」
目を丸くして反射的に声を荒げた真澄に、清人が不思議そうに尋ねる。
「真澄は、お祖父さん似だと言われるのは嫌なのか?」
その問いに、真澄はうっと言葉に詰まり、弁解がましく呟いた。
「……い、嫌じゃ無いわよ。小さい頃から口やかましいけど、お祖母様の次に可愛がってくれてたし。今でもそうよ? 愛情表現がちょっとずれている時もあるけど」
それを聞いた清人は、笑いを堪えながら頷いた。
「うん、やっぱりちょっと素直じゃ無い所が、何とも言えず可愛いな」
「あのね!」
「なあ、真澄」
「何よ」
ここで何を思ったか、急に笑顔を一変させて真顔で声をかけてきた清人に、真澄が拗ねた様に応じたが、清人は真剣な口調で言葉を継いだ。
「お前が傍に居てくれるだけで、俺はこれからの人生、死ぬまで幸せでいられるんだ。だからお前と子供達と一緒に、常に人から羨ましがられる程、幸せなままでいてやるからな」
真剣に告げられた台詞だったが、それを真澄は軽く受け流す。
「あら、そんな事当然よ。仮にも私の傍に居るのに、辛気臭い不幸じみた顔をしているなんて許さないわ」
「承知しました。だからお願いですから、死ぬまで見捨てないで下さい。ご主人様」
「分かれば宜しい。死ぬまでこき使ってあげるから、そのつもりでね?」
まじめくさってそんなやり取りをしてから清人と真澄は顔を見合わせ、揃って小さく噴き出す。
(本当に、自分が真澄に関してだけ、こんなに諦めが悪い性格だった事に感謝するしかないな。もうとっくに、夢を見るような年は過ぎていたつもりだったんだが……)
(もう、最近では、往生際が悪いとしか思っていなかったのにね。どこがどう転がって、こういう事態になったのやら。本当に人生なんて分からないものね)
そんな風に、心の底からこの僥倖に感謝しつつ、これからの人生を目の前の相手とずっと共に歩む事と、幸せな一生を送れるであろう事を、信じて疑わない二人だった。
(完)
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