夢見る頃を過ぎても

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第36話 波乱の予兆

公開日時: 2021年4月9日(金) 16:35
文字数:4,600

ある土曜日の夕刻。その電話を受けた時、清人は柏木産業創立六十周年記念パーティーが開催されるホテルのスイートルームで、その開始時間までの時間を潰している所だった。


「すみません、先輩が今日のパーティーに出席するのは聞いていたので、今の時間お忙しいかとは思ったんですが……」

 型通りの挨拶を交わした後、かなり恐縮気味に話し出した大学時代の後輩、かつ真澄直属の部下となってからは企画推進部二課の内部情報源である城崎に、清人は怪訝に思いながら尋ねた。


「それは構わないが、今日は休みじゃないのか? 城崎」

「それが……、少し気になっている事がありまして。課長はお元気ですか?」

 それを聞いた清人が、僅かに表情に不機嫌さを醸し出しながら答える。


「今日はまだ、彼女と顔を合わせてはいないが。どういう意味だ? 職場でどうかしたのか?」

「どう、という程目立ってはいませんが、課長に最近妙に細かいミスが多いんです」

「ミス? 何か業務に支障を来しているのか?」

 顔の険しさが更に増した清人だったが、城崎は落ち着き払って答えた。


「いえ、そこまでは。十分俺がフォローできる範囲内ですし」

 それを聞いて清人は安堵しつつ、日頃真澄の補佐をしている相手の苦労を思い、短く感謝の言葉を告げる。

「悪いな」

 それを聞いた城崎は、笑いを堪える口調で返してきた。


「先輩に言われる筋合いではありませんよ。上司のフォローをするのは部下の役目です。ただし、それは仕えるに値する上司限定の話ですが」

「お前も苦労が多そうだな」

 苦笑いで揶揄した清人に気を悪くした風情も見せず、城崎は真剣な口調に戻って話を続けた。


「それで話は戻りますが、半月程前から課長が妙に考え込む事が多くなって、仕事中も上の空でいる事があるみたいなんです。十月に入ってアメリカ支社への転属話が候補者名と共に社内で公表されたので、それに関する事かとも当初思ったんですが……」

「違うのか?」

 微妙に言葉を濁した城崎に、清人は僅かに眉をしかめながら続きを促した。しかし相手は途方に暮れた様な声で、逆に尋ねてくる。


「断言は出来ませんが、何となく違うような気がして。先輩は課長のプライベートで何か、心当たりとかはありませんか?」

 そう問われた清人は一瞬ある事が脳裏をよぎったが、すぐにその内容を自分自身に言い聞かせる様に否定した。


「全く無いとは言い切れないが……、別にそんなに悩む内容とは思えんな」

「そうですか、それなら良いのですが」

 電話の向こうでは納得いかない様な呟きを城崎が漏らしていたが、話題に出た事を幸い清人が尋ねてみた。


「ところで、さっき話に出た、北米事業部長の選定の方はどうなってるんだ?」

「この間の感触としては、特に誰かが一歩抜け出た、という事は無さそうです。水面下では動きがあるみたいで、噂が錯綜していますが」

「そうか」

 慎重に考えながら現状を説明した城崎に、清人は静かに頷いた。すると城崎が多少笑いを含んだ声で付け足す様に言い出す。


「それで、常日頃色々なストレスに晒されているであろう課長が、今日のパーティーで更に変なストレスを溜めない様に、要所要所で先輩がフォローしてくれたら、休み明けに俺が非常に助かります」

 若干茶化す様な口調ながらも、真剣味溢れる城崎の台詞に、清人は思わず小さく笑った。そして機嫌良くその要請を請け負う。


「結局、それが本題か。分かった。できる範囲で気をつけておこう」

「お願いします。それでは失礼します」

「ああ」

 そうして通話を終わらせた清人は、手の中の携帯を見下ろしながら、小さく呟いた。


「半月位前から? ……まさかな」

 頭の中に浮かんだ柏木本社前での騒動を再度打ち消し、清人は隣接しているベッドルームのドアを、軽くノックしながら開けた。


「どうだ? 準備はできたか?」

 その問い掛けに、絨毯の上に特大サイズの風呂敷を広げ、その上に立たせた清香の帯を丁度締め終わったらしい玲二が、背後を振り返りながら満足げに報告した。


「はい、完璧ですよ、清人さん。思わず自分の腕前に惚れ惚れしますね」

「言ってろ。どうせ着物の女をナンパして脱がせた後で困らない様に、着付けの仕方を覚えたんだろう?」

「ひっどいな~、美容師として当然身に付けているべきスキルですよ、ス・キ・ル」

「そうだな、趣味と実益を兼ねると、上達も早いという実例だな」

「まだ言いますか」

 笑顔で憎まれ口を叩いた清人に、玲二も笑いながら言い返すと、昼過ぎから髪のセットやメイクまで施して貰った振り袖姿の清香が、改めて礼を述べた。


「ありがとう玲二さん。玲二さんも忙しいのに、わざわざホテルで手を煩わせる事になってごめんなさい。着物は慣れてないから移動だけで疲れちゃって、成人式の時に酷かったから」

 柏木家が主催者の為、流石に今は上着は脱いでいるものの、白いシャツにブラックタイ、カマーバンド着用の玲二に、清香は申し訳無さそうな表情を見せた。それに笑って応じながら、玲二がさり気なく話題を逸らす。


「気にしなくて良いよ。俺はついでだからまともな役割も無いしね。しかし清香ちゃんが疲れるからって、パーティー会場の上にスイートルームを取って着替えて下りるだけにするなんて、相変わらず過保護ですね? それに、終わったらこのまま泊まって行くんでしょう?」

「ああ。総一郎さんが、どうしても振り袖姿の清香を皆に紹介したいと言ってたそうでな。ただでさえ緊張するのに、余計に疲れる事確実だろうから」

 そう言って清人が苦笑いすると、玲二が綺麗にセットした髪の中に手を入れ、些か乱暴に頭を掻きながら溜息を漏らした。


「あ~、すみませんね。相変わらずの頑固じじいで」

「成人式の時はまだ名乗って無かったからな。大方、俺達が清香を囲んで騒いでいるのを、物陰から歯軋りしながら眺めてたんだろう。……潔く諦めて、今日は気の済むまで付き合ってあげるんだぞ?」

「うっ……、わ、分かってるから」

「本当にゴメン、宜しく頼むよ、清香ちゃん」

 後半の自分に向けられた台詞に、清香が顔をを引き攣らせながらも頷き、玲二が益々申し訳無さそうな顔をしたところで、呼び出しのチャイム音が鳴り響いた。


「あれ? 誰だろう?」

 咄嗟にドアに向かって歩きかけた清香を制し、清人が先に進んだ。

「俺が出る。清香、玲二、まだ時間があるから、ここを片付けたら茶でも飲んでろ」

「は~い」

「そうさせて下さい。俺も堅苦しい所は苦手なんで」

 そうして小物などを片付け始めた二人を残してベッドルームを後にした清人は、リビングを抜け、更にドアの向こうのバスルーム前を通り過ぎて重厚な造りのドアの前に立った。そして魚眼レンズを覗いて、廊下に立っている人物の姿を見て驚く。


「え?」

 一瞬躊躇ってから、清人は急いでロックを外し、ドアを開けて声をかけた。

「真澄さん? どうかしましたか?」

 目の前に佇んでいる、落ち着いた色調のカーマインレッドのドレスに身を包んだ真澄の姿を、思わずしげしげと眺めながら問いかけると、真澄は我に返った様に口を開いた。


「あ……、ごめんなさい。バタバタする前に渡しておこうと思っただけなの。清香ちゃんからここの部屋番号を聞いていたから」

「何をです?」

 怪訝な顔で清人が尋ねると、真澄は手にしていたバッグからリボンがかけられた細長い箱を取り出し、清人に向かって差し出した。


「これ……、全く同じ物は無理だったけど、同じ様な物を探してみたの。良かったら使って頂戴」

 中身について明確に言われなかったものの、思い当たる事は一つしか無かった清人は、僅かに驚きながら言葉を返した。


「まさか、万年筆ですか? あれは気にしなくても良いと言った筈ですが」

「それは聞いたけど……、助けて貰ったお礼と、厄介事に巻き込んだお詫びの気持ちだから、受け取って貰えないかしら?」

 控え目な真澄の訴えに、清人はこれ以上固辞する理由を見つけられず、笑顔で箱を受け取った。


「分かりました。そういう事ならありがたく頂きます。大事に使わせて貰いますね?」

「ええ、良かったわ」

 幾分ホッとした様に表情を緩ませた真澄を見て、清人も密かに安堵した。

(普通に万年筆を選んで寄越すなら、同じ万年筆を探して悩んでるとかじゃないだろう。我ながら変な想像をしたな)

 しかしそこで清人は、真澄の表情がどことなく生彩を欠いている事に気が付いた。


「真澄さん、どうかしましたか? 顔色が優れない様ですが」

 つい先程城崎から聞いた話を思い起こし、思わず心配になって声をかけた清人に、真澄は小さく首を振って静かに答える。

「別に、大した事はないわ」

「そうですか?」

(本当に、大丈夫なのか?)

 黙り込んでいる真澄の様子を見つめ直すと、ホルターネックのデザインの為剥き出しになっている肩のラインが、どことなく細くなっている様な気がした清人は、何となく胸がざわめいた。

 咄嗟に次にかける言葉を選び損ねて口を噤んだ清人に、今度は真澄が何やら思い詰めた様な口調で声をかける。


「清人君。実はここまで来たのは、ちょっと直に話がしたく」

「あれ? いつまでも戸口で誰と話してると思ったら、真澄さん?」

「姉貴? ここで何してんの? 準備とかで忙しく無いのか?」

 そこでタイミング良くと言うか悪くと言うか、リビングに繋がるドアを開けて入口付近を覗き込んできた清香と玲二が、意外そうな声を上げた。その為、その二人の存在を殆ど忘れていた清人と真澄が、揃って密かに溜め息を吐き出す。


(すっかり忘れてたな、奧に二人が居たのを)

(清香ちゃんの為に、部屋を取るって聞いたのを忘れていたわ。しかも玲二まで居るし)

 そして二人の目に留まらない様に、清人は箱をスラックスのポケットに素早く滑り込ませ、真澄は気持ちを切り替えて、いつもの口調で適当に理由をでっち上げた。


「あのね、あんたを探しに来たに決まってるでしょう? 何知らんぷりしてるのよ。さっさと下に降りてお客様のお出迎えの準備をしなさい!」

「げ、マジ? 俺、もう家を出てるんだけど?」

 本気でうんざりとした顔を見せる弟を、真澄は一喝した。


「四の五の言わないの! タキシードまで着てるのに往生際が悪い。ほら、行くわよ?」

「はぁ……、分かったよ。じゃあ清人さん、清香ちゃん、また後で」

「ああ、手間をかけさせたな」

「ありがとう、玲二さん」

 がっくりと肩を落としつつ、大人しくクローゼットに掛けてあった上着を着込み、真澄の後に付いて歩き出した玲二を見送ってから、清人と清香はドアを閉めて室内に戻った。


「お兄ちゃん、真澄さんと何を話してたの?」

「別に……、単なる世間話だ」

 歩きながら素っ気なく応じる清人に、清香が興味津々の表情で尚も問い掛ける。


「わざわざここまで来て、単なる世間話をするの?」

「そういう時もあるさ。さあ、俺達もそろそろ会場に移動するぞ」

「はぁい」

 そうして先程真澄から受け取った箱を密かにボストンバッグに仕舞いながら、清人はクローゼットに掛けてあったスーツの上着を取り出して身に着けた。それを眺めながら清香は一人密かに含み笑いを漏らす。


(う~ん、夏以降、何となくお兄ちゃんと真澄さんの接触が増えてる気がする。今日も終わりまで顔を合わせる事になるんだし、頃合いを見てどこかで二人きりにでもなれば良いのにな~)

 そんな些か能天気な事を考えながら、清香は清人の後に付いてパーティー会場となっている大ホールに向かって、機嫌良く歩き出した。


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